マリアの愛
文字数 4,484文字
*
九日後。
「さっ、着いたよ。ここだ」
ツバメが指さした方向には、樹海が巨大な壁のように立ちふさがっていた。
「ここって、森しかないじゃん」
アゲハが、背の高い木を見上げる。
人が通る道はあるが、雑草に浸食されつつある。
鳩の鳴き声が聞こえてきた。
「ここにクロワの研究施設があるんですか?」
マリアが指で、鼻をすすった。
緑の濃厚な臭いが、容赦なく鼻孔に入ってくる。
「間違いないよ。あの施設に物品を届けていた商人を捕まえて、口を割らせたからね。本来ここは平地で、道もあって、森なんかなかったらしいんだ。それがある日突然、森ができちまてたってわけさ。クロワの奴が、変な儀式を行ったんだろうね」
ツバメが得てきた情報を、皆に話す。
森を見た所、突然はえてきたという割には、鳥や動物がすでに住んでいる。
どこかの森から移住してきたのだろう。
ガサガサと草をさする音が聞こえてくる。
「この森の中に、シオンと信者達が閉じ込められているわけなんですね?」
マリアがツバメに確認をとる。
「情報じゃ、そうなるね」
ツバメは大きくうなずいた。
アゲハは縦模様の樹皮を、直接手で触れてみた。ザラザラとした感触。
多少皮が剥げているが、偽物の木とは思えない。
小さな蟻が、アゲハの手に上っては、すぐに下りていく。
「本物の木だね。こんなものが、一夜にしてはえるなんて……普通じゃ有り得ないよ」
「いったい奴がどんな儀式をして、どんな目的でこんなことをしているのかは不明だけどね。とにかく、マリアの妹を助けることが、私達の役目さね。そして、あんた達の仕事でもある」
「かなり危険そうなんだけど。お金はちゃんとでるの?」
アゲハはツバメに確認する。
あまりにも奇妙な現象だ。
こういうときは、大概嫌な予感しかしない。
アゲハはどこかしら、体の奥底から、冷たいものを感じていた。
「もちろん。ここまで来る宿代や食事代だってだしてやったろう? 成功したら、大金を払ってやるよ。まっ、あたしのお金じゃないけど」
ツバメが持っているお金は、大使徒から得たものだ。
個人ではなく、組織が関わっているのである。
アゲハは組織が絡んでいるのなら、お金はちゃんともらえるだろうと判断した。
「契約しようか? カンタロウ君?」
アゲハが契約書にサインしようと、カンタロウの方を振りむいた。
カンタロウはなぜか腰を下ろし、道にはえた草をむしっている。
その手つきはとても丁寧で、草は根っこまで取りだされていた。
長い間草むしりをしていたためか、額に流れる汗を腕で拭っている。
「なあ、ちょっと質問いいかい? カンタロウっち、何してんの?」
ツバメが小さな声で、マリアとアゲハにカンタロウの状況を訪ねた。
実はさっきから気にはなっていたが、とてもカンタロウ本人に聞くことができなかったのだ。
それぐらい、それは変な光景だった。
「わかりません」
マリアは首を横に振る。
「何って、草むしってんじゃん」
アゲハは、そのままのことを言った。
ツバメはさらに声を小さくし、
「いや、だから。何で草むしってんのさ?」
「さあ? ちょっと聞いてくるよ」
アゲハは二人が見守る中、さっさとカンタロウの元に行くと、その背中をつつき、
「ねえカンタロウ君。何してんの?」
「今、小さい母さんが見えたんだ。だから探しているんだ。この草むらの中に、いたはずなんだ」
「へぇ。そうなんだ。がんばって」
特にカンタロウの様子に動揺もせず、アゲハは二人の元に帰ってくる。
そしてさじを投げたように、アゲハは両手を広げ、
「もう、駄目だねありゃ。草むらの中に、小さい母がいるって言ってる。かなりきてるよ」
「まずいですね。それ」
マリアはアゲハの言うことをすぐに理解し、深刻な表情になった。
「ええっ? 小さい母って何? その妖精的動物って何なのさ? 訳わからん」
ツバメはなぜ二人が理解できたのか、意味不明で、目を白黒させた。
「ここはいつものアレしかないな。よしっ、私が行ってきて、カンタロウ君を治療しておくよ」
さっそく膝枕をしに、カンタロウの元にむかおうとするアゲハ。
「待ってください。私が行きます。アゲハさんは疲れているでしょうし、ツバメさんと休んでいてください」
マリアはそれをすぐに止め、自分が行くことを主張した。
「いやいや。これは私の仕事みたいなものだし。マリアの方こそ休んでれば?」
「いえいえ。これは私の勤めですから。アゲハさんの方こそ休んでいてください」
「いやいやいやいや」
「いえいえいえいえ」
二人のカンタロウの取り合いが始まった。
しばらくは穏やかに、自己主張を続けていた二人だったが、どんどんそれは過熱していく。
普段は利他的なマリアも、我が儘なアゲハにまったく譲らない。
――火花飛び散ってるよ。いったい何が始まるのやら。
蚊帳の外にいるツバメは、どういう結末になるのか、見守るしかなかった。
「もう! 私が行くの! じゃね」
アゲハはついに目を三角にし、マリアを無視すると勝手にむかう。
「アゲハさん」
マリアは素早くアゲハの脇を抱えると、すごい力で天まで持ち上げ、
「私の乳輪が――何ですって?」
ドスのきいた声が、周りに響く。
――うおっ? マリア、すごい力!
