旅立ちの試練

文字数 4,759文字




 太陽がまだ上りかけている午前。

 カンタロウ、アゲハ、マリア、ツバメの四人は、旅の支度を終え、家から外にでていた。

 家の外では、ヒナゲシとスズが、四人を送りだすために待っている。

 スズはいつもと同じ、和装の格好だが、ヒナゲシは白いワンピースを着ていた。

 微風が、足下の草花を揺らす。

「母さん、スズ姉、いってくるよ」

 カンタロウが二人の前に立った。表情も普段と変わらず、安らかで落ち着いている。

「はい。いってらっしゃい」

 ヒナゲシは明るい笑みを浮かべた。

「ちゃんと帰ってくるのですよ」

 スズは引き締まった表情を、少しだけ緩める。

「うん。その前に、いつものアレをくれないか? 母さん」

「アレ? ああ、アレね。はい、カンタロウさん。んっ」

 ヒナゲシはカンタロウの要求に応えるべく、口を小さく突きだした。両手は後ろで、組まれている。

「…………」

 カンタロウはそれを見ると、ヒナゲシに一歩近づいた。そして顔を近づけていく。

 二人の顔が間近になると、カンタロウは両目を閉じ、ヒナゲシの唇に、自分の唇を重ね合わせようとした。

「て、ちょっと待て! 二人とも、何してるのですかっ!」

 呆然としていたスズが、ようやく我に返り叫んだ。

 マリアとツバメは、二人が何をしているのかわからず、目をパチクリさせている。

「あらやだ。お別れのキスじゃないの?」

「そうだ。違うのか?」

 ヒナゲシとカンタロウは、なぜスズが行為を止めるのか、きょとんとしていた。

「違うでしょうがっ!」

 スズの頬が、真っ赤だ。まさかヒナゲシから、おかしな行為をするとは、予想外だったようだ。

「何自分の母親に、キスしようとしてるの」

「はっ! しまった! 俺は何を考えてたんだ!」

 アゲハに言われ、自分の過ちに気づくカンタロウ。

「今気づいたの?」

 頭を抱えるカンタロウに、アゲハは呆れている。

「そうじゃなくて、ハンカチですよ。いつものアレとは」

「ああっ、そうだったわね。ごめんなさい。はいっ、カンタロウさん」

 スズに言われ、ヒナゲシは手を合わせて、アレの意味を理解した。

 息子の可愛さに、キスしようとしてしまったようだ。

 ハンカチを取りだすと、カンタロウに差しだす。

「うん。これだよ。ありがとう」

 カンタロウは、ヒナゲシからピンクのハンカチを受け取る。

「ちゃんと清潔にして、身だしなみには気をつけるのよ」

「わかったよ……はっ?」

 カンタロウがヒナゲシからハンカチを手に取り、ポケットにしまおうとしたとき、異変に気づいた。

 両目が見開き、額から汗が吹きだしている。

 ハンカチを持つ手が、微妙に震え、喉が乾くのか唾を飲み込んだ。

「カンタロウ君?」

 カンタロウの隣で、アゲハが異様な雰囲気を感じ取った。

 カンタロウは訴えかけるような目で、ヒナゲシを見つめ、

「母さん。このハンカチは、母さんのじゃない――豚の臭いがする」

「誰が豚の臭いですかっ!」

 スズが怒りで雄叫びを上げ、カンタロウの顔面を片手でつかみ、指先に力を込めた。いわゆる、アイアンクローである。

「ぐっ、おおおおおっ?」

 すさまじい痛みが、カンタロウに襲いかかる。

 必死でスズの腕を叩き、ギブアップを宣言した。

「スズのハンカチなのよ」

「私の汗と涙が染み込んでます。大切に使いなさい」

 ヒナゲシとスズに真実を聞かされ、カンタロウは病人のように、顔を青ざめ、

「なっ、なぜ? いつも母さんのをくれたのに。どうして今回に限って、ぶっ……スズ姉のなんだ?」

「今豚って言いかけませんでした?」

 スズが指を、ポキポキ鳴らした。

 カンタロウはスズと、目を合わさなかった。

「まあまあ。落ち着けスズ」

「あなた。半笑いですよね? 今?」

「別にぃ」

 アゲハは口を、ヒクヒクさせていた。

「カンタロウさん。あなた。私のハンカチを使って、何かいかがわしいことをしているみたいね。駄目よ。そんなことしては。めっ、よ」

 ヒナゲシは自分のハンカチを使って、カンタロウがホームシックを癒していることを知っていた。つまり、自分の匂いが染み込んだハンカチを、カンタロウが嗅いでいることを知られてしまったのだ。

