第五章 第三節 母親の退院

文字数 3,631文字

 ミユキの祖父の趣味は絵画である。休日にはベレー帽を被ったりする。ミユキが暮らしているあいだの休日にも少し、油絵を描いたことがあった。しかし油彩は水彩に比べると人体への有害性が高く取扱いに注意が要るから、ミユキには祖父が油彩を描いていたのを見た記憶は一、二回くらいしか思いあたらない。油彩をやれば、絵の具からも筆洗いからも独特の異臭がする。しかし祖父母の家の中は、衣服に染み付いたものなのだろうか、いつも香料の混じったような独特の匂いがしていて、ミユキはよく憶えている。やはり、油彩をあまりやらなかったのだろう。
 祖母は、新聞の折込チラシを溜めていた。メモ用紙に使えるからでもあったが、ミユキたち孫の遊び用である。ミユキもいとこもそれで絵を描いたりしたし、紙飛行機を折ることもあった。折りかたは祖母が教えてくれた。そののちにしても、折り紙やお手玉やおはじきなども祖母が教えてくれたのである。

 祖母の母はまだ存命だった。ミユキの(ソウ)祖母だ。ミユキの曾祖父母のうち、ミユキが生まれたときにも存命だったのはこの一人だけ。ただ、曾祖母は高齢だが大阪の下町の一軒()で暮らしていて、親類が(かよ)って面倒をみていた。会いに行かないかぎりは、顔を合わせることはない。ミユキの母親が入院しているあいだにも、ミユキは連れられて、伯父や叔父の自動車に乗せられ、曾祖母に何度か会いに行った。車なんかで行くから、ミユキにはこの家がどこにあるのか、地理が全く判らないままだった。この家柄は戦前、地元では名の(とお)った商家(ショウカ)だったらしい。もう跡を()ぐ人もいなければ、継承する事業だって、ない。
 七十代は長生きである。こんな歳は、ミユキには感覚的につかめない。そんなミユキは、この「ひいばあちゃん」を(した)っていた。曾祖母はもう身体が衰えていて、寝床にいる時間が長かった。家の奥の一段あがったところが畳敷きの部屋で、そこに敷いた布団に寝ている。会いに行ったときには、親類たちはしばらくは滞在しているが、面会が一通り済んだら一段さがった手前の部屋で歓談して過ごしてから帰る。そのあいだもミユキは、曾祖母の寝ている布団に潜って過ごす。どうせ、親類の話に加われない。待っている時間がしようがない。曾祖母は、曾孫のミユキが近くにいるのを喜んでくれる。愛しい愛しい、ひ孫なのだから。それに、曾祖母の布団のなかはまるで、母親の胎内にいるかのような気がした――。

 ミユキの母親は、入院してから半年近くが経っただろうか、やっと退院することになった。入院日が計画的だったのと比べると、退院時期は本人の状態をみながらも、入院費用を少なく済ませたいという思惑のもとに、計画的ではなく中途半端な日になった。両親がともに祖父母の家にやってきて、三人で自宅に帰る。
 祖父母のもとに来たときよりも、帰るときの荷物は減った。ミユキは心身ともに成長の早い時期だから、使わなくなるものもある。例えば歩行器にしても、とうに乗らなくなっていて、いとこへの「おさがり」になっていた。そんな減った荷物とともに、叔父が車で三人を乗せて送り届けた。今回なぜ伯父ではなく叔父だったのかというと、退院日に時間の都合がついたのが叔父だったからだ。

 叔父は、催しものやテレビ番組制作の現場などで「美術」や「大道具」を担当している。だから彼は、広い意味では「テレビ業界」にいる。雇用はされておらず個人事業主、いまならば「フリーランス」ともいうところだろう。その職業(がら)で、日曜日にも仕事が入ることが珍しくない一方で、世間の平日に仕事がないこともあったりと、不規則だ。「時間に融通が利く」といえなくもない。
 次男である叔父の職業は不安定だ。他方の長男のほうは、建築士の父親の跡を追うように建設業界に進んで、会社員をやっている。両親をはじめ親類などからは「兄は真面目でしっかりしている、弟は遊んでいる」と思われていた。ただ「弟は、父親の趣味のほうに影響を受けたんやね」とも評価されていた。世間的によくある「長男はそういうもの、次男はそういうもの」という固定観念と同じだろう。実際には親のほうが、こうなるように育てたのだ、といわねばならない。
 しかしよく考えてみれば、「美術」「大道具」も、建築ではないにせよ、造る仕事である。そうしてみると、ある意味では父の職業を追いかけたようなものである。内装工事業に近いかもしれない。しかも、彼は現場で、自分の手で造っている。さらにいえば、設計書を用意されることもないだろうし、反対に設計だけ書けばいい仕事でもない。それなのに彼は、弟の立場だから、収入が不安定で社会的信用が低いから、「遊んでいる次男坊」の印象にあえて合わせるよう、ヘラヘラと笑って、おどけてみせて、いつも過ごしていた。人当たりがよい。きっと仕事でも、人間関係が上手いのだろう。周りの親類は、実の親でさえも、彼を見くびっていた。
 みな表面的には(ほが)らかで、一見するとうまくいっているようにみえる、ミユキの母方の親類関係だ。簡単にいえば「いい人ばかり」である。しかし実際には、親子や兄弟の間にさえも立場や価値観のズレから誤解があって、なにかしらのわだかまりが生まれ、しかもそれは少しずつ少しずつ膨らんでいこうとしていた。

