第十九章 第十一節 金魚(五)

文字数 6,099文字

「あなた、金魚すくいやりませんか?」妻のことば。
「私はエェわ。おまえら二人でやったらエエやろう」カネは私が出す。
 ケイコの(かお)が一瞬だけ(かげ)ったあと。
「ミユキ、金魚すくい、やる?」
「ふん」
 ミユキは母の云うことには、およそいつも応ずる。
 タカユキが注文する。
「まいどあり」
 いまのやりとりを見ていた店主が、料金を受け取り、

を二人に渡した。ミユキもケイコに(うなが)されるように、おそるおそるたどたどしくポイを受け取る。
 ミユキは、他人に対しては恐怖と、自信のなさのかたまり。これもおよそいつものこと。まるで「私なんかがこんなことしててええんかな……」とでもいわんばかりなのだ。
 池のような、金魚すくいの青い水槽(スイソウ)のなかではもう、金魚がかなり少なくなっていた。閉店間際。多くの客に連れていかれたのかもしれなかった。なんだかスカスカしている。ミユキが観察してみる。水はこころなしか(にご)っているようで、金魚達もあまり元気がないように見える。(フン)があちこちに浮いたり沈んだり。小さい金魚がほとんどだが、なかにはヒラヒラした大きいのが泰然(タイゼン)と泳いでいる。それはまず、すくえない。ポイを破らせるための罠だろうことは、ミユキにも判った。
 やはり当然ながら、先に行動するのは母ケイコの方だ。ミユキはまず、母の行動を観察する。
「こうやるんよ」
 ケイコはポイを器用に使って、小さな金魚であるが、少し()らしただけでうまく引っ掛けすぐさま、左手に持ちあらかじめすぐ近くに寄せていた銀色の(ハチ)に運んでみせた。
 おおよそは、さっきのスーパーボールすくいと同じ。ただ問題は、金魚は生きている、ということだ。一瞬でやらないと、金魚は暴れる。
 ミユキがやってみる。水はもう生ぬるいのが判った。めぼしい金魚を決め、すくおうと試みる。しかしやはり、ポイを入れるとワッと散り散りに金魚達が一斉に逃げる。近づくだけで次々に逃げ出す鳥の群れのように。
 追いかけて再びすくおうとする。そうしているうちに、ポイが濡れ、水をすっかり含んで白が灰になってしまった。だからようやく金魚をポイに引っ掛けたかと思うと、すぐに破れてしまう。アッという間にもう終わり。
「ヘタクソやなァ」父親が小馬鹿(コバカ)にするように言った。
「なんや、もう終わりか。お母さんがやるのをよう見とけへんからや」
 そのケイコはこれをよそに次をねらっていた。しかし、ポイがすでに濡れてしまっているので、これもまた破れてしまう。
「しゃーないなァ」
 あきれて(いや)そうにタカユキは、ミユキのための追加のポイを注文する。まだひとつもすくえていないからだ。
「今度はお母さんと一緒にやりましょう」
 ケイコがミユキの手をとって、二人で金魚に(いど)む。そうしてミユキも、金魚すくいに初めて成功したのだった。
 さらに続けると、そのあとのポイはやっぱり破れてしまった。
 ()れた金魚を店主が回収して水の入った透明なビニール袋に入れる。
「一匹

しときまさぁ」
 網で金魚をひとつすくいあげると、袋に追加する。ポイを三つ払ったからかもしれないし、あるいはもう店じまいするので処分したかったのかもしれなかった。見まわせばもう、閉店作業もおえて青やら緑やらのビニールシートで覆ってしまっている店が目だっている。あちこちで動いていた発電機などももう静か。夜店のためにわざわざ()けていた急あつらえの照明だってもう減って、すこし暗くなってきていた。金魚すくいのおっちゃんを随分(ズイブン)と遅くまで付き合わせてしまったらしい。