 ちなみにそれを密告したのは、アゲハである。

 当人はヒナゲシと一緒に寝ているときに、言ってしまったのだが、悪気はなく、しかも記憶になかった。

「そんなことはしていない。ただ母さんの匂いを、体内に吸収しているだけだ!」

 カンタロウは自分の無罪を訴えた。

「いや、それは立派にいかがわしいですよ? カンタロウ」

 スズは冷たく言い返した。

 カンタロウは、かなりしょげた。

「……なあ。カンタロウっちって。やっぱりマザコンなのか?」

 ツバメがアゲハに耳打ちする。

「どう見てもマザコンじゃん。もう立派なマザコンマンだよ」

 アゲハは公然と、カンタロウの性癖を明かした。

「マリアは知ってたのかい?」

「まあ、詳しくは聞いてないですけど……態度や行動を見ていたら、なんとなく気づきました」

 ツバメに言われ、マリアも薄々気づいていたのか、否定することはなかった。

 ただ、カンタロウと出会った当初から、この家に来るまでは気づかなかった。

 膝枕をしてあげたのも、カンタロウに好意と感謝があったためで、どういう意味があるのかまでは詮索しなかったのだ。

 アゲハは両腕を組んでうなずき、

「マリアはどこか抜けてるっていうか、鈍いから、この家に来るまで気づかなかったけどね」

「ははっ、マリアらしいね」

 ツバメは手を口に添えて笑う。

「……すみません」

 アゲハとツバメに指摘され、マリアは自分の鈍感さにしゅんとなった。

「今回からは、私のハンカチはあげられません。母親から自立する訓練として、後ろの三人の女性の匂いをいただきなさい」

 ヒナゲシの言葉に、三人は「えっ?」といった表情になる。

「つまりヒナゲシ様が言いたいのは、三人の女性に甘えなさいということです」

「そう。それです」

 スズが言い直してくれたおかげで、ヒナゲシの言いたいことがわかった。

「しっ、しかし……それでは、みんなに迷惑をかけるんじゃないのか?」

 動揺しまくるカンタロウ。

「お前がマザコンであるじてんで、すでに大迷惑だよ」

 アゲハのつっこみに、返す言葉もない。

 カンタロウは胸に矢が刺さったような、痛みを感じた。

「あら、大丈夫よ。ねえ? マリアさん?」

 ヒナゲシはマリアの名前を呼んだ。両目は見えていないが、神脈の流れで、人物は特定できる。

 皆より背が低く、アゲハより背が高い。

 いつも両手の神脈が、前で組まれている。それがマリアの特徴だった。

「えっ? はっ、はいっ!」

 マリアはすぐに、返事を返した。

「いいですか? カンタロウ。この中では、マリアさんが一番鈍いと、私は予想しています。隙をみて――やっちゃいなさい」

「私に何するんですかっ!」

 スズの無茶苦茶な振りに、マリアは両腕で体を抱えて叫んだ。

「えっ? マリアに何するの?」

 アゲハはどういうことなのかまったくわからず、ツバメに聞いてみる。

「ふふっ、お子ちゃまは、まだ知らなくていいんだよ。でもヒントをあげようかね。――木馬とロウソクと鞭を使う」

「ツバメさんは黙っててくださいっ!」

 ツバメの狂言に、マリアはまた叫んだ。

「……わかった。でも別れる前に、母さんを抱きしめたい」

 カンタロウはハンカチを諦め、代わりに母の温もりを体で覚えようと、いい年して恥ずかしいことを照れずに真顔で言った。

「それ、実の息子が言う台詞じゃないと思うよ?」

 アゲハはそう言ったが、カンタロウはとても真剣なので聞いていなかった。

「もう、しょうがないわね。いいわよ。はい、きなさい」

 ヒナゲシは両手を広げて、カンタロウを受け入れる体勢をとる。

「ヒナゲシさんも、受け入れてるし……」

 マリアはもしかすると、カンタロウがマザコンになった原因は、ヒナゲシにもあるのではないかと感じた。つまり、ヒナゲシも息子を溺愛しているのだ。

 そんなマリアの心配をよそに、カンタロウとヒナゲシは抱き合った。

「母さん」

「はい」

「母さん」

