第十一章 第三節 動機

文字数 2,993文字

 目が覚めた。全身のあちらこちらが痛い。ここは「あの世」でも地獄でも、ましてや極楽でもなかった。

 タカシは病院の寝台の上にいる。まずニオイで判った。まだ日中のようである。横を見れば同室の者が寝ている。右脚が固定されていて起き上がれないし、激しく痛むので思うように動けない。
 しばらくすると若い看護婦がやってきて、タカシが起きていることに気がついた。

 医者は初老の男だった。
 市内の病院にいること。兄が来てタカシの容態を確認し、治療代は払うと云ってそそくさと帰っていったこと。それらを教えられた。
「それにしても運がよかったな。あんた、線路のあいだにはまって汽車に()かれんで済んだいうことらしいからな」
 タカシは、包帯を巻かれて、布を貼られた顔で黙って聞いていた。もちろん動けないので病室で、である。さっきの踏切の光景が頭をよぎる。
「じゃが、おまえさんの右脚は完全に折れちょる。そのおかげで命拾いしたんじゃろうが。傷は治っても、思うようには歩けんじゃろうね」
「ほうですか……」少し間があって、タカシはその一言だけ返せた。
「しかしなんであんなとこにおったんじゃ? 汽車が来るん判っとったじゃろうに」
 タカシが黙っていると、
「まあええ。そのうち警察の人が訊きに来るじゃろうから」
 汽車の運行をさまたげたのだから、罪に問われるかもしれない。タカシは、警察にどう話そうか考えることにした。

 歳末だというのに、警察がやってきた。聴取。取調べである。東京の言葉で話す中年の制服の男は、タナベと名乗った。
 身体の具合はどうかねと訊くタナベに、全身が痛いです、右脚の骨は折れとるそうです、と答える。一生うまく歩けんようになるらしいです。簡単な話を二、三して、本題に入った。
「それで、君はなんのために踏切に行ったのかね?」
「散歩をしていて通りかかったので汽車を見ていました」
「君は、汽車にはねられに行ったんじゃないのか?」
「いえ、違います」
「聞けば、君には先日、召集令状が来ておったようだが」
 タカシが、はいと答える。
「兵役逃れのために汽車にわざとはねられたんじゃないのか?」
「いえ、それはありません」
「本当か?」
「そんな、兵役逃れなんて、天地神明に誓っても、ありません」タカシは云い切った。
「そうか」
 さすがに神さまに誓うと云うならば、タナベもこれ以上しつこく疑うつもりをなくしたようだ。しばし考えてから続けた。
「そうか。しかしところで、踏切の中にいて汽車が来るのに気がつかなかったわけがあるまい」
「いえ、気がつきませんでした」
 もちろん、気がついていたと云えば、故意に妨害したことになるから問題になる。
「いや、目に入っていなかろうが、音が聞こえただろ?」タナベはイラだち気味だ。
「気づきませんでした」
「君は耳が聞こえんのかね?」
「気づきませんでした」
 こうも同じ答えを繰り返されたから、タナベはハラがたった。国家警察の自尊心が許さない。
「キサマは

か!」
 この罵声(バセイ)に、病室の同居人らが一斉に反応する。
「そう思ってもらっても構いません」対照的にタカシは静かに答えた。
 だからバカらしくなったのか、タナベはハァーと深い溜め息をついた。
「もういい。警察はこんな相手をしているほど暇じゃないからな」
 捨てゼリフを吐いて、ぷいっと帰ってしまった。

