第52話 1月31日。粟津温泉。

文字数 3,015文字

小松市の町家cafeで図面の最終確認を行った後、20分ほど山間に向かって車を走らせ、粟津温泉の「法師」に到着した。
「うわー、立派な旅館ですね」
美久ちゃんが声を上げた。
雨の中、立派な佇まいの建物。
今日は10度超えまで気温が上がり、雪は降っていないが、雪景色も似合いそうだ。

「1300年の歴史があるんだって。」
僕も初めて足を踏み入れる豪華な温泉宿に少し躊躇する。
玄関で訪問の目的を告げると、宿泊客でもないのに非常に丁寧に谷川さんの部屋まで案内してくれる。

「お庭も素敵ですね!」
兼六園のような庭園が、美しく整備されていた。
増築を繰り返したと思われる迷路のような長い廊下を進むと、谷川様と案内された部屋にたどり着いた。

「こんにちわ。三月家の者です」
「はーい」
声をかけると部屋の奥から谷川さんが出てきた。
恰幅の良い方で、左手首はぐるぐる固定されている。
「よー来てくださった。まぁ入ってくだされ」
招かねて部屋に入らせて貰った。
大きな部屋ではないが、窓からは手入れが行き届いた庭が見渡せた。
「わーここからのお庭の景色もいいですね」
美久ちゃんが喜ぶと、谷川さんも頬を緩めた。

僕たちが座ると、谷川さんがポットからお茶を入れようと立ち上がった。
「あっ、お構いなく。」
「なにこれぐらいしかすることがないのでの」
右手だけで器用にお茶を入れてくれた。

「ところでみっちゃんは元気かの」
珠洲の避難所でもお義父さんを昔から知る人達からは「みっちゃん」と呼ばれている。
「はい。めちゃくちゃ元気です。この前の土曜日も上戸小学校でステージに上がって、場を盛り上げていました」
「相変わらずやな」
谷川さんは楽しそうに笑った。

「で、みっちゃんの家はどうなったかご存知か」
「そうですね、外観上は蔵が崩れただけですが、家の土台にヒビが入って、母屋や離れなど増築した箇所の境目に隙間ができました。今はブルーシートなどの応急処置で何とか暮らせています。」
「そうか。うちは地震で半分崩れた所に津波で完全に潰れてしまった。何にせよ住めるところがあるということがどんだけ有り難いか、今回わかったわ」
少し悲しそうな顔で谷川さんは言った。

「それにしてもここはいいお部屋ですねぇ」
さっきから辺りを見回していた美久ちゃんが言った。
確かに建築士として非常に興味深い建物だ。

「そうやな。ワシも初めて入った時は驚いた。珠洲の何も無い避難所から金沢の大きな体育館。そしていきなりこんな高級な客室やろ。驚いたわ」
「庭が凄いです」
うんうん、と谷川さんは頷いた。
「水も食べるものも着るものも、トイレさえない世界から、ここで3食出してもらってワシも最初は夢のようやと思った。けど3日で飽きてしもた。
周りの人もどんどんおらんくなってしまい、今では一人や。
温泉にゆっくり浸かること、テレビを見る以外はなーんもすることがない。
珠洲では漁の準備をしたり、畑をやったり、みんなと酒を飲んだりで毎日が忙しかったが楽しかった。そういった張り合いがまるでなくてな」
「そうですね」
僕が同意した。
「石川県から旅館に毎日1万円の補助も出してくれているみたいで大変有り難いんやが、早く珠洲に帰りたくてな。
ただ娘からは避難所の生活は厳しいので、せめて骨折が完治するまではこっちおれと言われているんや。
どのみちここも避難所として使えるのは新幹線開通までかもしれんし、それまでには仮設住宅の抽選に当たるのを願うばかりや」
「えっ、そうなんですか?住むとこが決まらないのに出ていかなくちゃならないって酷いですよね」
美久ちゃんが我が事のように怒った。
「まぁ色々交渉してくれているみたいやけど、新幹線でお金も持っているお客さんにもたくさん来て欲しいというのもあるやろうしな。
けどこの温泉の人たちは親切な人ばかりでそこに関しては何の不満もない。
3月以降も儂らが住めるように石川県に話してくれているみたいや。
ほんまありがたや」
「けど出てけなんてやっぱり酷いですよね」
まだ美久ちゃんは怒っている。
「まぁ、出てくと言っても他の施設に行くということや。
本当はここは1万で泊まれる部屋じゃないさけな」
「私ならここがいいな。ここにずっと住みたい」
「けどなんもすることないぞ」
「私はネットさえ繋がれば十分です。どんだけでも居られます。
あっ、けど働かないと好きなコンテンツも買えないか。
なら週に2日ぐらいはリモートで勤務します」
「あんた好き勝手なこと言ってるなぁ」
美久ちゃんの明るさに、谷川さんも釣られて笑った。

