第十八章 第七節 幼稚園のマスゲーム

文字数 4,244文字

 ケイコは心臓がよくない。
 外出すれば、しんどい、くたびれた、と言う。そして休憩をとることになる。家にいても、昼間でも布団のなかで寝ていることが少なくなかった。もう何年も前、ミユキが気づいたときには、すでにそうだった。だからミユキは、お母さんはもともとこういうものだと思っていた。母が寝ているときも、ミユキはしばらく一緒に付いているが、結局どうしようもないので独りで家のなかを遊んでいたものである。
 ケイコは、例えば物音などにしてもそうだが、小さなことでもなにかあるといちいち驚くことが多い。驚いたり驚かされたりするたび、心臓にわるいと言う。
「もぅビックリさせんといて。心臓にわるい」
 ミユキは、母が心臓麻痺(マヒ)で突然死んでしまうのではないかと、つねづね心配である。

 さて、ミユキの通わされているこの幼稚園にも、いわゆる運動会のような行事がある。運動会という名称ではなく幼稚園独自のものを名づけられているのだが、そもそも――これは小学校などでも同じであるが――運動自体が目的なのではなく父兄に対して子どもの成長を見せるのが目的である。
 ちなみに、この時代は「父兄」というのが普通であり、まだまだ「保護者」という語彙(ゴイ)に替えられていることは少なかった。いうまでもなく「父兄」というのは家父長(カフチョウ)主義だからであり、つまり徳川時代の武家(ブケ)社会を模倣(モホウ)した封建(ホウケン)社会の産物である。簡単に言えば「こんなに使える人間になりました」と報告したいわけであり、いわば軍国主義なのだが、彼らには自覚がない。まことに奇怪な国である。
 それで運動会のような「祭」を()りおこなうわけだ。これは幼稚園の園庭(エンテイ)では狭いので、運動場を借りておこなう。練習は園内で行って、運動場はリハーサルと本番だけだ。
 目的だけではなく内容自体も、厳密には運動ではない。「おおつなひき」や「たまいれ」や「かけっこ」などもあるのだが、行進つまりマーチや、「おゆうぎ」もある。不可解な行事だ。

 行事のはじめに行進がある。入場行進である。これも単に歩くだけではなく、園児それぞれに担当が割り当てられている。
 ミユキは「ばんだいこ」の組に当てられた。「ばんだいこ」と云われても、園児からすると太鼓が判るのがせいぜいで、「ばん」がなんのことか判らない。それで園児らのあいだでは、まことしやかに「晩御飯」と同じように「晩」のことなのではないかと噂になっている。ミユキにも、「ばん」がどういう意味なのかまでは判らなかった。しかし「ばんだいこ」はあっても、「ひるだいこ」や「あさだいこ」はないのだから、園児らが不思議がっている。ともかく、この行進は練習をしなければならない。腰に()えたスネアドラムを

で叩く。
「お母さんも昔、若いころはドラム叩いてたこと、あってんで」
 ケイコはミユキが「ばんだいこ」を担当することになったのを知ったとき、そう話した。弟に誘われてバンドに参加していたことがあるという。学校では合唱部だったというケイコは、ボーカルもやったというが、ドラムも多少は練習したらしい。クローズドハイハットを八連(ハチレン)たたきながらスネアドラムをタイミングよくたたく、そうした動きをミユキに見せた。ミユキにはまだドラムスのことは詳しくわからないのだが、チャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャスタッ、タッ、スタッ、タッ、というリズムはよく憶えている。

 もうひとつ極めて厄介(ヤッカイ)なものがある。「おゆうぎ」だ。これ練習なくしては成りたたない。
「おゆうぎ」が「お遊戯」であることを、ミユキは理解している。定められた踊りを強制的にやらせておきながら「遊戯」とは、人をバカにしていると思う。バカにされている。こんなの、楽しくもなければ、イヤイヤやらされているだけ。このオトナ社会では、子どもはおもちゃなのだ。そして、世のなかで生きていくには無意味なことをやらされなければならない、そう教育するのが目的なのだろう。

「ばんだいこ」であれ「おゆうぎ」であれ、とにかく指図(さしず)どおりに、なにも判らなくともやらされる。完成する全体像は、教諭は知っているが、園児らの頭のなかには存在しない。説明されない。
 行進の全容にしても、最終リハーサルになって初めて全担当がそろって演奏して歩いたのだ。ミユキにもまるで勝手がわからないのだが、余計なことを考えずに、とにかく自分の云われたことだけをやるしかなかった。内心ではきわめて困惑していた。とまどっていたのだが。ミユキのそれは、ほかの誰にも思いもよらなかっただろう。

 当日いよいよ本番になれば、園児だけではなく観客も大勢(おおゼイ)いる。人でごったがえしていた。
 本番では行事の進行状況つまりスケジュールの問題がある。ながい待機時間があった。ミユキは水分摂取を減らしているし、あらかじめトイレには行くのだが、待機時間が長びいて、待たされている最中にも尿意がくる。トイレに行っているあいだに、行列はどこかに行ってしまっているのではないか、もうはじまってしまっているのではないか、懸念(ケネン)する。
 タカユキは今回も、取り()かれたように写真撮影に熱心である。そんなイヤな父親が母とともに様子を見に来た。母はミユキが心配で見に来たのである。父親は、()りたいだけ。
 これ幸いと、母に申し出てミユキはトイレに行った。
 戻ってくると、はじまっていることはなかったが、行列の待機場所が移動していた。お母さんがいて助かったと、改めて思う。居なければ、自身の戻るべき位置が判らなくなるところだった。
 ミユキには、ほかの子にはない苦労が多い。

