旅立ちの試練
文字数 4,759文字
*
太陽がまだ上りかけている午前。
カンタロウ、アゲハ、マリア、ツバメの四人は、旅の支度を終え、家から外にでていた。
家の外では、ヒナゲシとスズが、四人を送りだすために待っている。
スズはいつもと同じ、和装の格好だが、ヒナゲシは白いワンピースを着ていた。
微風が、足下の草花を揺らす。
「母さん、スズ姉、いってくるよ」
カンタロウが二人の前に立った。表情も普段と変わらず、安らかで落ち着いている。
「はい。いってらっしゃい」
ヒナゲシは明るい笑みを浮かべた。
「ちゃんと帰ってくるのですよ」
スズは引き締まった表情を、少しだけ緩める。
「うん。その前に、いつものアレをくれないか? 母さん」
「アレ? ああ、アレね。はい、カンタロウさん。んっ」
ヒナゲシはカンタロウの要求に応えるべく、口を小さく突きだした。両手は後ろで、組まれている。
「…………」
カンタロウはそれを見ると、ヒナゲシに一歩近づいた。そして顔を近づけていく。
二人の顔が間近になると、カンタロウは両目を閉じ、ヒナゲシの唇に、自分の唇を重ね合わせようとした。
「て、ちょっと待て! 二人とも、何してるのですかっ!」
呆然としていたスズが、ようやく我に返り叫んだ。
マリアとツバメは、二人が何をしているのかわからず、目をパチクリさせている。
「あらやだ。お別れのキスじゃないの?」
「そうだ。違うのか?」
ヒナゲシとカンタロウは、なぜスズが行為を止めるのか、きょとんとしていた。
「違うでしょうがっ!」
スズの頬が、真っ赤だ。まさかヒナゲシから、おかしな行為をするとは、予想外だったようだ。
「何自分の母親に、キスしようとしてるの」
「はっ! しまった! 俺は何を考えてたんだ!」
アゲハに言われ、自分の過ちに気づくカンタロウ。
「今気づいたの?」
頭を抱えるカンタロウに、アゲハは呆れている。
「そうじゃなくて、ハンカチですよ。いつものアレとは」
「ああっ、そうだったわね。ごめんなさい。はいっ、カンタロウさん」
スズに言われ、ヒナゲシは手を合わせて、アレの意味を理解した。
息子の可愛さに、キスしようとしてしまったようだ。
ハンカチを取りだすと、カンタロウに差しだす。
「うん。これだよ。ありがとう」
カンタロウは、ヒナゲシからピンクのハンカチを受け取る。
「ちゃんと清潔にして、身だしなみには気をつけるのよ」
「わかったよ……はっ?」
カンタロウがヒナゲシからハンカチを手に取り、ポケットにしまおうとしたとき、異変に気づいた。
両目が見開き、額から汗が吹きだしている。
ハンカチを持つ手が、微妙に震え、喉が乾くのか唾を飲み込んだ。
「カンタロウ君?」
カンタロウの隣で、アゲハが異様な雰囲気を感じ取った。
カンタロウは訴えかけるような目で、ヒナゲシを見つめ、
「母さん。このハンカチは、母さんのじゃない――豚の臭いがする」
「誰が豚の臭いですかっ!」
スズが怒りで雄叫びを上げ、カンタロウの顔面を片手でつかみ、指先に力を込めた。いわゆる、アイアンクローである。
「ぐっ、おおおおおっ?」
すさまじい痛みが、カンタロウに襲いかかる。
必死でスズの腕を叩き、ギブアップを宣言した。
「スズのハンカチなのよ」
「私の汗と涙が染み込んでます。大切に使いなさい」
ヒナゲシとスズに真実を聞かされ、カンタロウは病人のように、顔を青ざめ、
「なっ、なぜ? いつも母さんのをくれたのに。どうして今回に限って、ぶっ……スズ姉のなんだ?」
「今豚って言いかけませんでした?」
スズが指を、ポキポキ鳴らした。
カンタロウはスズと、目を合わさなかった。
「まあまあ。落ち着けスズ」
「あなた。半笑いですよね? 今?」
「別にぃ」
アゲハは口を、ヒクヒクさせていた。
「カンタロウさん。あなた。私のハンカチを使って、何かいかがわしいことをしているみたいね。駄目よ。そんなことしては。めっ、よ」
