第十九章 第三節 生水警察

文字数 3,515文字

 それにしても給食というのは、不可解で異様な儀礼である。
 給食の準備や片づけにしてもそうだが、給食の前になると全校生徒が一斉に手を洗わなければならない。強制なのはまだしも、一斉に、である。
『てーをだっしてごっらっん ほーら きたないて』全校放送で流れ出す。
『てーをあっらあいっまっしょ ハーイ せっけんでっ』
 これも例のごとくジェンダーバイナリの男性と女性で、例のごとく小馬鹿にしたような奇怪な歌い口なのも、あいかわらずである。「放送委員」というのがある。放送委員の生徒が、この校内放送も担当しているのだろう。やらなければならない。
 この学校では、石鹸(セッケン)もあって雑巾(ゾウキン)などを洗うときには用いるが、ほぼ給食前の手洗いにかぎっては、液体の手洗い用洗剤、俗にいうハンドソープ――青緑に着色され、使用時には半透明の容器に詰める、あれである――を、なぜか、用いることになっている。おそらくは、衛生面でそのほうが効果が高いとでも考えていたのだろう。片手に持って容器を押し、もう片方の手に洗剤を出して、手を洗うのである。そんな光景が月曜日から金曜日まで、給食のある日には毎回、くりかえされる。
 そんな手洗いと、それを(うなが)す放送も、謎の儀式なのである。

 さて、給食だけでも大変な苦しみだったのだが、いうまでもなく、それだけで済むものではない。
 ふたつめ。
 勝手気ままに横暴のきわみを展開する子どもに振り回される。関わりたくもないのに、巻き込まれてもみくちゃにされることすらもある。「問題児」はいるもので、そいつに目をつけられて、くり返しちょっかいを出される。いわゆる「からまれる」。
 そうした「ちょっかい」は往々にして、「じゃれている」と教諭(キョウユ)や周囲からは認識される。しかし現実ありのままをいえば、「いじめている」。
 ミユキは小さな大人。彼らよりもずっと老成している。だから、やられてもやり返さない。グッと、こらえている。ジッと……。私はコドモやない、と。
 やられたらやり返すのでは、どっちもどっち。コドモの仲間入りなのである。
 そしてまた、やられたらやり返すのでは平和にはならない。永遠に。人類の愚かしさと、過ちと。それがミユキには解っていた。
 お母さんを悲しませたくない。お母さんが偉いと言うお父さんに恥をかかせたくない。
 ミユキはもう、立派だった。そこいらのオトナの想像を絶する。
 そのそこいらのオトナからすると、ミユキのことをこう思う。ヘンな子。気味が悪い。
 そしてまた、同年代の子どもとも知能があまりにも異なっていて、コミュニケーションスタイルが合わないのである。同年代の男子のコミュニケーションこそつまり、ちょっかいを出す、じゃれる、からむ、なのだ。
 不幸な行き違い。ここは、本当は、ミユキがいるべきところではなかったのだ。こんな、小学校というところは――。

 ミユキは身体の感覚も鋭敏で、だからまるで、嵐のなかに落とされたハムスターのようなものだった。
 子どもの雑談も騒ぎも、耐えがたき轟音(ゴウオン)。叩かれたりでもすれば、痛みが人一倍に強く感ずる。おそらく脳のできが異なっているのだろう。
 虐待を受けてきたミユキにとって、他人に触れられることも恐怖で、不潔で。そんなミユキを見ても、周りのオトナは、「育ちがよすぎる」いわゆる「温室育ち」の子だと(とら)えて誤解している。つまり教諭らからしてもそのように映ったのである。そしてそれは――先回りをして言えば――小学校低学年時代にとどまらず、ずっとずっと。ミユキは勝手に誤解され続ける。