「では谷川さんのスマホをお借りできますか」
「これじゃ。わしゃチンプンカンプンでの」
少し方の古いスマホを渡された。
先ずはスマホを旅館のWi-Fiに繋いだ。
テレビ通話なので、Wi-Fiでないと多額の費用が請求されるかもしれない。
オンライン通話のアプリをダウンロードし、三月のお義父さんの設定を行い、宛先名を「みっちゃん」で登録した。
ショートカットをスマホに登録して、谷川さんに渡した。

「ではその『みっちゃん』のアイコンを押してみてください」
「これか、、、」
谷川さんがアイコンを押すとしばらくコールする音が聞こえ、画面にお義父さんの顔がアップで表示された。
「やっちゃん!!」
「みっちゃん!!」
お互いの名を呼び合う。
「お義父さん、もう少しスマホから離れて」
呼び出し先の後ろで、清恵さんの声が聞こえる。
三月のお義父さんもスマホに詳しくないので、清恵さんが後ろでサポートしてくれている。
お義父さんと谷川さんは楽しそうにずっとお互いの近況を話している。
珠洲弁に慣れてきた僕でも、ネイティブ全開の二人の会話は時折意味がわからなかったが、お互いの無事を心より喜んでいた。

最後はまた連絡すると言って、15分ほどのビデオ通話が終わった。
その後、谷川さんに他に連絡したい相手を聞いて、スマホにショートカットを登録しておいた。
「今日はたくさん笑った。これで少しは寂しくなくなったわ。ありがとう」
最後に谷川さんからお礼を言われ、僕たちは法師を後にした。

「谷川さん、本当に喜んでくれてよかったですね」
金沢に帰る車の中で、助手席で美久ちゃんも嬉しそうに言った。
「そうだね。やっぱりやることが無いのって、一番辛いよね」
「そうかもしれませんね。まぁ私は本当にスマホとネットあれば、何日でもいれますけどね」
「今どきの人はそうかもね。僕は1週間ぐらいならいいけど、やっぱりずっとは嫌かなぁ。
前に何かで読んだんだけど、女子バレーボールの代表選手が、選手の時は毎日の練習がキツくてキツくて、本当に嫌だったんだって。
バレーボールを引退して、自由になれた!としばらくは喜んだけど、日々のコートの中にあった、喜びや怒りや悲しみなど、爆発するような感情が一切無くなってしまい、穏やかな日常になかなか馴染めなかったと。
まぁそれは極端な例だけど、3食用意されて何の心配もない生活も毎日続くと、生きる意味が見出せなくなるのかもね。」
「私はスマホの中の押しの韓流グループを応援しているだけで生活に張り合いでまくり、ですけど」
「ははは」

意外と今どきの世代のほうが逞しいのかもしれない。
ただお義父さんや谷川さんのように、珠洲の自然や濃厚な人間関係の中で育った人たちには上げ膳据え膳の生活が続くのは決して楽しい暮らしでは無いのだろう。
現在石川県内外に2次避難している方が大勢居ることを考えるとこういった支援も大切と感じた。
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