ツバメは鬼神のような力に、度肝を抜かれた。
「……すみませんでした。屈辱感でいっぱいですから、マリアに仕事を譲ります」
アゲハは両手両足をブラブラさせながら、悪戯をしてしかられた子犬のように、しゅんとなった。
「よろしい」
マリアは満足気に微笑むと、悠々とカンタロウの所へむかう。マリアの完全勝利である。
「何なんだい? マリア、カンタロウっちに何するんだい?」
「膝枕」
「膝枕? 何それ? それで、あれが治るの?」
「治るんじゃないの。さっ、私はむこうで休んでいるから。あっ、ツバメ。話あるから、ちょっと来てよ」
負けたアゲハは、さっさとどこかに行ってしまう。
「ちょ、待ちなって」
ツバメは仕方なく、アゲハの後ろをついていった。
*
マリアはスカートをめくり上げ、地肌をだすと、そこにカンタロウの後頭部を乗せた。
黒い髪が、太股をさらりとなでる。
その感触だけで、マリアの胸はドキドキと高鳴っていた。
「本当に、小さな母はいたんだ……」
「はいはい。大丈夫ですよ。少し休めば、すぐによくなりますから」
弱っているカンタロウの額を、マリアは優しくなでてやる。それだけで、快感がマリアの体を刺激してくる。
人を助けるという喜び、愛する者を介護する愛しさ、それはとてもかけがえのないものだった。
――優しいな、マリアは。だけど、あの特種エコーズ、ツネミツを見下したような目。あれが、なかなか忘れられない。
カンタロウはマリアに惹かれつつも、過去のことが邪魔して、なかなか一歩踏みだせないでいた。
それは恋愛という気持ちではない。人に対する信頼を、さらに深めるという意味だ。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
今のマリアの表情は、女性らしく、暖かくて愛らしい。
カンタロウは顔を、マリアとは逆の方向に、横にむけた。頬から、太股の温もりを感じる。
――俺は、マリアを信じないといけないな。きっと、あのときのことは、気のせいだろう。
弱っている自分を、助けてくれる人を、邪険にするわけにはいかない。
小さな邪念を、頭の奥へと押し込み、人を疑うという罪悪感を拭っていく。
除去するにはかなりの時間をかけるが、ゆっくりしていけばいいと、カンタロウは思っていた。
「いい天気ですね」
マリアは空を見上げていた。
カンタロウも空を見上げ、
「ああ、でも、雨が降りそうだな」
「わかるんですか?」
「雲を見ていればわかる。それに、空気がどことなく湿気てるしな」
「へぇ」
どうりで寒いはずだと、マリアは思った。
「……なあ、マリア。もし妹を助けだしたら、どうするつもりなんだ?」
静かな声で、カンタロウはマリアに聞いてみる。
「……帰らないと、駄目でしょうね」
マリアの声の、語気が下がった。寂しそうだった。
「そうだな。それが一番だ」
「でもカンタロウ様。もし――ここに残ると私が言ったら、どうしますか?」
マリアの問いに、カンタロウはしばらく何も言えなかった。
背の高い紫の花に、黄色の蝶が羽を休めている。
マリアは辛抱強く、カンタロウの言葉を待った。
「俺には答えられないよ」
「そうですか? 私に残ってほしくはないんですか?」
マリアはいつになく、カンタロウに積極的だった。声色は普段よりも、甘く、魅惑的に響かせる。
カンタロウの耳に顔を近づけ、囁くように息を吐きつけた。
「そうだな……別れるのは辛いな」
カンタロウは安堵の表情を見せると、両目を静かに閉じていた。心身ともに落ち着いてきたのだ。
その様子を、マリアは嬉しそうに見守る。
「ふふっ、そうですか」
