第三章 第二節 孤立家族の新生活

文字数 3,210文字

 新生活である。新居が欠陥住宅なのもおいおい目立っていくが、引越したからには新居を基盤にした生活を立てなければならない。むしろ引越した当初はまだ幻滅に乏しかったので、悲喜こもごもになっていく前の「喜」のほうが大きかった。
 中学生のミユキは、学校への住所変更の届出があるのはさることながら、通学経路が変わり定期券も改めることになった。長距離通学である。電車と路線バスの乗継ぎで、普通運賃でみると片道が千円を超える旅程。定期券は、中学生が購入するにも携帯するにもおそろしい金額になった。父親は六か月定期券を買えと指示したので、とりわけ高額だった。
 新たな生活基盤を組まねばならない。買物も、医療機関も、理美容院も。普段は気にしていないことも、新生活となると依存していたことに気づかされる。
 家財の多くは旧居から引続き使ったが、一部は新たに買うことになったから、家族三人総出で地元の電機店やショッピングセンターを「開拓」することになった。こういう作業は感じかた次第では面倒くさいことでもあるが、好奇心を駆りたてられる探検でもあるものだ。
 東播は「ベッドタウン」としての開発が始まっていた。いわゆるバブル期以降に産業の国外移転が進んだため、元工場の遊休地がショッピングセンターになったりしていた。バブルは崩壊が進んでいたが、妙な華やかさも残った地域だ。家族三人もその浮かれた気分を浴びた。それに父親は、自身の決断が正しかったと家族にも自らにも思い込ませようとするためだろう、意識的に新生活を愉快に振る舞った。ケチだが極端な気分屋でもある。大晦日には面白がって近所の寺院へと妻を引き連れ除夜の鐘をつきに出かけたくらいである。彼に信仰心なんてものはないのでただ単に(ソウ)状態だっただけである。そんな父親にミユキはあきれ、家に残ったが。
 世間にはバブル期の残り香があり、有能でもない彼でも収入はそれなりに高いから、買物や外食に散財する余裕もいくらかはあった。近所にも外食店を見つけて、妻の家事を休ませるために毎週のように食事に出かけた。ずっと住み続ける気でいたので、既に亡くなっていた父親のため、すなわちミユキにとっては祖父だが、同じく東播に新たに造成された墓園に墓地を購入したほどである。しかしこればかりは見通しが甘かったといわねばならない。
 このころ、ミユキの母親は家事専業だった。ミユキが夏休みのときなどには幼い頃と同様に二人でショッピングセンターや百貨店に買い物に行くことも多く、昼食や喫茶もしたものであった。

 ところで、収入や新生活整備の勢いをかってということはあったろう、ミユキの父親はパーソナルコンピューターを自宅に買った。デスクトップパソコンである。当時はパソコン本体もディスプレイモニターなど周辺機器も、パッケージソフトウェアも高額だった。本気で揃えれば百万円してもおかしくなかった時代である。
 ミユキがパソコンを欲しがったというのは大きかった。小学生の頃にも、父親がマイクロコントローラーいわゆるマイコンを会社から持ち帰ってみたり、シャープのワードプロセッサー専用機「書院」も購入してみたりしていたし、任天堂の「ファミリーコンピュータ」が発売されていた時代だ。
 人々はミユキを外見や年齢で差別する。機械はミユキを差別しない。ミユキはコンピューターに関心をもっていたし、「書院」で文章を書いたり小説を書いてみたりすることもあった。「ファミリーベーシック」でプログラミングに手を出したり。小学校の職員室にあった「富士通OASYS」は憧れだった。
 中学校でも、かりに部活に入るならばパソコン同好会に入りたいと思っていたものである。しかし結局は対人関係に危険があるので、入学時にも部活には入らず、ましてや通学が長時間になったいまは物理的にも不可能になっていた。新居近辺は勝手を知らない。私生活や趣味がますます自宅で完結するものになるのも必然である。ミユキが「パソコンを買って欲しい」というのも、もっともなことだった。
 とはいえ、父親は玩具としてパソコンを購入するつもりはなかった。おりしもオフィスオートメーションすなわちOAが進んできた時代であり、将来の仕事のための教育に、と考えたのである。そこで、購入したのは主にビジネス用途である、日本電気のPC-9801シリーズ。これは自身も仕事で使う前提だった。パッケージソフトウェアも必要最小限にし、「MS-DOS」や「N88-日本語BASIC(86)」「一太郎」のほかは、アートディンクや光栄などのゲームソフトウェアが数本程度だ。それ以外にはオフィス用ソフトウェアもプログラミングソフトウェアも買わない。それでも、本体や周辺機器を含めて五十万円はしたものである。
 実際に結果としてみても、その後にいわゆるIT化が急速に進んだのに対して、先行することに成功したといえる。封建的で愚鈍な父親だったとはいえ、この点では先見の明があったといえた。もっともそれは、職場で社会動向を感じ取っていたからにほかならないが。
 そしてこのパソコンとの出逢いは、ミユキの人生のうえでも決定的な、極めて重要なことになったのである。ミユキは、ゲームばかりするわけではなかった。「一太郎」と付属の「ATOK」で文書作成もする。電波新聞社の「マイコン」や「マイコンBASICマガジン」が愛読雑誌になり、プログラミングでも遊んだ。こうした経験は将来に確実に活きてくることになったのである。

 同時に、ミユキが部屋に閉じこもりがちになったのも、いうまでもない。
 そもそも大阪の旧居では3LDKで三部屋のうち二つが、いわゆる和室だった。他方の洋室を父親の書斎ということにしたならば、ミユキに自室が用意されても、扉ではなく(ふすま)なのでプライバシーがなかった。それが新居では4LDKで、二室が洋室になったから、ミユキの自室も洋室でプライバシーができたのである。おりしもミユキも中学生になり、プライバシーを強く意識するのも当然のことだ。扉を閉じて過ごすのも、なにもおかしいことではない。これは「親離れ」ともいえる。母親を大していやがったわけではなく、むしろ単にプライバシーが欲しかったのだ。
 ただ、ミユキが「親離れ」をしようとしたのに対して「子離れ」をしきれなかった母親は心理的にショックを受け、困惑していた。三人家族であり、夫が出勤し、ミユキは学校に通う。さらに我が子のミユキが自宅でも部屋に(こも)り、母はますます孤独な時間が増えることになった。

 さらに、ミユキが部屋に籠りがちになった原因はパソコンだけではなかった。自室にテレビが設置されたからでもある。幼い頃からずっと世の中を憂えていたミユキは、将来は東京の大学に進学し、東京で社会活動をするつもりでいた。テレビでニュース番組やアニメなどを視るようにした。それは、他人から悲惨な扱いを受けてきたミユキが、テレビを参考に社会や対人コミュニケーションを学習しようとしたからでもあった。しかしそれだけではない。いわゆる「標準語」の習得のためである。テレビアナウンサーも、いわゆる声優も、「標準語」をマスターしている。大阪のテレビ局でもニュース番組などでは「標準語」で話すことが多い。
 テレビアニメをよく視るようになり、ときにはカセットテープに録音して聴き、のちにはVHSに録ってでも繰り返し視聴するようになった。だから、ミユキが役者という職業や、アニメという表現技法について強く関心をもつようになったのも自然な成りゆきだった。役者になりたい、とまで思いもした。アニメを制作して社会啓発をしたいとも考えるようになった。脚本や音楽にも関心をもち始める。
 「標準語」は必要不可欠である。ミユキは、日常的に意識して頭の中の思考まで「標準語」を徹底し、大阪弁との「バイリンガル」になっていた。
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