ヒナゲシは自分のハンカチを使って、カンタロウがホームシックを癒していることを知っていた。つまり、自分の匂いが染み込んだハンカチを、カンタロウが嗅いでいることを知られてしまったのだ。
ちなみにそれを密告したのは、アゲハである。
当人はヒナゲシと一緒に寝ているときに、言ってしまったのだが、悪気はなく、しかも記憶になかった。
「そんなことはしていない。ただ母さんの匂いを、体内に吸収しているだけだ!」
カンタロウは自分の無罪を訴えた。
「いや、それは立派にいかがわしいですよ? カンタロウ」
スズは冷たく言い返した。
カンタロウは、かなりしょげた。
「……なあ。カンタロウっちって。やっぱりマザコンなのか?」
ツバメがアゲハに耳打ちする。
「どう見てもマザコンじゃん。もう立派なマザコンマンだよ」
アゲハは公然と、カンタロウの性癖を明かした。
「マリアは知ってたのかい?」
「まあ、詳しくは聞いてないですけど……態度や行動を見ていたら、なんとなく気づきました」
ツバメに言われ、マリアも薄々気づいていたのか、否定することはなかった。
ただ、カンタロウと出会った当初から、この家に来るまでは気づかなかった。
膝枕をしてあげたのも、カンタロウに好意と感謝があったためで、どういう意味があるのかまでは詮索しなかったのだ。
アゲハは両腕を組んでうなずき、
「マリアはどこか抜けてるっていうか、鈍いから、この家に来るまで気づかなかったけどね」
「ははっ、マリアらしいね」
ツバメは手を口に添えて笑う。
「……すみません」
アゲハとツバメに指摘され、マリアは自分の鈍感さにしゅんとなった。
「今回からは、私のハンカチはあげられません。母親から自立する訓練として、後ろの三人の女性の匂いをいただきなさい」
ヒナゲシの言葉に、三人は「えっ?」といった表情になる。
「つまりヒナゲシ様が言いたいのは、三人の女性に甘えなさいということです」
「そう。それです」
スズが言い直してくれたおかげで、ヒナゲシの言いたいことがわかった。
「しっ、しかし……それでは、みんなに迷惑をかけるんじゃないのか?」
動揺しまくるカンタロウ。
「お前がマザコンであるじてんで、すでに大迷惑だよ」
アゲハのつっこみに、返す言葉もない。
カンタロウは胸に矢が刺さったような、痛みを感じた。
「あら、大丈夫よ。ねえ? マリアさん?」
ヒナゲシはマリアの名前を呼んだ。両目は見えていないが、神脈の流れで、人物は特定できる。
皆より背が低く、アゲハより背が高い。
いつも両手の神脈が、前で組まれている。それがマリアの特徴だった。
「えっ? はっ、はいっ!」
マリアはすぐに、返事を返した。
「いいですか? カンタロウ。この中では、マリアさんが一番鈍いと、私は予想しています。隙をみて――やっちゃいなさい」
「私に何するんですかっ!」
スズの無茶苦茶な振りに、マリアは両腕で体を抱えて叫んだ。
「えっ? マリアに何するの?」
アゲハはどういうことなのかまったくわからず、ツバメに聞いてみる。
「ふふっ、お子ちゃまは、まだ知らなくていいんだよ。でもヒントをあげようかね。――木馬とロウソクと鞭を使う」
「ツバメさんは黙っててくださいっ!」
ツバメの狂言に、マリアはまた叫んだ。
「……わかった。でも別れる前に、母さんを抱きしめたい」
カンタロウはハンカチを諦め、代わりに母の温もりを体で覚えようと、いい年して恥ずかしいことを照れずに真顔で言った。
「それ、実の息子が言う台詞じゃないと思うよ?」
アゲハはそう言ったが、カンタロウはとても真剣なので聞いていなかった。
「もう、しょうがないわね。いいわよ。はい、きなさい」
ヒナゲシは両手を広げて、カンタロウを受け入れる体勢をとる。
「ヒナゲシさんも、受け入れてるし……」
マリアはもしかすると、カンタロウがマザコンになった原因は、ヒナゲシにもあるのではないかと感じた。つまり、ヒナゲシも息子を溺愛しているのだ。