 親子三人で伯父や叔父の自動車に乗せてもらうときには、三人とも後部座席に座る。小さいミユキはきまって中央だった。本来は二人がけの座席で、中央は床もせり上がっているのだが、またがるようにして座る。
 そこからは、運転席のギア・トランスミッションのレバーが見える。当時はまだ二人とも、マニュアル・トランスミッション、つまりMT車だった。運転者がレバーを操作しているところを、ミユキはきまって眺めていた。それと、運転席のメーターや、右左折するときの方向指示器のインジケーターと。カチ……カチ……という音と。

 ミユキは、自動車に興味がないわけではない。祖父母の家でもテレビを見ていると、番組のトークコーナーで、司会の笑福亭鶴瓶(つるべ)がタクシーの運転手という設定で、ゲストと話していた。タクシーの車内の会話という趣向だ。当時の映画やテレビでも、「二重うつし」という手法ならば存在する。動く景色の映像を背景に入れれば、走る車内のように見せかけられる。鶴瓶がハンドルを持って運転する素振りをしているのを見ていて、ミユキも祖父母の家にあるマッサージチェアの回転ハンドルを持って真似て遊んでみたものだった。
 そんなミユキだが、自動車に乗るのはどこか苦痛なのだ。それを、祖母は「乗り物酔いやね」という。そうかもしれない。祖母も、乗り物酔いがあるという。動く景色や揺れが気持ち悪いのもたしかだ。しかし、本当に気持ち悪いのは、騒音や振動と、独特の悪臭だ。

 ミユキがもっと幼かった頃、交通事故に遭ったことがある。父親が所有する軽自動車を運転していて、その車に母親と三人で乗っていた。そこに、追突されたのだ。当時はチャイルドシートなんて備わっていなかった。母親がミユキを抱いていたのである。そんな危機一髪の交通事故があってからは、父親は自家用車を手放して再び購入することはなく、自動車を借りたりして運転することさえもしなくなった。
 秘密主義者なので、運転するのをやめた理由もほとんど言わない。追突事故はほとんどの場合が、追突したほうの一方的な間違いである。しかしもしかすると、父親は自分の運転技量に自信がもてなくなったのかもしれない。それにそもそも、彼は人間不信が激しく両極端な行動をとる男なので、自分も他人も含めて人間の運転能力自体を信用しなくなったのかもしれない。それとやはり、「万が一にも」と事故を怖れて怯んでしまったのである。最初から運転なんてしなければ、自分のせいで事故が起こることはない。あと、お金が惜しかったのも間違いない。百パーセント相手方の過失で賠償が取れたとしても、事故処理に巻き込まれるのは面倒で「もう勘弁してほしい」と思ったのだろう。
 その事故体験は、ミユキの頭の中にもどこか無意識に記憶されている。おそらくその体験もあるから自動車に乗ると、本能的に無意識に恐怖感や不快感を覚える。両親も祖父母も自家用車を所有していないが、親類の車などにたまに乗せてもらうと、それがよみがえるのだ。
 そうしてみると、きっと祖母の「乗り物酔い」の原因にしても、戦時中の空襲の記憶もあるからなのだろう。多感な十代だった。防空警報や爆撃機の騒音や空爆の、日々の決死の記憶はこびりついているに違いない。

 ミユキは両親とともに自宅にようやく帰ってきた。もう、もうすぐ三歳だ。誕生日の少し早い母が、一足お先に歳をとった。自宅マンションに着いて、閉まった玄関扉を振り返ったとき。ミユキは自分のことなんかよりも母親の、その一つ歳をとったことについて、感慨にふけっていた。「もうそんなにたったんや――」
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