第十三章 第一節 中谷タカユキ

文字数 2,354文字

 中谷(なかたに)タカユキは、地元の市立中学校を卒業して工業高等専門学校に入学した。父タカシは大阪の北港(ホクコウ)地域で「理容ナカタニ」を営業し、母カズコが手伝って、二人で店を切り盛りしている。地元が工業地帯なので、工科系の進路は同級生のあいだでも多かった。高専は当時、制度がつくられて()もないころで、ものすごい人気だった。その高倍率の入試に合格して入学したのである。両親は店舗兼住宅を所有する自営業だとはいえ、裕福ではない。高校まではいいが、大学は身の(たけ)に合わない。公立で学費が少なくて済むのも、志望した大きな理由だった。
 だから本当は、タカユキは工学系技術者になりたいわけではなかった。かつて小学校の同級生らからも「

の子」と呼ばれてバカにされ、ずいぶんとイヤがらせを受けたものである。「ナニクソ、見返してやる」。それで、帰れもしない故郷・松山のことを想って夏目漱石の『坊っちゃん』みたいな教師になりたいと思ったり、弁護士になりたいと思ったりしたものである。
 けれども、できたてホヤホヤの高専は世間での評判が高く、将来性がありそうに思えた。高校でも大学でもない新たな制度は、思いのほか高学歴になる可能性がある。この難関を突破して卒業すれば、就職にもよいだろう。親孝行だと思った。
 タカユキには、父の理容業を引き継ぐつもりはなかった。店も設備も老朽化が進んでいっている。改修したところでそもそも、自身が理容業に向いていない。自覚がある。理容師というのは、ただの技能職ではなくてむしろ、お客さんに合わせて会話をし仲良くなる人づきあいの仕事だ。そういうのは得意ではない。父親も大阪でそれなりに成功したとはいえ、たどり着いた同じところに収まり続けて一生を終えるのだろう。頑固者が、客にはヘーコラこびへつらい、休みには大酒を呑んで人が変わったようになってしまう。そんな父親の姿がイヤだった。自分は父親みたいな身分のまま閉じこもるのではなく、もっと社会的地位を高めたかった。

 高専は在学期間が五年間ある。いろいろと遊びも覚えた。同級生と賭け麻雀(マージャン)をしたり、映画館に()(びた)ったり、パチンコを()がな一日打ったり、タバコをやったりした。さらにタカユキは学生生活のあいだに親元を離れ、通学しやすいところに下宿をした。実家の近くには駅がなかったからである。いや実際には、遊ぶのにも不便だったからだ。学外の女性と交際したが結局、恋人はその一人だけだった。そして、在学中に二〇歳(はたち)になった。

 高専を卒業したあとは、旧財閥系の素材メーカーに就職した。大阪に本社がある。同じ系列では二流の会社だったが、それでも格のある大企業だ。こうして、工業高専卒ともなるとやはり、いわゆる理系の、工学系の技術研究職に進むことになったのである。そして就職を機に、交際していた女性とも別れた。
 姉のユキエは早くも、同じ「会員」の男に(とつ)いでいった。これも親孝行ということだろう。向こうの旦那は大阪にある、業界では大手のメーカーの正社員である。
 他方のタカユキだが、独り暮らしを始めてから、

の宗教に疑問をもちはじめていた。なにはなくともカネ、カネ、カネ。カネばかりもっていかれる。それが(シャク)にさわる。恋人と付き合い始めたのも、別れたのも、(ジツ)のところは宗教が理由だった。もう恋愛する気も、結婚する気も、おこらない。性行為にも(しら)ける。実際に

ってみて、「違う」と思った。いままでの宗教から一歩ひいて、改めて仏教を学んでみると、昔からある大乗仏教の哲学に魅了された。
 会社では研究室で材料の研究。手を化学物質にさらしながら実験の日々だ。有機物質を扱ったり、ウエスで拭き拭きしながらの、泥臭い仕事。微量ではあるが鼻でも吸っている。身体には悪い。大卒でもなく高専卒。技術屋として入社した立場で、地位が高くはなかった。社内には一流大学を卒業した人間がチラホラいて、彼らには将来が約束されている。下っ端の我々は彼らに成果を献上する役回りで、出世に限界がある。いまさらながら通信制大学に入ろうと思ったり、司法試験合格を目指そうと思ったりもしていた。学費が払えないから公立の高専にしたわけだから、稼ぎのある今ならば貯金をして大学に入れる。司法試験にしても、二〇代で挑戦するのは普通のことだ。
 会社にいても、なんだか(みじ)めでイラだたしい。タバコと、休みの日のパチンコ。酒呑みで荒れる父を見ていたから、自分はあまり酒を呑む気にはなれない。仕事の付き合いでは呑むが、なんだか遺伝らしく父と同じで異様に酒に強く、少々のことでは楽しく酔えなかった。それで学生時代からやっているパチンコだが、(くぎ)を読んで、玉をうまく(はじ)ければ、大負けすることはあまりない。廃棄されるパチンコ台をもらって研究したりもした。まだ電動ではないが、大変うるさい。もちろんそんなもの下宿には置けなかったから、実家の二階の片隅(かたすみ)に置いてあるが、こう何年も()てばそれも、時代おくれの機種になってきた。
 女には興味がない。実際に付き合ったり抱いたりする気にはなれない。女はイヤなものだと思う。そうこうしているうちに二〇代も後半になり、親からだけではなく上司からも「結婚はまだなのか」と云われるようになった。そろそろ潮時である。長男で一人息子なので、結婚しなければならない。
「オンナはいないのか?」「中谷クンもそろそろ身を落ち着けたらどうや」
 見合いの話が入ってきた。本音をいえば気乗りしないが、やはり当然、上司の面目をつぶすわけにはいかない。これは恋愛ではない。色恋に負けるわけではないのだ。見合い結婚なんて、昔から世の中ではごく一般的なことである。上司への義理もあるし、家のことも考えれば、世間体のためにもそろそろ結婚するしかないと思っていた。
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