第九章 第二節 涙のリクエスト

文字数 3,659文字

 ある日、こんなことがあった――。
 母親と祖母と、三人で外を出歩いていたとき。ミユキはいつものように、独りで考えごとをしていた。国道の横断歩道で信号待ち。信号が変わるので、車道を走ってきた黒いタクシーが一台、停止線でとまった。「個人」というサインが載っている。
 法人タクシーというものは知っている。ホウジン。親に教わった、「法人というのは、会社のことや」と。本物の人ではないけど、法律で人と同じように扱われている。
 では、コジンっていうのは、なんなんやろう? 漢字は読めるが、言葉の意味が問題だ。「()(ひと)」って? 本物の人間は一人なんやから、「個」なのは当然のこと。なんでわざわざ「個人」っていうのやろうか?
 ミユキはまだ、個人事業主でも事業と私生活とを区別しないといけないことを知らない。それに、「個人」という言葉はもともと ”individuial” の訳語で、歴史的に形成された用語。しかし「人はそもそも独り」、自意識がすでに高度に形成されているミユキは最初から思い知らされている。「個人」という言葉は、人間社会が造った理屈。
「個のひと、個のひと……??」独り言をつぶやきながら考えていた。
 すると突然、祖母にわらわれた。「『こびと』やて!」 爆笑。ミユキの独り言が聞こえたらしい。そして聞き間違えて、「『個人』を『こびと』と読んだんや」と勝手に勘違いをしたのである。「個人」と「小人」を勝手に連想した、自己中心的な思い込みである。しかも母親までもそれに同調して、ミユキのことをわらった。
 ――バカにされたッ……。
 みんな、年齢で差別をする。大人は子どもを見(くだ)す。
 反論をして勘違いを解こうとしても、どうやっても、信じてもらえない。くうっ、と(こら)える。それしかなかった。
 こうして「こびとタクシー」は、一生にわたって何十年間も話の種にされる

になった。
 ミユキは、尊厳を傷つけられた。
「子どもである」ということは「烙印(ラクイン)」なのかもしれない。スティグマ。どうやっても、「大人よりも劣っている」という扱いを受ける。そして、誰もが昔は子どもだったくせに、大人になったら子どもを見下す。世代を超えて代々、イジメを受け継いでいく。

 世間では、チェッカーズの人気が急上昇していた。デビューして二曲めになって、ようやくである。
 テレビでは『ザ・ベストテン』をはじめ歌番組が多くて、音楽を利用するとともに売り込んでいく。放送業界と音楽業界の密着したやりかたは、テレビでも健在だった。テレビの歌番組ではよく歌手を生出演させた。歌を売り出しているほうからしても、テレビで大々的に宣伝しているわけだ。おたがいに都合がいい。
 それにしても、恋愛の歌は多い。テレビでやっている演歌とか、もちろん「涙のリクエスト」だって。家で聴いてきた例えばアンディ・ウィリアムスとか井上陽水(ヨウスイ)とかだってやっぱりそうだから、昔から世間では恋愛の歌が多いことをミユキだって知っている。
 しかしミユキには、なんでみんなこんなにまで恋愛にこだわるのかが解らない。取り()かれている。みんな、おかしい。ミユキの両親は、見合い結婚。恋愛ではなかった。結婚というものは、生きていくために必要だから、世の中で「そういうものだ」と決まっているから、するものなのだと思う。
 それに――なんでこんなにも男と女を区別して恋愛させなくちゃ気がすまへんのやろう?
 世のなかは男と女を分断して、みんな「自分は男だから」とか「女だから」とか思い込みたがって。だからどっちかというとむしろ肝心な「自分自身」というものが、ない。そして、まるで「男と女はおたがいに解りあえない別の生きものだ」と決めつけてしまう。
 ミユキは、「涙のリクエスト」は真面目(まじめ)で切ない歌なので気に入っていたけれど、恋愛感情が解らない。愛といえば、母親に対する愛情。
 しかし「ギザギザハートの子守唄」の歌詞には納得がいかなかった。なんでこんなにひねくれているんやろうか。いくら大人からバカにされたって、自分からダメになったらあかんやろう。
 ちなみにこんな「ギザギザハートの子守唄」も、康珍化(カンチンファ)氏の作詞・芹澤廣明(せりざわひろあき)氏の作曲で、のちに岩崎良美氏が歌ってヒットする「タッチ」と同じコンビである。やさぐれた少年の歌詞を書いたのは、「これを歌わせたら売れる」と思ったからなのだろう。作詞者本人の人生経験や思いがどのくらい関係しているか、判らない。世間的にはタブーを冒している。「涙のリクエスト」のおかげで売れたけれど、「ギザギザハートの子守唄」の歌詞を気に入らなかった業界人だっていたらしい。芸術と商売の関係は難しいものである。
 それにしてもテレビは、どんどん「エンタメ化」が進んでいた。歌番組にしても、出演する歌手に歌と関係ないおかしなことまでさせてみたり。『ザ・ベストテン』だってとんでもないところに出張して生中継したりして話題性をねらっていた。当時の司会者が久米(クメ)(ひろし)氏と黒柳徹子氏の二人なんだから、いまから思うと不思議な感じがするかもしれない。久米宏氏は番組を降板してまで『ニュースステーション』に専念したので、ニュースキャスターの印象が定着したし。黒柳徹子氏というと断然に『徹子の部屋』なのだろうから。
 ミユキは真面目で、悪ふざけなんかしない。生まれ育っている環境が大変なのもあるから。まともな理由なんかなくても父親から怒られたり罰を受けたりするし。母親も、ミユキ自身も、神経質になる。テレビの悪ふざけには笑えない。