そんなマリアの心配をよそに、カンタロウとヒナゲシは抱き合った。
「母さん」
「はい」
「母さん」
「はい」
「母さん」
「はぁい」
それから、五分経過した。
「もういい加減、離れなさい! 何いつまで抱き合ってるのですかっ! カンタロウ!」
ついに、スズの堪忍袋が切れた。カンタロウをつかむと、ヒナゲシから引き離そうとする。
「もう少しだけ、抱かせてくれ。まだ三十分もたってないじゃないか!」
「三十分も抱き合うつもりだったんですか? 十秒で十分です! はやく離れなさいカンタロウ! 何こんな所で、潜在能力を発揮してるんですかっ!」
カンタロウの体は、スズの力でもびくともしなかった。
異常な力で、抵抗しているのだ。
まるでその姿は、道をふさぐ山のようだった。
「もう。カンタロウさんてば。あったかいわ」
ヒナゲシは息子の胸に顔を埋め、満足気に微笑んでいる。
「ヒナゲシ様! そこで頬を赤く染めないでください! 早く離れろっ! おらぁ!」
「悪いが、それはまだできない。ふんっ!」
スズの怒りが頂点に達し、赤眼化を発動させた。しかし、カンタロウも赤眼化を発動させ、さらに抵抗が増し、ヒナゲシから離れようとしない。
ヒナゲシは小さく笑いながら、二人の様子を聞いている。
「……すさまじいマザコンぶりだねぇ。逆にすごいよ。戦争だよ」
ツバメは、カンタロウの母に対する執着ぶりに寒気を感じた。
アゲハはあきてきたのか、あくびをし、
「ねっ、キモいでしょ? マリア、あんなんでも大丈夫なの?」
「がんばって、受け入れます」
マリアは意外に前向きだった。
「ふぅん……まっ、がんばれば」
面白い反応がないうえに、マリアの決意を聞いて、アゲハは興ざめした。
逆にツバメはマリアに、驚いたような目つきをむけている。
まさかそこまで、カンタロウに愛情を感じているとは、思わなかったからだ。ショックだった。
*
しばらくして、ようやくカンタロウはヒナゲシから離れた。
スズは死ぬほど疲れたのか、息切れを起こしている。
カンタロウは平然としていた。むしろ血色が良くなり、顔が白く輝き、
「今度こそ本当に、いってくるよ」
「はい。今度こそ、いってらっしゃい」
ヒナゲシはそう言うと、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「マリアさん」
「はい?」
スズが息を整え、マリアの名前を呼んだ。
「いいですか。あなたにはとても期待しています。ポイントもすでに一万を超えました。そこの獣女には負けないように、努力しなさい」
獣女とはアゲハのことだろう。スズはマリアを、カンタロウの嫁候補として推薦しているのだ。
「一万ポイントも貯まってたのか?」カンタロウはそれよりも、マリアのポイント数に唖然となった。
「はいっ、努力します」
マリアは期待に応えるように、両手をグッと胸の前で握りしめた。
「獣女だって。嫌われたねぇ。ツバメ」
「それ、あんたのことじゃないかい?」
アゲハ本人はスズに嫌われていることに、まったく気づいていなかった。
「マリアさん。もし妹さんを連れだせたら、この家にまた帰ってきなさいな。二人一緒に、歓迎するわ」
「……はいっ!」
ヒナゲシの優しい言葉に、マリアは指で目をこすった。
そして、ようやく、カンタロウ達は旅にでるべく、家から離れていった。
「……もうあんなに、母さんが遠くなってしまった」
カンタロウは遠くを見上げるように、ヒナゲシ達の方を振りむく。
「まだ五メートルだよカンタロウ君。目の前にいるじゃん」
まだ近くに、ヒナゲシとスズはいた。
ヒナゲシは片手を振り、スズは腰に手をやっている。
カンタロウは涙目になり、
「もう母さんが、かすんで見えなくなって……」
「まだ十メートル。早くいこうってば」
アゲハはカンタロウの服をつかむと、旅へと引っ張っていった。
