第十七章 第五節 きたないカラダ
文字数 2,632文字
ある日ミユキは絶望した。この先は、完全に、まっくら。
父タカユキが買った新築マンションに引越してきて、変わったことがある。この父親がタバコをやめはじめた。
タバコを吸わなくなるとこれまでのイライラが噴出 するらしく、わけのわからないところで怒ることがますます増えてきた。
趣味だったパチンコも、「儲 からへんし時間の無駄 や」と言って、あまり行かなくなった。これもお金の問題が最大の理由ではあったが、パチンコ店内では受動喫煙 することになって、タバコをやめにくくなるからでもあったろう。
ほぼ常々 フキゲンである。テーブルなどをドーンッとたたいて怒鳴る夫にケイコは「ごめんなさい」と、なんだか判らないがとにかく謝る、そんな日々。
だからミユキは「お母さんスキ」そう云ってケイコに笑ってみせる。
新居は十一階建の中層階。南向きだが、国道に面していて自動車のまき散らした煤煙 やら粉塵 やらがそのバルコニーにまで上がってくる。布団や洗濯物を干せばそれが着く。
3LDK。大阪のマンションは居間のある間取りがめずらしくない。居間と食堂と、そして食堂の隅 に台所があり、ひと続きになっていた。居室は畳敷きの部屋ふたつと、洋室ひとつ。当時の日本人の畳に対する執着心は、信仰である。ともかく三人家族には広めなのだったが、近いうちにそれを四人にするつもりだったのだから不可解でもない。
マンションは当時としては最新鋭だった。例えば玄関ドアはディンプルキーで、破りにくいといわれていた。これはケイコにとって重要なことだ。もう襲撃されたくない。
あと、この建物にはダストシュートがある。このマンションの場合は、ごみ集積所の真上に煙突状に設けられていて、各階から落とせるようになっていた。一階まで降りなくてもごみが棄てられる。当時に夢みていたいわばSF的な将来像はこんなものである。
そんな奇特な設備もあったものの、しかしおおむねは、いまと比べたら粗末なものだった。技術的に追いついていない。
エアコンはない。一般の住宅には空調機がまだまだ普及していなかった。冷房機すなわちクーラーすらもまだ付けていなかった。扇風機で充分だという。実際に当時の夏はそこまでは暑かったといえなかったし、とりわけ大阪である、瀬戸内海性気候は夏も乾燥している。
暖房は電気ストーブなどだ。鉄骨鉄筋コンクリート造だが、石油ストーブは管理組合の規約で禁止らしい。もとより禁止なぞされていなくとも、白 灯油をわざわざ買って来るのが現実的ではない。ガスストーブは可能だったかもしれないが、ガス管の取り回しが課題になる。ガスコンセントというものは設置されていなかったから、それを新設するか、長々とガスコードを引くか、ということになる。だから大阪の都市部の住宅にはガスストーブがなかなか普及しないでいた。のちにも大阪ガスはガスファンヒーターをひろめるのに苦戦することになる。
いまどきの「エコジョーズ」や「エコキュート」みたいな給湯器はない。台所と浴室は別々の湯沸器 である。台所のそれは瞬間湯沸器で、浴室のそれは風呂釜 だ。ツマミをひねってカチカチカチと、ガスに点火させるものである。浴槽のとなりに設置する風呂釜というのは、浴槽に張ってある湯水も沸 かせる。ただ、この追い焚 きをやると湯水に混じった垢 や汗なども風呂釜に入ることになるから、それを時々は洗浄することが必要にもなり、商品名でいうと「ジャバ」といった専用の器具も存在する。
ちなみに大阪ガスの都市ガスなのでまだマシだったとはいえるが、それでも当時の都市ガスはまだ、いまのような「天然ガス」ではなかったらしく、ガスが空気よりも重かったようだ。世間では都市ガスで自死する人もいたらしい。(天然ガスは主成分がメタンなので軽い。)
浴槽はステンレス。洗面脱衣所と廊下を区切るのは扉ではなくアコーディオンカーテン。その洗面所には洗濯機置場もあったが、設置する洗濯機は二槽式で、洗濯と脱水が別々だった。洗濯終了後に手作業で脱水槽に移して脱水をかける。その脱水槽には内蓋 があって、洗濯物を入れたあとに内蓋をはめないといけない。そんなことが普通な時代であった。
ミユキは瞬間湯沸器のことをよく憶 えている。白い筐体 。上部の排気口。小窓から見えるパイロットバーナー。
ミユキは母と一緒に入浴することが多かった。母と一緒に浴槽に浸 かり、母に洗ってもらう。
父親であるタカユキのほうは、子どもの面倒は母親が見るものだと思っている。世間でもそれが一般的だったのかもしれないがともかく、少なくともこの男は、そう思っていた。私は会社で仕事しているんやから、と。
しかし母は時々、「今日はいい」と言って入浴しなかったり、「シャワーだけ」ということがあったりする。するとミユキの入浴が問題になる。
たまには父親に入れられることもあったとはいえ、この男、キゲンの悪い夜が多い。おそらく職場のことを引きずっている。会社に上司にへーコラしているうえに、職場でも喫煙者が多い。タバコを避けていたら仕事をやっていけないだろうし付き合いが悪くなる。どうせタバコのことでもイライラが募 っているに違いなかった。だからそういう夜にも、ミユキには風呂抜きになる。そういうときでなくとも、キゲンが悪いときは「