 袋を片手にさげ。ミユキはおそるおそる大切に持ち帰る。暗いなか歩くから、おっかなびっくりだ。この中には生きものが入っている。ヨーヨーつりのヨーヨーではない。
 小学生には長い道のり。暗い住宅街を家族三人で帰った。自宅まで無事帰り着くと、ケイコは金魚をバケツに移しかえた。金魚を泳がせる水がまだないので、袋に入っていた水のままだ。水があまりよくないのは解っている。しかし水道水には「カルキ」が入っている。だからケイコは別に、水道水の()み置きもはじめた。ぬけるまではまだ時間がかかる。
 (あか)い、なんの変哲(ヘンテツ)もない金魚。夜店では特別に見えたのに、自宅でいつもの蛍光灯(ケイコウトウ)の下で見ていると、ごくありきたりなことに気づく。それでも、この家には、さっきまで居なかった新たな命がある。
 中谷家はこうして、金魚を飼うことになった。もう夜遅くなっているのに、ミユキのアタマのなかではまだ、あの夜店の喧騒(ケンソウ)が響いて、やまなかった。

「おい、買って来たったぞ!」
「おかえりなさい」
 くたびれたミユキが翌日、遅く起きてきたときにはもう、タカユキが水槽やらポンプやら、底に()く石やら青いビー(だま)やら橋の形をした緑色の陶器の置物やら、金魚の餌やら、いろいろと買いそろえて帰ってきていた。金魚は典型的な鑑賞魚。その手の店に行けば、必要な物は揃う。飼いかたも店員は知っている。
「あなた、おつかれさまでした」
「もう、いろいろ買わされたわ」不満を垂れる。
(たこ)うついたわ。金魚鉢やと小さい()うしな」
 タラタラ。
「ポンプなんかホンマに()るんかいなと思たんやけど、酸素足りへんようになるから()われてな」
 ミユキは、あの『ドラえもん』とかの時間帯に宣伝している「(こい)もおなかがへるのかな」の「よく食べるスイミー」を買ったのではないかと期待したけれど、それは違った。金魚もずっと泳ぐけど、鯉とちゃう。スイミーは食べへんのかもしれへん。それにしても、お父さんはまたケチってきたんやろう、そう思った。味気もない、やすっぽい包装に入った、簡素で貧乏くさい餌。観賞魚用というより、魚釣り用みたい。
 考えてみたら、タカユキが、ミユキも起き出さぬ朝一番に買いに行ったのは当然のことだ。金魚の食料をいち早く調達しなければならなかったのだから。折角(セッカク)の休みの朝でも、重い腰をあげて出かけねばならなかったのである。

 買ってきたのはタカユキだが、あとはみんな、ケイコがすることになるのである。水槽に石やビー玉や飾りを設置したのも、水を汲み置いたのだって、入れただって、ケイコ。ポンプの取付(とりつ)けだって、タカユキは見ていて口を出して決めはするけれど、維持管理をするのはケイコ。
 なにせ金魚の世話も結局は、ケイコがする。そうするしかない。タカユキは休日以外は会社に出ている。ミユキにしてもいずれ学校がはじまるし、そもそもまだ金魚の世話をするには()が重い。いからミユキが賢くたって、水棲(スイセイ)生物の面倒をみるのは重労働。水の入れ替えやら重い水槽の掃除やら、まだ小学一年生のすることではない。
 「主婦」というのは、しんどい。なんだかんだいっても、やるしかない事実状態に置かれている必然。