太陽がまだ上りかけている午前。
カンタロウ、アゲハ、マリア、ツバメの四人は、旅の支度を終え、家から外にでていた。
家の外では、ヒナゲシとスズが、四人を送りだすために待っている。
スズはいつもと同じ、和装の格好だが、ヒナゲシは白いワンピースを着ていた。
微風が、足下の草花を揺らす。
「母さん、スズ姉、いってくるよ」
カンタロウが二人の前に立った。表情も普段と変わらず、安らかで落ち着いている。
「はい。いってらっしゃい」
ヒナゲシは明るい笑みを浮かべた。
「ちゃんと帰ってくるのですよ」
スズは引き締まった表情を、少しだけ緩める。
「うん。その前に、いつものアレをくれないか? 母さん」
「アレ? ああ、アレね。はい、カンタロウさん。んっ」
ヒナゲシはカンタロウの要求に応えるべく、口を小さく突きだした。両手は後ろで、組まれている。
「…………」
カンタロウはそれを見ると、ヒナゲシに一歩近づいた。そして顔を近づけていく。
二人の顔が間近になると、カンタロウは両目を閉じ、ヒナゲシの唇に、自分の唇を重ね合わせようとした。
「て、ちょっと待て! 二人とも、何してるのですかっ!」
呆然としていたスズが、ようやく我に返り叫んだ。
マリアとツバメは、二人が何をしているのかわからず、目をパチクリさせている。
「あらやだ。お別れのキスじゃないの?」
「そうだ。違うのか?」
ヒナゲシとカンタロウは、なぜスズが行為を止めるのか、きょとんとしていた。
「違うでしょうがっ!」
スズの頬が、真っ赤だ。まさかヒナゲシから、おかしな行為をするとは、予想外だったようだ。
「何自分の母親に、キスしようとしてるの」
「はっ! しまった! 俺は何を考えてたんだ!」
アゲハに言われ、自分の過ちに気づくカンタロウ。
「今気づいたの?」
頭を抱えるカンタロウに、アゲハは呆れている。
「そうじゃなくて、ハンカチですよ。いつものアレとは」
「ああっ、そうだったわね。ごめんなさい。はいっ、カンタロウさん」
スズに言われ、ヒナゲシは手を合わせて、アレの意味を理解した。
息子の可愛さに、キスしようとしてしまったようだ。
ハンカチを取りだすと、カンタロウに差しだす。
「うん。これだよ。ありがとう」
カンタロウは、ヒナゲシからピンクのハンカチを受け取る。
「ちゃんと清潔にして、身だしなみには気をつけるのよ」
「わかったよ……はっ?」
カンタロウがヒナゲシからハンカチを手に取り、ポケットにしまおうとしたとき、異変に気づいた。
両目が見開き、額から汗が吹きだしている。
ハンカチを持つ手が、微妙に震え、喉が乾くのか唾を飲み込んだ。
「カンタロウ君?」
カンタロウの隣で、アゲハが異様な雰囲気を感じ取った。
カンタロウは訴えかけるような目で、ヒナゲシを見つめ、
「母さん。このハンカチは、母さんのじゃない――豚の臭いがする」
「誰が豚の臭いですかっ!」
スズが怒りで雄叫びを上げ、カンタロウの顔面を片手でつかみ、指先に力を込めた。いわゆる、アイアンクローである。
「ぐっ、おおおおおっ?」
すさまじい痛みが、カンタロウに襲いかかる。
必死でスズの腕を叩き、ギブアップを宣言した。
「スズのハンカチなのよ」
「私の汗と涙が染み込んでます。大切に使いなさい」
ヒナゲシとスズに真実を聞かされ、カンタロウは病人のように、顔を青ざめ、
「なっ、なぜ? いつも母さんのをくれたのに。どうして今回に限って、ぶっ……スズ姉のなんだ?」
「今豚って言いかけませんでした?」
スズが指を、ポキポキ鳴らした。
カンタロウはスズと、目を合わさなかった。
「まあまあ。落ち着けスズ」
「あなた。半笑いですよね? 今?」
「別にぃ」
アゲハは口を、ヒクヒクさせていた。
「カンタロウさん。あなた。私のハンカチを使って、何かいかがわしいことをしているみたいね。駄目よ。そんなことしては。めっ、よ」