それでも、入浴して清々 しい顔になったタカユキはいくらかキゲンがよくなったのか、「頭だけは洗っといたるわ」と言って、ミユキの頭を台所で洗う。いかにも散髪屋の手習いな息子の発想だったが、そこは洗髪台 ではなく流し台だ。わが子の頭をなんだと思っているのか。モノだと思っている。
ミユキにはまだ、それが異常なことなのだとは判らなかった。
瞬間湯沸器の湯で洗われる。
ミユキは瞬間湯沸器のことをよく憶えている。
ある日。
「お母さんスキ」
いつものように作り笑いをする。
「お母さんきれい」
「ありがとう」
いつものやりとり。
「大きくなったらお母さんみたいになるねん」
すると。
「あのね。ミユキはお母さんみたいには、なられへんのよ」
いよいよ母は、たまりかねたように云った。
「ミユキは男の子やから、大きくなったらお父さんみたいになるねんよ」
そんな……。
頭のなかを、あの父親の、風呂上がりの姿がよぎる。
あんな、声の低い、恐い、毛の生えた、きたないのんになるやなんて……。
父タカユキが買った新築マンションに引越してきて、変わったことがある。この父親がタバコをやめはじめた。
タバコを吸わなくなるとこれまでのイライラが
趣味だったパチンコも、「
ほぼ
だからミユキは「お母さんスキ」そう云ってケイコに笑ってみせる。
新居は十一階建の中層階。南向きだが、国道に面していて自動車のまき散らした
3LDK。大阪のマンションは居間のある間取りがめずらしくない。居間と食堂と、そして食堂の
マンションは当時としては最新鋭だった。例えば玄関ドアはディンプルキーで、破りにくいといわれていた。これはケイコにとって重要なことだ。もう襲撃されたくない。
あと、この建物にはダストシュートがある。このマンションの場合は、ごみ集積所の真上に煙突状に設けられていて、各階から落とせるようになっていた。一階まで降りなくてもごみが棄てられる。当時に夢みていたいわばSF的な将来像はこんなものである。
そんな奇特な設備もあったものの、しかしおおむねは、いまと比べたら粗末なものだった。技術的に追いついていない。
エアコンはない。一般の住宅には空調機がまだまだ普及していなかった。冷房機すなわちクーラーすらもまだ付けていなかった。扇風機で充分だという。実際に当時の夏はそこまでは暑かったといえなかったし、とりわけ大阪である、瀬戸内海性気候は夏も乾燥している。
暖房は電気ストーブなどだ。鉄骨鉄筋コンクリート造だが、石油ストーブは管理組合の規約で禁止らしい。もとより禁止なぞされていなくとも、
いまどきの「エコジョーズ」や「エコキュート」みたいな給湯器はない。台所と浴室は別々の
ちなみに大阪ガスの都市ガスなのでまだマシだったとはいえるが、それでも当時の都市ガスはまだ、いまのような「天然ガス」ではなかったらしく、ガスが空気よりも重かったようだ。世間では都市ガスで自死する人もいたらしい。(天然ガスは主成分がメタンなので軽い。)
浴槽はステンレス。洗面脱衣所と廊下を区切るのは扉ではなくアコーディオンカーテン。その洗面所には洗濯機置場もあったが、設置する洗濯機は二槽式で、洗濯と脱水が別々だった。洗濯終了後に手作業で脱水槽に移して脱水をかける。その脱水槽には
ミユキは瞬間湯沸器のことをよく
ミユキは母と一緒に入浴することが多かった。母と一緒に浴槽に
父親であるタカユキのほうは、子どもの面倒は母親が見るものだと思っている。世間でもそれが一般的だったのかもしれないがともかく、少なくともこの男は、そう思っていた。私は会社で仕事しているんやから、と。
しかし母は時々、「今日はいい」と言って入浴しなかったり、「シャワーだけ」ということがあったりする。するとミユキの入浴が問題になる。
たまには父親に入れられることもあったとはいえ、この男、キゲンの悪い夜が多い。おそらく職場のことを引きずっている。会社に上司にへーコラしているうえに、職場でも喫煙者が多い。タバコを避けていたら仕事をやっていけないだろうし付き合いが悪くなる。どうせタバコのことでもイライラが
しつけ
や」と言って妻に、ミユキを風呂に入れさせないようにするのだが。それでも、入浴して
ミユキにはまだ、それが異常なことなのだとは判らなかった。
瞬間湯沸器の湯で洗われる。
ミユキは瞬間湯沸器のことをよく憶えている。
ある日。
「お母さんスキ」
いつものように作り笑いをする。
「お母さんきれい」
「ありがとう」
いつものやりとり。
「大きくなったらお母さんみたいになるねん」
すると。
「あのね。ミユキはお母さんみたいには、なられへんのよ」
いよいよ母は、たまりかねたように云った。
「ミユキは男の子やから、大きくなったらお父さんみたいになるねんよ」
そんな……。
頭のなかを、あの父親の、風呂上がりの姿がよぎる。
あんな、声の低い、恐い、毛の生えた、きたないのんになるやなんて……。
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