マリアはカンタロウから顔を離すと、雲を眺めた。頭巾雲が大きく、水平に広がっている。
天上の世界があらわれたようだった。
手をカンタロウの腕に軽く置き、安らかに眠れるように、優しくさする。
母親が子供をあやしているように見えた。
「……カンタロウ様。もし、シオンを助けだすことができたら。私、あなたの近くに住もうと思います」
「…………」
カンタロウは何も答えない。それでもマリアは、自分の気持ちを吐露し続ける。
「迷惑はかけません。私には両親はいませんから、心配する人もいませんし、大丈夫です。ハンターの仕事もきちんとやります。あなたには、お金が必要なのも知っています。だから、私を、その……ずっとパートナーとして、おそばにいさせて……」
マリアは告白をやめた。そっと、カンタロウの顔を覗いてみる。
「スー……スー……」
カンタロウの寝息が、物静かに、耳に入ってくる。
「……寝てる。肝心なときに、いつもそう。仕方のない人」
困ったように笑うマリア。
ある気持ちがあふれでてくる。
愛する者と世界を共有したいという気持ち。
「キス、してもいいですか?」
眠っているカンタロウからの返事はない。
マリアもそれはわかっている。
一度でてしまった感情の水を、せき止めることなど不可能だった。
マリアはカンタロウの頬に顔を近づけると、息を止め、苺のような舌をだした。
感触がわからないぐらいの速さで、カンタロウの頬に舌を触れさせるとすぐに引っ込めた。
カンタロウからの反応はない。
次に、唇を近づけると、軽く頬に触れすぐに離す。
カンタロウは起きることなく、小さく寝息をたてている。
――気づいてない。これなら、大丈夫。
マリアは大きく鼻から息を吸うと、ゆっくりと、赤い唇をカンタロウの頬に近づけていく。
唇と頬が触れた瞬間、マリアの中で何かが大きく高鳴った。
体が熱くなり、全身がしびれるような感覚がする。とても心地良く、マリアを優しく包んでいく。
――私はあなたを愛しています。カンタロウ様。
マリアは自然と、腕でカンタロウを抱きしめていた。
ただの好意が、深い愛情へと変わった瞬間だった。
九日後。
「さっ、着いたよ。ここだ」
ツバメが指さした方向には、樹海が巨大な壁のように立ちふさがっていた。
「ここって、森しかないじゃん」
アゲハが、背の高い木を見上げる。
人が通る道はあるが、雑草に浸食されつつある。
鳩の鳴き声が聞こえてきた。
「ここにクロワの研究施設があるんですか?」
マリアが指で、鼻をすすった。
緑の濃厚な臭いが、容赦なく鼻孔に入ってくる。
「間違いないよ。あの施設に物品を届けていた商人を捕まえて、口を割らせたからね。本来ここは平地で、道もあって、森なんかなかったらしいんだ。それがある日突然、森ができちまてたってわけさ。クロワの奴が、変な儀式を行ったんだろうね」
ツバメが得てきた情報を、皆に話す。
森を見た所、突然はえてきたという割には、鳥や動物がすでに住んでいる。
どこかの森から移住してきたのだろう。
ガサガサと草をさする音が聞こえてくる。
「この森の中に、シオンと信者達が閉じ込められているわけなんですね?」
マリアがツバメに確認をとる。
「情報じゃ、そうなるね」
ツバメは大きくうなずいた。
アゲハは縦模様の樹皮を、直接手で触れてみた。ザラザラとした感触。
多少皮が剥げているが、偽物の木とは思えない。
小さな蟻が、アゲハの手に上っては、すぐに下りていく。
「本物の木だね。こんなものが、一夜にしてはえるなんて……普通じゃ有り得ないよ」
「いったい奴がどんな儀式をして、どんな目的でこんなことをしているのかは不明だけどね。とにかく、マリアの妹を助けることが、私達の役目さね。そして、あんた達の仕事でもある」
