第十九章 第五節 苦しむ、独り

文字数 3,575文字

 よっつめ。
 いまさら説明するまでもないが、ミユキは慢性アレルギー性鼻炎で、ジフェンヒドラミンを一日三回のんでいる。連用している。薬といえば、虚弱でビタミン剤も処方されている。そうした処方薬を、昼食後にも飲まねばならない。それは私立幼稚園のころの一年間にしても同じだったが、公立小学校ではなおさらに


 そして、しかも、ジフェンヒドラミンがゆえにミユキは、トイレが

。頻尿である。授業中でも待ったなし。こらえられない。一般的な尿意とはレベルが異なるのだ。実際のところは、小学一年の学級は「崩壊」しているので、授業中に勝手に便所――「トイレ」とは書いていない。「便所」と掲げられている――に行っても平気……というよりも、学級担任教諭がミユキにまで気を向けている余裕はなかった。教諭がひとたび「中谷くんは薬の副作用でトイレに行くことが多い」と知ってしまってからはもう、「フリーパス」。だがそれでも小学校なのだから、通常の教室授業と異なる集団行動のときもある。それこそ体育のときもそうだ。そうなるとミユキは、尿意と格闘しなければならない。どのタイミングで「トイレに行く」と申し出うるか、難しい判断に迫られながら懸命に過ごす毎日なのである。ミユキはこんなことでも日々闘っているのに、誰も気がつかないでいる。
 便所に頻繁に行き、授業時間中であればおおむね、誰もいない。独りである時間に率直にホッとする。しかし、教職員と鉢合わせになればバツのわるいものである。他方で休み時間中ともなると、ほかの生徒も居ることが多く、落ち着いて排尿もやれないでいたりする。男子なので、立ち小便が避けられない。個室に入りでもしたら、そこからイジメが展開されることは、また言うまでもないだろう。
 いや、そもそも頻繁にトイレに行く時点で、ミユキは、目立っているのだ。

。ターゲットにされる宿命にあった。ただ、小学一年の段階では組織的でも陰湿でもなかったが。しつこくはあった。粘着。
 ビタミンB2は水溶性ビタミンである。余っていると体内から排出される。トイレに行くたびに尿が黄色いのを見て、「おしっこは黄色いもんなんや」と思い込むほど、ミユキは「ビタミンカラー」の

に慣れ親しんでしまっている。
 人生のどのくらいをトイレで過ごすのか。たぶんずっと、死ぬまで、トイレがちかいんやろう。虚しいことながら、受けいれるしかない。そして、死ぬまで、トイレに行くタイミングを見計らい続けなあかんのや……。

 実際には、三つや四つでは済まない。数えきれないほどに、ほかの子どもが知ることのない問題の数々をぶつけられている。
 小学一年生。まだ何も考えていないかのように、やろうと思ったことをそのまま行動に出す。さっきあったこともすぐ忘れ、右耳に入ったことが左耳から抜けていく。そんな子どものなかに、ミユキが投げ込まれている。ひとりだけ、大人。そのことを教職員すらもまともに理解していない。身体は子ども、頭脳は大人。それが小学校に通うと現実には、こうなる。
 なにも悩みごとがないかのごとく、欲求だけの不満ばかりをあらわにする子どもをよそに、ミユキだけ、わずらわしさを抱え。一刻一秒、一挙手一投足。
 これがミユキの小学校生活。居てはならないところに入れられた。無理なのに、その無理はミユキだけが承知で。すり抜けるように日々をやり過ごす。毎日が地獄。その刑期は六年間。

「学校に行きたない」
 そう云っても、「行かなあかんぞ」「行かなあかんねんよ」となってピシャリ。選択肢はない。だから本当は登校拒否。それでも、不登校を許してくれるような親ではない。父親タカユキはすぐ激昂する。その瞬間湯沸器の

が入ってしまわないように引き下がらなければならない。ひとたびはじまるとどうなるか、それはたびたび繰り返されている。虐待。DV。「おまえの育て方が悪いんやーっ!」バーンッ! 母ケイコにも。
 また、「なんで学校に行かなあかんのん?」
 学校の授業でやることは、とりわけ国語算数理科社会は、ミユキにとっては低レベルで、いまさらのことが多い。教科書を読めば済む。その教科書も一学期早々に読み終えている。
「社会勉強や」「オトナになるには集団生活を学ばなあかん」
 そう云われれば否定のしようがないのだ。社会人になるために、つまり社会に馴らすために、日本社会が用意したプログラム。それはそのとおり。真実なのだ。これが日本の学校教育。社会適合者に、ちゃんと