 そんなテレビも、ニュースとなると真面目になる。いや「

真面目にやっていた」というべきか。
 世界では、イラン=イラク戦争が始まって、続けられていた。八年くらいにわたって長々と続くことになる。革命が起こりイスラム主義でシーア派の政教一致国家になったイランに対して、サダム・フセインのイラクが攻め込んだ。そのイラク側をアメリカ合衆国は支援した。国際関係の「代理戦争」でもある。
 テレビでもニュースとなると、戦争の話題になる。いわゆる中東なのだから、石油と関わりが深い。日本は石油を大量に輸入して消費する側の国なので、例えば産業界の人間からしても一大関心事。
 戦争。幼いミユキには何もやれることもなく、ただ一方的に(おび)かされ(おび)えているしかない。「イ=イ戦争」にしたって戦場は中東でも、日本人の暮らしと関わっている。ましてや「冷戦」。核戦争がいつ起こるともしれない。核戦争の恐怖に、毎日毎日さらされている。あの原爆の話が想い起こされる。一瞬で影だけ残して消し飛んだ人々。全身が焼けてボロボロになって苦しみながら死んでいった人々。放射能の影響が未だに残って生きている人々。いつも、怖ろしかった。戦争をなくしたい。

 買物がえりに母親と話していた。歩いてきて、もうすぐ自宅マンションの玄関。敷地内には、芝生や植栽があった。
 もうすぐ家に帰り着く。テレビではウルトラマンシリーズの再放送をやっている。ミユキの頭のなかで、ウルトラ警備隊が怪獣と戦うシーンと、「イ=イ戦争」の空襲の様子とが、オーバーラップした。
「なんで戦争なんかするんやろう」ミユキは云った。「殺し合いなんかせんと、おたがいの大統領とかがボクシングでもやって決着つけたらええのに」
「せやなあ」母親もミユキに同意した。
 実際には、戦争というものはそう単純なものではない。お金の損得の問題だけでもなければ、資源を奪うためだけでもない。民族や宗教などで相互不信や憎悪があったり、自分を省みずにその感情を他国に向けてしまったり、さらには政治権力者が支持を集めるために他国を敵視して国民をあおったりもする。そんなこと、ミユキの母親だって知っている。けれど、戦争なんかやめてほしいと思うし、ミユキの素朴な思いに共感していた。否定するところではない。
 どうしたら戦争をなくせるんやろうか? 日本は戦争をしないことになっている。しかし日本の首相でも、ほかの国に戦争をやめさせることまではできへん。日本人は、ほかの国の大統領とかにはなれへん。戦争をやめさせられる立場があるとしたら、それは誰やろうか? 国の立場を超えられるとしたら……。国際連合の事務総長。
 だからミユキは、大きくなったら国連事務総長になりたいと思った。もちろん、国連事務総長でさえも強制力をもって戦争をやめさせるわけではない。ただ、可能性があるとしたら、国連事務総長だったら中立な立場で調停に入っていける。それが、ミユキの(いだ)いていた「

のころの

」。
 いまの思いを忘れない。大人になっても。ほかのみんなみたいに別人にはならない。ずっと潜伏して、世のなかを変えてみせる。
 帰ってくる父親は今夜もキゲンが悪いかもしれない。
 二人は、一階にある郵便受けを確認する。ダイヤル錠を回す。ミユキの頭のなかでは「涙のリクエスト」が流れていた。今夜もテレビではチェッカーズが出てくるのだろう。テレビとは、おかしなものだ。
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