「かなり危険そうなんだけど。お金はちゃんとでるの?」
アゲハはツバメに確認する。
あまりにも奇妙な現象だ。
こういうときは、大概嫌な予感しかしない。
アゲハはどこかしら、体の奥底から、冷たいものを感じていた。
「もちろん。ここまで来る宿代や食事代だってだしてやったろう? 成功したら、大金を払ってやるよ。まっ、あたしのお金じゃないけど」
ツバメが持っているお金は、大使徒から得たものだ。
個人ではなく、組織が関わっているのである。
アゲハは組織が絡んでいるのなら、お金はちゃんともらえるだろうと判断した。
「契約しようか? カンタロウ君?」
アゲハが契約書にサインしようと、カンタロウの方を振りむいた。
カンタロウはなぜか腰を下ろし、道にはえた草をむしっている。
その手つきはとても丁寧で、草は根っこまで取りだされていた。
長い間草むしりをしていたためか、額に流れる汗を腕で拭っている。
「なあ、ちょっと質問いいかい? カンタロウっち、何してんの?」
ツバメが小さな声で、マリアとアゲハにカンタロウの状況を訪ねた。
実はさっきから気にはなっていたが、とてもカンタロウ本人に聞くことができなかったのだ。
それぐらい、それは変な光景だった。
「わかりません」
マリアは首を横に振る。
「何って、草むしってんじゃん」
アゲハは、そのままのことを言った。
ツバメはさらに声を小さくし、
「いや、だから。何で草むしってんのさ?」
「さあ? ちょっと聞いてくるよ」
アゲハは二人が見守る中、さっさとカンタロウの元に行くと、その背中をつつき、
「ねえカンタロウ君。何してんの?」
「今、小さい母さんが見えたんだ。だから探しているんだ。この草むらの中に、いたはずなんだ」
「へぇ。そうなんだ。がんばって」
特にカンタロウの様子に動揺もせず、アゲハは二人の元に帰ってくる。
そしてさじを投げたように、アゲハは両手を広げ、
「もう、駄目だねありゃ。草むらの中に、小さい母がいるって言ってる。かなりきてるよ」
「まずいですね。それ」
マリアはアゲハの言うことをすぐに理解し、深刻な表情になった。
「ええっ? 小さい母って何? その妖精的動物って何なのさ? 訳わからん」
ツバメはなぜ二人が理解できたのか、意味不明で、目を白黒させた。
「ここはいつものアレしかないな。よしっ、私が行ってきて、カンタロウ君を治療しておくよ」
さっそく膝枕をしに、カンタロウの元にむかおうとするアゲハ。
「待ってください。私が行きます。アゲハさんは疲れているでしょうし、ツバメさんと休んでいてください」
マリアはそれをすぐに止め、自分が行くことを主張した。
「いやいや。これは私の仕事みたいなものだし。マリアの方こそ休んでれば?」
「いえいえ。これは私の勤めですから。アゲハさんの方こそ休んでいてください」
「いやいやいやいや」
「いえいえいえいえ」
二人のカンタロウの取り合いが始まった。
しばらくは穏やかに、自己主張を続けていた二人だったが、どんどんそれは過熱していく。
普段は利他的なマリアも、我が儘なアゲハにまったく譲らない。
――火花飛び散ってるよ。いったい何が始まるのやら。
蚊帳の外にいるツバメは、どういう結末になるのか、見守るしかなかった。
「もう! 私が行くの! じゃね」
アゲハはついに目を三角にし、マリアを無視すると勝手にむかう。
「アゲハさん」
マリアは素早くアゲハの脇を抱えると、すごい力で天まで持ち上げ、
「私の乳輪が――何ですって?」
ドスのきいた声が、周りに響く。
――うおっ? マリア、すごい力!