ヒナゲシは自分のハンカチを使って、カンタロウがホームシックを癒していることを知っていた。つまり、自分の匂いが染み込んだハンカチを、カンタロウが嗅いでいることを知られてしまったのだ。
ちなみにそれを密告したのは、アゲハである。
当人はヒナゲシと一緒に寝ているときに、言ってしまったのだが、悪気はなく、しかも記憶になかった。
「そんなことはしていない。ただ母さんの匂いを、体内に吸収しているだけだ!」
カンタロウは自分の無罪を訴えた。
「いや、それは立派にいかがわしいですよ? カンタロウ」
スズは冷たく言い返した。
カンタロウは、かなりしょげた。
「……なあ。カンタロウっちって。やっぱりマザコンなのか?」
ツバメがアゲハに耳打ちする。
「どう見てもマザコンじゃん。もう立派なマザコンマンだよ」
アゲハは公然と、カンタロウの性癖を明かした。
「マリアは知ってたのかい?」
「まあ、詳しくは聞いてないですけど……態度や行動を見ていたら、なんとなく気づきました」
ツバメに言われ、マリアも薄々気づいていたのか、否定することはなかった。
ただ、カンタロウと出会った当初から、この家に来るまでは気づかなかった。
膝枕をしてあげたのも、カンタロウに好意と感謝があったためで、どういう意味があるのかまでは詮索しなかったのだ。
アゲハは両腕を組んでうなずき、
「マリアはどこか抜けてるっていうか、鈍いから、この家に来るまで気づかなかったけどね」
「ははっ、マリアらしいね」
ツバメは手を口に添えて笑う。
「……すみません」
アゲハとツバメに指摘され、マリアは自分の鈍感さにしゅんとなった。
「今回からは、私のハンカチはあげられません。母親から自立する訓練として、後ろの三人の女性の匂いをいただきなさい」
ヒナゲシの言葉に、三人は「えっ?」といった表情になる。
「つまりヒナゲシ様が言いたいのは、三人の女性に甘えなさいということです」
「そう。それです」
スズが言い直してくれたおかげで、ヒナゲシの言いたいことがわかった。
「しっ、しかし……それでは、みんなに迷惑をかけるんじゃないのか?」
動揺しまくるカンタロウ。
「お前がマザコンであるじてんで、すでに大迷惑だよ」
アゲハのつっこみに、返す言葉もない。
カンタロウは胸に矢が刺さったような、痛みを感じた。
「あら、大丈夫よ。ねえ? マリアさん?」
ヒナゲシはマリアの名前を呼んだ。両目は見えていないが、神脈の流れで、人物は特定できる。
皆より背が低く、アゲハより背が高い。
いつも両手の神脈が、前で組まれている。それがマリアの特徴だった。
「えっ? はっ、はいっ!」
マリアはすぐに、返事を返した。
「いいですか? カンタロウ。この中では、マリアさんが一番鈍いと、私は予想しています。隙をみて――やっちゃいなさい」
「私に何するんですかっ!」
スズの無茶苦茶な振りに、マリアは両腕で体を抱えて叫んだ。
「えっ? マリアに何するの?」
アゲハはどういうことなのかまったくわからず、ツバメに聞いてみる。
「ふふっ、お子ちゃまは、まだ知らなくていいんだよ。でもヒントをあげようかね。――木馬とロウソクと鞭を使う」
「ツバメさんは黙っててくださいっ!」
ツバメの狂言に、マリアはまた叫んだ。
「……わかった。でも別れる前に、母さんを抱きしめたい」
カンタロウはハンカチを諦め、代わりに母の温もりを体で覚えようと、いい年して恥ずかしいことを照れずに真顔で言った。
「それ、実の息子が言う台詞じゃないと思うよ?」
アゲハはそう言ったが、カンタロウはとても真剣なので聞いていなかった。
「もう、しょうがないわね。いいわよ。はい、きなさい」
ヒナゲシは両手を広げて、カンタロウを受け入れる体勢をとる。
「ヒナゲシさんも、受け入れてるし……」
マリアはもしかすると、カンタロウがマザコンになった原因は、ヒナゲシにもあるのではないかと感じた。つまり、ヒナゲシも息子を溺愛しているのだ。
