痛みを知る者たち
文字数 4,708文字
私と茉凜の間に漂っていた温かな空気が、明の冷たい一言で一瞬にして凍りついた。その場で、私ははっとした。自分の言葉が、まるで彼女の存在を無視するかのように進んでいたことに、今更ながら気づいた。
もっと早く気づくべきだった。茉凜には、もちろん悪意などなかった。ただ、私が導こうとした結論に、彼女が優しく応じてくれただけだ。しかし、その瞬間、明がどんな思いで私たちを見つめていたのか、私はまるで考えていなかった。
「運命で結ばれて、運命に導かれたんだって? まるで絵に描いたような、理想的な出会い……よかったじゃない」
彼女の声は淡々としていて、感情を感じさせなかった。それでも、私にはその言葉の一つ一つが胸に深く刺さった。彼女の表情はほとんど動かないままだったが、その無表情の裏には、きっと抑えきれない嘆きと怒りが渦巻いているのだろう。
私の手は震えた。何を言うべきか、言葉を探したが、どれも無意味に思えた。彼女の心に触れるものなど、どこにも見つからなかった。気づけば、明はもう私たちに背を向けていた。
「馬鹿らしい……」
彼女の冷たい言葉が、静かに漏れる。その背中は、冷たく、そしてどこか寂しげだった。彼女はきっと、感情を押し殺し、その冷たさで自分を守ろうとしているのだろう。そう思うと、私の胸はますます苦しくなった。
私は本当に、彼女の苦しみに気づいていなかったのか?それとも、見て見ぬふりをしていただけなのか?
「明……」
私の声はかすれていた。彼女の名前を呼ぶだけで、言葉は途切れてしまった。
明はその呼びかけに応えず、ただ静かに歩みを進めた。その小さくなっていく背中を見つめながら、私は何も言えないままだった。彼女が弓鶴の元許嫁であったという事実が、この瞬間にどれほど彼女を苦しめているのか、私はその重さを痛感していた。
彼女が見つめていたのは、過去の思い出と、失われた未来だったのだろう。弓鶴と共に過ごすはずだった日々、その先に待っていたはずの未来。なのに、それらすべてが、私と茉凜との出会いによって、壊されてしまったのだ。
「アキラちゃん、そんなこと言わないで……」
茉凜が震える声で言った。その声には、優しさと痛みが込められていた。彼女は一歩、明に近づこうとしたが、途中で足を止めた。彼女もまた、明の心の傷に気づいていたのかもしれない。
「わたしは……弓鶴くんと出会えたことが嬉しいよ。だけど、それは、そういう意味じゃ……」
茉凜の声が詰まる。彼女は私を見つめ、その瞳には悩みと悲しみが映っていた。私たちの出会いは、確かに運命的なものだったかもしれない。だが、それが明にとって、どれだけ残酷な運命だったのか……私はその事実を無視できなかった。
「そうだね……運命ってひどいよね……」
明は振り返らずに呟いた。その言葉には自嘲が込められていて、茉凜の小さな声が彼女に届くことはなかった。彼女の冷たく遠ざかっていく背中を見つめながら、私は自分の無力さを感じていた。こんなにも大切な人の痛みに、何もしてあげられない自分を、どうしても責めずにはいられなかった。
このままじゃいけない。だけど、どうすればいいのだろう。私は心の中で何度もその問いを繰り返した。
◇ ◇
明が去った部屋に残された静寂の中で、私は気づけば拳を固く握りしめていた。指先が白くなるほど力を込めて、その震えを止めようとしていたのだ。胸の中に広がるのは、明を失望させてしまった自分への怒り。そしてその怒りが行き場を失い、どうしようもなく押し寄せてくる焦燥感に支配されていた。
でも、何かを壊したところで、この感情が晴れるわけじゃない。それはただの自己満足だと分かっていた。それよりも、私が大切に思う弟、弓鶴のこと。そして、彼の許嫁だった明のことを考えるべきだ。二人の途切れてしまった時間を、私は呪いを解くことで取り戻してあげたいとずっと思っていた。それが私の原動力の一つになっていたはずだった。
それなのに、現実はどうだろう。解呪のためにはどうしても茉凜の力が必要で、そして美鶴である私にとって、彼女が何よりも大切だった。だから私は、明の気持ちを知らず知らずのうちに蔑ろにしてしまっていた。自分の思いだけに囚われて、彼女の心の痛みを見て見ぬふりをしてきたのだ。今になってわだかまりをなくそうなんて思うこと自体が、浅はかだった。明と向き合うことを怯えていた私には、その資格がない。
このままでは、明は本当にどこか遠くへ行ってしまうだろう。彼女を絶望させてはいけない。彼女の中にまだ残っているかもしれない希望の光を、私の無理解で消してしまってはいけない。私は……弓鶴の姉として、彼女のためにできることをしなければならない。