ツバメは鬼神のような力に、度肝を抜かれた。
「……すみませんでした。屈辱感でいっぱいですから、マリアに仕事を譲ります」
アゲハは両手両足をブラブラさせながら、悪戯をしてしかられた子犬のように、しゅんとなった。
「よろしい」
マリアは満足気に微笑むと、悠々とカンタロウの所へむかう。マリアの完全勝利である。
「何なんだい? マリア、カンタロウっちに何するんだい?」
「膝枕」
「膝枕? 何それ? それで、あれが治るの?」
「治るんじゃないの。さっ、私はむこうで休んでいるから。あっ、ツバメ。話あるから、ちょっと来てよ」
負けたアゲハは、さっさとどこかに行ってしまう。
「ちょ、待ちなって」
ツバメは仕方なく、アゲハの後ろをついていった。
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マリアはスカートをめくり上げ、地肌をだすと、そこにカンタロウの後頭部を乗せた。
黒い髪が、太股をさらりとなでる。
その感触だけで、マリアの胸はドキドキと高鳴っていた。
「本当に、小さな母はいたんだ……」
「はいはい。大丈夫ですよ。少し休めば、すぐによくなりますから」
弱っているカンタロウの額を、マリアは優しくなでてやる。それだけで、快感がマリアの体を刺激してくる。
人を助けるという喜び、愛する者を介護する愛しさ、それはとてもかけがえのないものだった。
――優しいな、マリアは。だけど、あの特種エコーズ、ツネミツを見下したような目。あれが、なかなか忘れられない。
カンタロウはマリアに惹かれつつも、過去のことが邪魔して、なかなか一歩踏みだせないでいた。
それは恋愛という気持ちではない。人に対する信頼を、さらに深めるという意味だ。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
今のマリアの表情は、女性らしく、暖かくて愛らしい。
カンタロウは顔を、マリアとは逆の方向に、横にむけた。頬から、太股の温もりを感じる。
――俺は、マリアを信じないといけないな。きっと、あのときのことは、気のせいだろう。
弱っている自分を、助けてくれる人を、邪険にするわけにはいかない。
小さな邪念を、頭の奥へと押し込み、人を疑うという罪悪感を拭っていく。
除去するにはかなりの時間をかけるが、ゆっくりしていけばいいと、カンタロウは思っていた。
「いい天気ですね」
マリアは空を見上げていた。
カンタロウも空を見上げ、
「ああ、でも、雨が降りそうだな」
「わかるんですか?」
「雲を見ていればわかる。それに、空気がどことなく湿気てるしな」
「へぇ」
どうりで寒いはずだと、マリアは思った。
「……なあ、マリア。もし妹を助けだしたら、どうするつもりなんだ?」
静かな声で、カンタロウはマリアに聞いてみる。
「……帰らないと、駄目でしょうね」
マリアの声の、語気が下がった。寂しそうだった。
「そうだな。それが一番だ」
「でもカンタロウ様。もし――ここに残ると私が言ったら、どうしますか?」
マリアの問いに、カンタロウはしばらく何も言えなかった。
背の高い紫の花に、黄色の蝶が羽を休めている。
マリアは辛抱強く、カンタロウの言葉を待った。
「俺には答えられないよ」
「そうですか? 私に残ってほしくはないんですか?」
マリアはいつになく、カンタロウに積極的だった。声色は普段よりも、甘く、魅惑的に響かせる。
カンタロウの耳に顔を近づけ、囁くように息を吐きつけた。
「そうだな……別れるのは辛いな」
カンタロウは安堵の表情を見せると、両目を静かに閉じていた。心身ともに落ち着いてきたのだ。
その様子を、マリアは嬉しそうに見守る。
「ふふっ、そうですか」
マリアはカンタロウから顔を離すと、雲を眺めた。頭巾雲が大きく、水平に広がっている。
天上の世界があらわれたようだった。
手をカンタロウの腕に軽く置き、安らかに眠れるように、優しくさする。
母親が子供をあやしているように見えた。
「……カンタロウ様。もし、シオンを助けだすことができたら。私、あなたの近くに住もうと思います」
「…………」
カンタロウは何も答えない。それでもマリアは、自分の気持ちを吐露し続ける。
「迷惑はかけません。私には両親はいませんから、心配する人もいませんし、大丈夫です。ハンターの仕事もきちんとやります。あなたには、お金が必要なのも知っています。だから、私を、その……ずっとパートナーとして、おそばにいさせて……」
マリアは告白をやめた。そっと、カンタロウの顔を覗いてみる。
「スー……スー……」
カンタロウの寝息が、物静かに、耳に入ってくる。
「……寝てる。肝心なときに、いつもそう。仕方のない人」
困ったように笑うマリア。
ある気持ちがあふれでてくる。
愛する者と世界を共有したいという気持ち。
「キス、してもいいですか?」
眠っているカンタロウからの返事はない。
マリアもそれはわかっている。
一度でてしまった感情の水を、せき止めることなど不可能だった。
マリアはカンタロウの頬に顔を近づけると、息を止め、苺のような舌をだした。
感触がわからないぐらいの速さで、カンタロウの頬に舌を触れさせるとすぐに引っ込めた。
カンタロウからの反応はない。
次に、唇を近づけると、軽く頬に触れすぐに離す。
カンタロウは起きることなく、小さく寝息をたてている。
――気づいてない。これなら、大丈夫。
マリアは大きく鼻から息を吸うと、ゆっくりと、赤い唇をカンタロウの頬に近づけていく。
唇と頬が触れた瞬間、マリアの中で何かが大きく高鳴った。
体が熱くなり、全身がしびれるような感覚がする。とても心地良く、マリアを優しく包んでいく。
――私はあなたを愛しています。カンタロウ様。
マリアは自然と、腕でカンタロウを抱きしめていた。
ただの好意が、深い愛情へと変わった瞬間だった。