そんなマリアの心配をよそに、カンタロウとヒナゲシは抱き合った。
「母さん」
「はい」
「母さん」
「はい」
「母さん」
「はぁい」
それから、五分経過した。
「もういい加減、離れなさい! 何いつまで抱き合ってるのですかっ! カンタロウ!」
ついに、スズの堪忍袋が切れた。カンタロウをつかむと、ヒナゲシから引き離そうとする。
「もう少しだけ、抱かせてくれ。まだ三十分もたってないじゃないか!」
「三十分も抱き合うつもりだったんですか? 十秒で十分です! はやく離れなさいカンタロウ! 何こんな所で、潜在能力を発揮してるんですかっ!」
カンタロウの体は、スズの力でもびくともしなかった。
異常な力で、抵抗しているのだ。
まるでその姿は、道をふさぐ山のようだった。
「もう。カンタロウさんてば。あったかいわ」
ヒナゲシは息子の胸に顔を埋め、満足気に微笑んでいる。
「ヒナゲシ様! そこで頬を赤く染めないでください! 早く離れろっ! おらぁ!」
「悪いが、それはまだできない。ふんっ!」
スズの怒りが頂点に達し、赤眼化を発動させた。しかし、カンタロウも赤眼化を発動させ、さらに抵抗が増し、ヒナゲシから離れようとしない。
ヒナゲシは小さく笑いながら、二人の様子を聞いている。
「……すさまじいマザコンぶりだねぇ。逆にすごいよ。戦争だよ」
ツバメは、カンタロウの母に対する執着ぶりに寒気を感じた。
アゲハはあきてきたのか、あくびをし、
「ねっ、キモいでしょ? マリア、あんなんでも大丈夫なの?」
「がんばって、受け入れます」
マリアは意外に前向きだった。
「ふぅん……まっ、がんばれば」
面白い反応がないうえに、マリアの決意を聞いて、アゲハは興ざめした。
逆にツバメはマリアに、驚いたような目つきをむけている。
まさかそこまで、カンタロウに愛情を感じているとは、思わなかったからだ。ショックだった。
*
しばらくして、ようやくカンタロウはヒナゲシから離れた。
スズは死ぬほど疲れたのか、息切れを起こしている。
カンタロウは平然としていた。むしろ血色が良くなり、顔が白く輝き、
「今度こそ本当に、いってくるよ」
「はい。今度こそ、いってらっしゃい」
ヒナゲシはそう言うと、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「マリアさん」
「はい?」
スズが息を整え、マリアの名前を呼んだ。
「いいですか。あなたにはとても期待しています。ポイントもすでに一万を超えました。そこの獣女には負けないように、努力しなさい」
獣女とはアゲハのことだろう。スズはマリアを、カンタロウの嫁候補として推薦しているのだ。
「一万ポイントも貯まってたのか?」カンタロウはそれよりも、マリアのポイント数に唖然となった。
「はいっ、努力します」
マリアは期待に応えるように、両手をグッと胸の前で握りしめた。
「獣女だって。嫌われたねぇ。ツバメ」
「それ、あんたのことじゃないかい?」
アゲハ本人はスズに嫌われていることに、まったく気づいていなかった。
「マリアさん。もし妹さんを連れだせたら、この家にまた帰ってきなさいな。二人一緒に、歓迎するわ」
「……はいっ!」
ヒナゲシの優しい言葉に、マリアは指で目をこすった。
そして、ようやく、カンタロウ達は旅にでるべく、家から離れていった。
「……もうあんなに、母さんが遠くなってしまった」
カンタロウは遠くを見上げるように、ヒナゲシ達の方を振りむく。
「まだ五メートルだよカンタロウ君。目の前にいるじゃん」
まだ近くに、ヒナゲシとスズはいた。
ヒナゲシは片手を振り、スズは腰に手をやっている。
カンタロウは涙目になり、
「もう母さんが、かすんで見えなくなって……」
「まだ十メートル。早くいこうってば」
アゲハはカンタロウの服をつかむと、旅へと引っ張っていった。