 ドタバタしながらようやく金魚の棲家(すみカ)が完成して落ち着いたところで、ケイコがあらためて金魚に餌を与える。そうして様子を見るところになって。
「金魚に餌あげたからミユキもこっち来なさい」
 ミユキもようやく現地にかぶりつく。それまでは両親だけでかかりっきりで作業をしていて、ミユキは近寄るな、というところだったから。キープアウト。
 他方のケイコは思い出したかのように――決して忘れていたわけではないのだが――今度は家族三人の食事の支度をしている。もう遅いのでブランチだ。こういうのをタカユキは「朝昼兼用や」とよく呼んでいた。まだブランチという言葉があまり根づいておらず、洋楽のおかげで英語がいくらか解るミユキがいてもなお、この家族にもまだ早かったから。いうまでもなく『王様のブランチ』なんてまだ全然はじまってもいない。
 そんなわけでミユキは水槽にかぶりついて金魚達の様子を見ている。直方体(チョクホウタイ)の水槽は中谷家のリビングに鎮座(チンザ)している。リビングダイニングキッチンは、ひとつづきで壁がない。ミユキが金魚を観察しているのをよそに、ケイコがカタカタと食事を用意している。タカユキはNHKでやっている将棋を()ている。まるで毎週欠かさず視ているのに今日は買物に行くのに時間がとられたので、キゲンがなかなかわるいながらにNHK杯を視ている。()けた方はひなびてうなだれるようにしながら、対戦相手棋士と「感想戦」をする。この男は、その勝ち敗けの姿を見ていると気分がスカッとするらしい。――この三人は噛み合っていない。
 さて金魚の群れはさっき入ってきた餌の方に集まっている。申し合わせたわけじゃないけれど、食べ物があれば群がるのは習性だ。(まる)い口をパクパクさせながら餌を吸い込むのを見てミユキは思った。掃除機みたいやな……。
 ポンプが音を立てながら、泡を水中に送り込んでいる。ブクブクブク。しかし入ってきた泡はすぐ水面にあがって(はじ)けて消えてしまう。意味あるんやろか。けどこうすると酸素が水にとけてるらしいし……。ミユキには不可思議に思えるのだ。水のなかの酸素なんて少ししかあれへんのに、口から吸い込んだ水で酸素を()って、エラから吐き出して、それで生きている。
 金魚の方はこっちがどう見えてるんやろか? そもそもこっちが見えるんやろか。反射して見えへんのとちゃうんやろか? 判らない。水のなかは別世界。
 そうしてあれやこれやと思いが沸いてきて尽きないでずっと居るところで、母に呼ばれた。御飯ができたからだ。もう、おおよそ「お昼」。そしてタカユキは、以後の囲碁には興味がない。

 ――何日かした朝。
 それを発見したのはケイコだった。ケイコは早起き。三人のうちで最も早く起きなければならない。夫の食事や出かける用意も、妻のケイコがやるからだ。そして朝一番に金魚の様子を確認したのである。
 みっつの金魚のうち、ひとりが水に浮かんでいた。

はもう、遺体、だった。
 ケイコは第一発見者だがこれは、金魚殺人事件、ではない。自然死である……だろう。遅れてタカユキが起き抜けてきたがこれもまた、容疑者、ではないだろう。大人ふたりがかかったところで死因は判らない。いずれにしても、亡くなったものはどうしようもない。
 タカユキがミユキに聞こえるように少し大きな声をあげた。
「おい、ミユキ、起きろ、金魚が一匹、死んでもうたぞ」
 いつもなら朝御飯とお父さんのお見送りのためにお母さんに起こされるところで。
「死んでもうたんよ……」力ないケイコがミユキの近くにやってきて、悲愴(ヒソウ)な声であと押しした。
 寝起きで混乱するアタマで、水槽に向かう。

 プカーン。
 呆然(ボウゼン)とする。
 ひっくり返って、浮いている。

「ごめんなさい……」自責(ジセキ)()られるケイコ。母子ふたりして、肩をおとしている。
「お前が悪いんとちゃう」タカユキはかばった。「ウチに来たときにはもう弱っとったん

」文末を力強くする調子をとり既成(キセイ)事実化させるように()しきった。
 たしかに、実際にそうだったかもしれなかった。金魚すくいの環境は劣悪だ。
「コイツはあんなとこで追いまわされとったからな。さあ、メシにするぞ! 会社は待ってくれへんからな! 私は忙しいんや!」
 流れをぶった切り、たたみかける夫。いつものように三人で朝食にして、そしてまたいつもどおりに会社に行く準備をはじめた。その夫のネクタイを締めるのも、「背広」を着せるのも、ケイコの仕事である。
「あなた。このコ、どうしましょう?」頼みすがるように夫に決断を仰いだ。「このままには……しとかれませんし……」
 遺体のことである。
「とりあえず回収しとけ。あとのことは私が帰ってきてからにしよ! 私は忙しいんや!」
 それは薄情(ハクジョウ)にも思えるけれど、金魚が死んだからといって会社に遅刻するのがますますマズいのもまた道理だったかもしれない。考えようによっては、刺身(さしみ)やらバッテラやら