「はい」

「母さん」

「はぁい」

 それから、五分経過した。

「もういい加減、離れなさい! 何いつまで抱き合ってるのですかっ! カンタロウ!」

 ついに、スズの堪忍袋が切れた。カンタロウをつかむと、ヒナゲシから引き離そうとする。

「もう少しだけ、抱かせてくれ。まだ三十分もたってないじゃないか!」

「三十分も抱き合うつもりだったんですか? 十秒で十分です! はやく離れなさいカンタロウ! 何こんな所で、潜在能力を発揮してるんですかっ!」

 カンタロウの体は、スズの力でもびくともしなかった。

 異常な力で、抵抗しているのだ。

 まるでその姿は、道をふさぐ山のようだった。

「もう。カンタロウさんてば。あったかいわ」

 ヒナゲシは息子の胸に顔を埋め、満足気に微笑んでいる。

「ヒナゲシ様! そこで頬を赤く染めないでください! 早く離れろっ! おらぁ!」

「悪いが、それはまだできない。ふんっ!」

 スズの怒りが頂点に達し、赤眼化を発動させた。しかし、カンタロウも赤眼化を発動させ、さらに抵抗が増し、ヒナゲシから離れようとしない。

 ヒナゲシは小さく笑いながら、二人の様子を聞いている。

「……すさまじいマザコンぶりだねぇ。逆にすごいよ。戦争だよ」

 ツバメは、カンタロウの母に対する執着ぶりに寒気を感じた。

 アゲハはあきてきたのか、あくびをし、

「ねっ、キモいでしょ? マリア、あんなんでも大丈夫なの?」

「がんばって、受け入れます」

 マリアは意外に前向きだった。

「ふぅん……まっ、がんばれば」

 面白い反応がないうえに、マリアの決意を聞いて、アゲハは興ざめした。

 逆にツバメはマリアに、驚いたような目つきをむけている。

 まさかそこまで、カンタロウに愛情を感じているとは、思わなかったからだ。ショックだった。





 しばらくして、ようやくカンタロウはヒナゲシから離れた。

 スズは死ぬほど疲れたのか、息切れを起こしている。

 カンタロウは平然としていた。むしろ血色が良くなり、顔が白く輝き、

「今度こそ本当に、いってくるよ」

「はい。今度こそ、いってらっしゃい」

 ヒナゲシはそう言うと、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「マリアさん」

「はい?」

 スズが息を整え、マリアの名前を呼んだ。

「いいですか。あなたにはとても期待しています。ポイントもすでに一万を超えました。そこの獣女には負けないように、努力しなさい」

 獣女とはアゲハのことだろう。スズはマリアを、カンタロウの嫁候補として推薦しているのだ。

 「一万ポイントも貯まってたのか?」カンタロウはそれよりも、マリアのポイント数に唖然となった。

「はいっ、努力します」

 マリアは期待に応えるように、両手をグッと胸の前で握りしめた。

「獣女だって。嫌われたねぇ。ツバメ」

「それ、あんたのことじゃないかい?」

 アゲハ本人はスズに嫌われていることに、まったく気づいていなかった。

「マリアさん。もし妹さんを連れだせたら、この家にまた帰ってきなさいな。二人一緒に、歓迎するわ」

「……はいっ!」

 ヒナゲシの優しい言葉に、マリアは指で目をこすった。

 そして、ようやく、カンタロウ達は旅にでるべく、家から離れていった。

「……もうあんなに、母さんが遠くなってしまった」

 カンタロウは遠くを見上げるように、ヒナゲシ達の方を振りむく。

「まだ五メートルだよカンタロウ君。目の前にいるじゃん」

 まだ近くに、ヒナゲシとスズはいた。

 ヒナゲシは片手を振り、スズは腰に手をやっている。

 カンタロウは涙目になり、

「もう母さんが、かすんで見えなくなって……」

「まだ十メートル。早くいこうってば」

 アゲハはカンタロウの服をつかむと、旅へと引っ張っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み