 沢山(タクサン)の人々の観ているなか。行進がはじまる。太鼓をたたかねばならない。視線をなるだけ気にしないようにして、ただひたすらに自身のすべきことだけに集中していた。周りを極力、見ない。周りが気になれば身体が思うように動かなくなる。ミユキにはそれが判っている。
 ミユキ以外のほとんどの園児は、そんな考えごともしていないのではないか。彼らはただ、なんとなくやって、なんとなく、できる。
 ミユキは自意識がとても発達している。

 実際のところは、観客はそこまで期待していない。正確にやれているかなんて、あまり気にしていない。現に、園児らのレベルだ。演奏も行進もうまくまとまってはおらず、ちらほらバラバラだった。それでも誰も批判をせずに、拍手や歓声が起こるものである。アクシデントがあっても「かわいげがある」と(とら)えられる。高みの見物。
 ただ、ミユキは、自身のせいでなにかまずいことが起こるのではないか、責められるのではないか、いつも心配をしている。そしてそれは、生まれ育ちの環境からして当然のことだ。

「おゆうぎ」にしても、そうだった。周りの視線が気になれば身体が動かなくなるから、自分のことは誰も見ていないと思うようにして、ただひたすらに、教えられたとおりに踊るだけである。
「かけっこ」や「たまいれ」なんかとは異なり、「ばんだいこ」にせよ「おゆうぎ」にせよ筋書きがあるから、勝手気ままに「なるようになる」というわけにはいかない。
 それにくらべれば、走るのが遅くとも玉が入らなかろうとも、そんなことはかまわない。実際にミユキもうまく走れないし、玉も入らない。
 ミユキはそんな器用には身体が思うように動かないからだ。だから身体の使いかたを頭で考えて行動するのだが、うまくいかない。無意識に身体を動かせないミユキは、普段から父親に「運動音痴」だの「(ドン)くさい」だのとバカにされている。
 ただこの行事となると、幼稚園の段階では走るのが下手だとか投げるのが下手だとかいうだけの子は多くいたから、ミユキだけが目だっていることはなく、周りに(まぎ)れて、特別な子だとは気づかれずにいた。

 最終種目は「おおつなひき」だ。園児らが二組に分かれて争う。この種目は父兄も参加しておこなう。
 しかし撮影に取り憑かれているタカユキは参加しない。単純に考えれば一般的に、大人の男手が多いほうが有利である。ミユキもそう考えていた。
 この父親は、ひとの気もちがわからない。
「おまえ行け」と言われたケイコがやって来た。
 母が一緒なのはホッとする。しかし、背は小柄だし、力も強くない。体重はあっても、その体重を綱にかけて戦えるような健康体でもなかった。
 ミユキはというと、虚弱で軽く、しかも身体の使いかたが解らない。

 綱引きはいわゆる三回勝負でおこなわれる。二回先取したほうが勝ちだ。

 一回戦。緊張する。
「位置について」
「用意」
 パーンッ!
 パンパンッ!
 一瞬でついた。
 敗れた。引きはじめるタイミングを間違えたらしい。勝敗というよりもこれは、チーム互いのいわば呼吸が合わなかったということである。父兄らも執りしきる教諭らも困惑していた。

 二回戦。
「位置について」
「用意」
 パーンッ!
 今回こそはまともに()り合っている。

 そもそもこういう行事は、勝敗は重要ではない。勝敗の結果ではなく、行事そのものの体験を園児らに与えるのが目的。教育の一環、あるいは思い出づくりなのである。綱引きにしても、そうだ。本気を出して一瞬で勝敗が決まっては、目的が果たせない。
 そうはいっても、大人げなく本気を出している父兄もいるにはいたが……。まあ、ほとんどは意図の理解可能な大人。
 三回やるのも、双方が一度は勝てるようにするためだ。まともな大人ならば、その意図もくみとれるはずである。
 そういうわけで、それなりに競り合って、そして一回戦で勝ったほうが手加減をして敗れる。わざと勝たせたことをなるだけ子どもにさとられないように、うまいこと敗れる。
 パンパンッ!
 さてミユキも母も、棒立ちで綱を引いているようなもので、腰がまるで入っていなかった。
 勝てるのも、無気力相撲ならぬ無気力綱引きだから。

 こうして一対一で三回戦にわざともつれこんだ。勝ったほうが完全勝利。
「位置について」
「用意」
 パーンッ!
 今回は双方とも全力で、シナリオなしである。
 とはいえこれで「祭」は笑っても泣いても最後、なるだけ長びかせたい、ハラハラさせたいという思惑で駆引(かけひ)きが続く。
 その競り合いをほどほどにやったあとで、もう必然的なのだが、ズルズルと少しずつもっていかれる。
 ギリギリで踏ん張ろうとする。際どいところで長引く。相手のほうが余裕だった。
 パーンッパーンッパーンッ。

 幼稚園の秋祭(あきまつり)は、こんなだった。

 隣で綱を握る母の手は、弱々しかった。
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