やら子持ち

やら食べとるくせに、金魚一匹にこれは滑稽(コッケイ)なハナシなのかもしれない。いつも魚殺して食うとるやん……。生ごみにして出すくせに。
「とにかく私は忙しいから」と、タカユキはさっさと会社に出かけてしまう。「行ってくるぞ!」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 二人は、いつものように見送った。

 そんなわけだからこの亡骸(なきがら)を網ですくって回収したのもケイコだ。なにもかもケイコ一人でやっている気がする。遺骸(イガイ)は、見ているのに()えないので、タオルでくるんで(カラ)のバケツのなかに入れて、洗面所に安置しておく。さすがに冷蔵庫はムリだと思ったから。
 まだほかに金魚は居る。彼らに希望をつなぐ思いで、ケイコが世話をして、ミユキが見守る。
 彼らは同居者が亡くなったことを理解しているのだろうか? ミユキも思った。理解しているかもしれないし、悲しんでいるかもしれない。
 けれど金魚は水のなかに居るから、泣いても判らない。
 心が、モヤモヤうわぁーっとする。なんともどうしようもない。洗面所のあそこに。昨日まで生きてた金魚が、死んでもうて。そこに、

。家の中にいてもしばらく、洗面所のところに行ったり来たり、チラッと(のぞ)いたり、していた。

 タカユキが会社から帰ってくると。
「あそこの公園に()めといたらエェんとちゃうか?」
 北側の平面駐車場の向こう。マンションの敷地内に、入居者用の公園がある。公園というか、いわゆる遊園。
「金魚のお墓や」
 わが子の教育を考えてのことなのか。この父親は土葬を決めた。
「埋めに行くぞ」
 夏だといっても、もう夜。暗くなっていた。午後五時定時で、そこに残業を少しやって、そうして帰ってきたのだから、それはそうだ。
 なんだかおかしな感じがしたけれど、中谷家は三人で、公園に金魚を埋めに行った。懐中電灯とバケツとスコップを持って、人目を忍ぶように。傍から見れば不審きわまりなかった。
 それは考えてもみれば、いくら入居しているマンションの公園だからといっても、動物の死体を埋めるのはマズかったはず。もしかすると両親はそれが判っていたのかもしれなかった。日中だと人に出くわすから目だつ。夜の方がちょうどええ。けれどそれは、判らなかった、まだミユキには。アタマのなかは、金魚のお墓でイッパイで……。
 公園にある木の一本、その根元(ねもと)にほど近いところに、暗いなかを照らしながらスコップで穴を掘って、三人で遺骸を埋葬(マイソウ)した。けれど第三者からしたら、死体遺棄(イキ)に見えたかもしれない……。
「よし。ほんなら帰るぞ」
 でも、しばらくその場を離れる気には、なれなかった。
「もうええか?! いつまでおるんや。帰るぞ!」カチンッ。
 夜も暗い。両親だけ帰って、ミユキ独りで気の済むまで残っている、そんなわけにもいかない。帰らないと。一緒に暮らしていた金魚だけをそこに残していくことに、わだかまりも残しながら。
 この公園にしても、いつまでもあるわけやない。そのうちいつか掘り返されてしまうんやろうな、そう思った。

 ――そんなことがあったから、金魚すくいはイヤなのである。

 ヨーヨーつりにしても、風船は割れる。はじけてしまう。もらってきたヨーヨーもまた、音と水をまき散らし、音を聴覚に、水濡れを身体に、そして、はかない哀しみを(のこ)して……。

 だからミユキは、スーパーボールすくいの方がスキだ。
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