 ある日、こんなことがあった。
 学級の問題児に、その日もミユキは目をつけられていた。
 休み時間のことだっただろうか、それとも給食前後だったかもしれない。その男児は何を考えたのか、いや、何も考えていないのだろう。この歳ごろの者はおよそ、本当に、まともな思考能力なぞないし、わけのわからないことを言い、わけのわからないことをするものである、ミユキを除けば。
 それで、手洗い用の洗剤を手に持って、勢いよく洗剤をミユキの顔めがけて噴きつけた。
 危ない行為だ。目に入ったらどうなっただろうか。本当に、何も解っていないのだ。
 幸い、目には入らなかったが、いや、少し入っていたかもしれなかったが、とにかく顔半分に、(ほほ)を中心に洗剤が付いた。ベッタリと。
 この子は、何がなんだか解らずにやっている。子どもというのはそんなもんや、とミユキは解っている。
 この量では、顔に付いたこれは判らないかもしれない。でも、周りから見て気づくような緑色に顔がなっているような気もした。とにかく顔を洗わないといけない。この洗剤を洗い流さないと……。
 しかし、何があったのかを周りに知れると面倒なことになる。この子が責められることになるかもしれない。きっと。
 ミユキは、大人なのだ。ミユキには、やり返すという発想がない。そもそも、まず洗剤を流さないといけないのだから、やり返している暇なんぞなかったのだが。
 それでミユキはどうしたかというと。男子便所に入った。そこには、掃除に使うためであろう、大きな「流し」がある。ステンレスではなくて、白い陶磁器の、洗面台を大きくしたようなものが。本来は顔を洗うためではないから、「洗面台」ではない。その、本来は顔を洗うためではない、洗面台ではない、だったら何と呼ぶのかは知らないが、そこで顔を洗ったのである。
 出てきて、何くわぬ顔で、なにごともなかったのごとくに戻ってきたはずだったのだが――。
「なまみずのんでたー」騒ぎ出す生徒がいた。
 ミユキが顔を洗っていたのを、中途半端に目撃したらしい。なにせ中途半端なのが、顔を洗っていたのが判らずに、水を飲んでいると誤認したところである。
 さて「生水(なまみず)」というのだが、レッキとした大阪市水道局の上水道水である。浄水され、塩素系殺菌のされている。しいていえば、生水だから云々(ウンヌン)というよりも、トイレだから不衛生だ、とでもいうべきだったろうに。しかし、戦後も昭和六〇年前後にもなってもなお、「生水は不衛生だ」という観念も定着していたものだった。飲用にするならば沸かせ、と。
 いや、そもそも、である。誤認というよりも、最初から予断をもって見て、思い込んだのだろう。
 けれども、人間というのはこうも、ものごとを予断をもって見て、つまりいわゆるバイアスをかけて見て、それでいて自覚がなく、事実を間違えて思い込むものである。自覚がないから、間違えた事実を「真実だ」と思い込んでいる。
 その騒ぎが同級生に口々に伝わる。
「いーややーこーやや、せーんせーにゆーたんねん」
 上級生の真似をしたのか、そんな言いまわしを学習した子どもが、いわば鬼の首でも獲ったように、大声で揶揄した。
 飲んでへん! と否定するミユキ。けれども、誰もミユキを信じようとしなかった。
「だったら何してたん?」
 そう問われると、答えかたに困ってしまうからだ。顔を洗っていたという真実を云えば、今度は、なぜ便所で洗っていたのか、という問題になる。つまり行き着くところは、

られるのは件の男児になる。そんなわけだから、それはミユキの本意ではなく、なにもかもがムダになってしまう。
 なにせ小学校で便所というのは、厄介なところだ。
 手や顔を洗うのであれば、いわば流し場がある。石造り、といっていいのかわからないが、小さな砂礫(サレキ)を黄色か橙色かのようなもので固めたような、水道の蛇口の並んだところがある。しかしそこではなくて、人知れず、誰の目をも避けて、便所で顔を洗わねばならなかったのだ。
 その便所というものは、必要不可欠なものであるにもかかわらず、「きたないところ」と理解され、小学生らからは揶揄(ヤユ)され、もの(わら)いの種にされる。そして男子ならば、個室に入りでもしたものならば同級生らから盛んに言いふらされ、「うんこしてたやろ」とバカにされ「バッチィ」とイヤガラれ、イジメが展開される。それが、小学校の便所のポジション。
 そんなだから、便所に隠れて顔を洗っていたミユキのことを()しく騒ぐのも、それほど意外なことでもなかった。目撃されたこと、それが失敗……。ミユキは思った。もっとうまくやるべきやった……。といっても、やはり、洗剤を急いで洗い流して証拠を消し去るのに、慎重に計画的にもない。

 「なまみずのんでた」「せんせいにゆーたんねん」
 人間の本性。
 権力になついて、規範をふりかざして、自分自身をいい子に見せようとする。優等生であろうとする。ああ、ぼくはなんて善人なんだろう!
 そんな人間にミユキは費消される。
 被害者は、受ける。さらなる追いうちを。
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