人間にするための教育。そしてそれが小学校だけでも六年間。途方もない。

 そうこうしているうちに小学一年の夏が来れば、プール開きになり、水泳の授業も始まった。
 小学生の体格は、一年生と六年生ではとんでもなく異なっている。競泳サイズの二五メートルプールがあっても一般的に、一年生を入れて無事で済むところではない。だから低学年向けの浅く小さなプールも設置されていた。
 当時の学校のプールは、もちろん今からみれば時代錯誤なものだ。
 いわゆる腰洗い槽、「カルキ」すなわち次亜塩素酸、つまりは塩素系殺菌剤に、下半身を浸す。それをプールに入る前に行う。それは身体によくないことは明らかなのだが、それでもかつての「伝染病」予防の発想がまだまだ根強くあった。実際に貧困の家の子は健康状態も衛生状態もよくなく、寄生虫やら病原体やらが出てきてもおかしくはなかった。いや、今もまた、そうなってきているのかもしれない。
 そしてまたこの、カルキくさい、冠水したアンダーパスみたいなところ、そこに入りわざわざ屈んで尻を()ける姿がどうにも、間抜けで恥ずかしいものである。だからまた、子どもには物笑い(ぐさ)だったし、イヤなものだった。
 それにしても、どう考えても身体に、悪い。しかし「こんなことにも耐えられない子は出来ぞこないだ」と言わんばかりのもので、子どもは、とりわげ日本男児というものは、丈夫でなければ、

。丈夫に育てなければ

。そういうものらしい。しかしこうした小学校生活の端々が、心身の感覚がシッカリしているミユキを傷つけていく。プール授業の塩素系殺菌剤、というか、漂白剤といってもいい、しかしこんなものも一例に過ぎない。
 さて、プール授業の終わったあとには水道水で目を洗う。専用の洗い場があり、両目を同時に洗えるように専用の蛇口が設置されている。
 なにもかもがまるで、特注品だらけで、学校とは不可思議な世界。そこに多額の費用がかけられている。公共事業なのである。
 プールに入る前に校庭に整列させられる。そして水着は、女――ジェンダーが、ではない。戸籍上の性別が、である――は、ワンピースで胸を隠すが、男はパンツ一丁。それがいずれにしても、その全裸に近い姿で、屋外の校庭で(さら)される。それは異様で、こうして非人間性を叩き込まれる。学校教育とは、屈辱的なものである。なんなんやろう。それなのに多くの子は疑問にも思わず、当然のこととして刷り込まれていた。
 プールの季節以前に健康診断でもあろうものならば、女と男で教室を分けて更衣する。本人の自己認識と関係なく、戸籍上の性別で区分され、それで同性同士ならば下着のみでほぼ()(ぱだか)。小学一年の子どもとなると、着替えにも親の教育結果が表れて、自力で着替えるのが苦手な子もいるし、ためらいがちな子もいる。着替えなんていうものはおおよそ自己流で、生徒間でかなりの差異があり、他人の着替えに興味津々(シンシン)なヤツもいて、ときに揶揄(ヤユ)や噂がはじまる。
 さらに水泳ともなれば、下着と水着のあいだで着替えなければならない。男子連中は、いかに

を見られないように着替えるか。「攻略法」を研究するヤツ、伝授されたヤツがいる。「アニキに教わったんやで」、学校には入る前から公共プールや海水浴場に家族ぐるみで連れられている「頭使うよりも身体を動かす」方向で早く成長が進んだ子。「秘伝」の自慢。大したことはない。穿()き替えるものを先に片脚だけ穿いてから、もとを脱ぐ。

のをいかに一瞬で済ますか、そんなことに懸命になる。それが真似され、それが二年や三年ともなればクラスの全男子にひろまって「秘伝」でもなんでもなくなってしまうのである。小学生というものは、どうにもバカバカしい。低俗だった。学校で、ミユキだけが、浮いている。自分だけ知らないのも気にかかるけれども、しかしわざわざ訊くほどに他人と関わりたくもない。

 とにかくである。プール授業。ミユキは親の方針で、アレルギーを理由にして幼稚園では見学させられていたもの。しかし、そしてまた親の方針で、小学校では「プールデビュー」を強いられた。それはただ水に入る、ということではない。学校は、ミユキをむしばんでいく。
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