 タカシは昭和二〇年を親類と会わずに迎えた。

 年が明けて初めての日曜日のこと。ようやく、兄のシンイチがタカシのもとに訪れた。
 まずは年始のあいさつを済ませ、身体の具合について話す。タカシは迷惑をかけましたと謝る。兄に対してどう関わっていいか分からず、妙にかしこまって言葉遣いをいつもよりも丁寧にしていた。あわせる顔がなくとも、居心地がわるくとも、逃げ出せるわけはない。そして。
「近所ではおまえが兵役逃れをしたいうて噂になっちょる」シンイチが云った。
「兄貴、それはありません」
「しかし親父は怒っちょるぞ。治療代だけは出したるが、勘当(カンドウ)する言うちょる」
「ほうですか」
「おまえはもうウチに入れんよ。世間さまも許さんやろ」
 ああ……とタカシは声を漏らした。
「まあ気い落とすなや。サチオ叔父さんがおまえの面倒みてくれることになっとる。サチオさんとこなら食いもんにも困らんやろう」
 サチオは松山の郊外に暮らしている農家だ。農家こそ、中谷一族の本来の姿なのかもしれない。
「ありがとう、なんもかんも」
 そうタカシが云ってから、二人ともしばらく無言になってのち、シンイチが切り出した。
「しかしおまえ、なんで踏切に突っ立っとったんや? 俺は怒らんから正直に云ってみい」
 周りに聞かれたくないと、タカシは小声で静かに話し始めた――

 タカシは戦地に征くのがイヤだった。それにはもちろん理由がある。
 戦争は殺し合いである。敵兵を殺せば、「鬼畜」とはいわれているが人間である。お国のためだといったところで、人殺しだ。善いことではない。地獄に堕ちるような悪業である。
 それに、敵兵といえども家族がいる。親兄弟がいる。同じようにタカシにも、両親も兄貴もいる。戦争で敵兵を(あや)めれば、その親類を泣かすことになる。そしてタカシも、死ぬ。敵兵を少しでも多く殺して散華(サンゲ)する、それが一兵卒の戦い。

「俺は、(にい)さんみたいにはなりとうなかったんや」

 中谷家には次男がいる。

。セイジという名である。タカシは、長男のシンイチのことは偉いので「兄

」と呼ぶ、セイジのことは「セイジ兄さん」と呼んで区別していた。
 セイジは自ら志願して兵隊に行った。そのときはタカシも誇らしく思ったものである。日本にはまだ勢いがあって、中国共産党にも米英にも圧勝するつもりでいた。当然、「鬼畜米英」を蹴散(けち)らして勝って帰ってくるものと思っていた。
 しかし、セイジは死んだ。いや、死んだ

。戦死したという通知だけ、帰ってきた。戦線で手榴弾(シュリュウダン)で果敢に戦い、敵の戦車にやられた、という。
 だがそれも戦友の証言なだけで、タカシは死に目を実際に見たわけではもちろん、ない。本当なのかも判らない。遺骨になってすらも帰ってこなかった。戦場である。戦死した遺体を「回収」するのもたやすくはない。しかも

は壊れている。敵軍に()されて戦線が後退すれば、すでに死んでいる兵卒を回収するためにわざわざ無理をするのは愚策である。それどころか、戦傷兵すらも足手まといだといって見棄てることがあるはずだ。
 いや、「遺骨」が帰ってきたとしても、それが本物なのかは判らない。骨のかけらだけ帰ってきても、(太平洋戦争中の当時ならば)鑑定のしようがない。ウソをついて「遺骨」と称するものが渡されたこともあっただろう。

「兄さんと同じように死んで、親父もおふくろも、もちろん兄貴のことも、あんなに悲しませとうなかった。もうこりごりや。どうせ親不孝するんなら日本で死んで、いくらなんでも骨くらいは親父の手元に帰るようにしたかった」

 それを聴いていたシンイチは震えていた。
「どアホ!」
 思わず平手が出るところだった。殴る寸前でなんとか抑える。ぶっ飛ばしそうな勢い。シンイチの怒鳴り声に、同室の人間が一斉にビクッと反応した。
「わざわざ死ぬヤツがあるか! 次また同じことしたら今度こそ許さんぞ!」
 ここは病院である。それも忘れるくらいにシンイチは怒った。それこそが兄貴の愛情表現だった。
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