拳を解き、私はゆっくりと深呼吸をした。その一呼吸の重さが、私が今、取るべき道を示しているようだった。明の心に向き合い、彼女を救うために、私は何を犠牲にしてでも動く覚悟を決めなければならないのだ。
拳を解いて、深く息を吸い込んだとき、その重さが胸にずしりと響いた。まるでその呼吸が、私が進むべき道を明確に示してくれているかのようだった。明の心と向き合い、彼女の苦しみを救うためには、もう何も恐れず、何を犠牲にしてでも動く覚悟が必要だった。
「俺、行ってくる……」
私は茉凜をじっと見つめながら言葉を絞り出した。そこには私のすべての思いが込められていた。明に対する後悔と、今からでも彼女に何かできるかもしれないという決意が、重く胸に響いていた。
茉凜は、私の決意を受け止めるように、優しく、しかし真剣な眼差しで答えた。
「うん、行ってあげて……」
彼女の目には強い願いが込められていた。それが背中を押してくれた。茉凜の言葉はいつもそうだ。優しいけれど、確かな力がある。彼女の信頼が、私に勇気を与えてくれるのだ。
私の足は自然と前に向き、決して引き返さない覚悟がそこにあった。明の痛み、彼女の孤独、そのすべてに向き合うために。弓鶴の姉として、私はその道を歩まなければならない。
◇ ◇
私は明の部屋の前に立った。何度かノックをして呼びかけたものの返事はなく、私はドアノブに手を掛けた。鍵はかかっておらず、私は何度も躊躇しながら、勇気をもってドアを開けた。
部屋は私や茉凜と同じ元はゲストルームで、構造もインテリアもほぼ共通だった。明はこの部屋を自分らしくアレンジすることもしていなかったようで、殺風景なままで、およそ生活感というものは感じられなかった。
明は居間の白く大きなソファの上に、まるで心の奥に閉じ込められたかのようにうずくまっていた。彼女の身体がいつもよりも小さく見え、その姿に切なさがこみ上げる。虚ろな目は、どこか遠くを見つめていて、その視線の先には絶望しかないことが痛いほど伝わってきた。
「明……」
その名を呼んでも、彼女はまるで私の声が届かないかのように反応しなかった。心の中で焦りと無力感が募る。何とか彼女の心に触れたくて、私は懇願するように言った。
「頼む、俺の話を聞いてくれないか」
すると明は私を見ずに、ぼそりと拒絶の言葉を口にした。
「出てって……」
その一言は、まるで刃物のように私の胸を刺した。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。私は彼女を一人にすることができないと強く思った。
「俺は出ていかない。今のお前を一人にはさせるわけには……」
「なんでそういうこと言うかな……。どうでもいいじゃん」
「どうでもいいわけがないだろ!」
私は自分でも驚くほど大きな声を張り上げていた。明の弓鶴への気持ちを踏みにじるわけにはいかない。その思いが、自分への怒りと交錯し、さらに声を荒げる原因となった。
私が息を荒げているのに、明は無言で重い沈黙を保ち、周囲の空気が一層冷たく感じられた。やがて、彼女がぽつりと口を開いた。
「安心してよ。あたし、ここから出ていくから。もう、あんたたちの邪魔はしない……」
「出ていくだと?」
低い声でそう言うと、明は小さなため息をつき、続けた。
「あたしの役目は終わったんだ。弓鶴くんはもう十分戦える。教えることなんて何もない。これ以上、ここに留まる理由なんてない。元々あたしの居場所なんて無かったんだから……」
その言葉に、心の奥で何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「そんなことはない。俺たちは同じ目的で戦っている同志だろ?」
明は私の言葉に目を閉じ、苦痛に満ちた表情を浮かべた。
「いまさらあたしに何ができるっていうの? なにもないじゃん。あたしにはあんたのためになる特別な何かなんて無い。あたしは用済みなんだよ」
その瞬間、彼女の声は私の心に重くのしかかり、何もできない自分の無力感が一層募っていった。明が自らの存在意義を否定している姿を見て、どうすれば彼女の心の壁を崩せるのか、ただひたすらに考えるばかりだった。
「そんなことはない。お前は誤解している。」
「何が誤解なの? 言ってみてよ?」
明の瞳には、悲しみと怒りが交錯していた。その姿を見ると、胸の奥がざわめくような思いが湧き上がった。彼女を救うためには、どんな言葉をかければいいのか、私の心は迷い続けた。
「言えないでしょ? そりゃそうだ。あんたは、なんだかんだであいつのことばかり見てて、あいつもあんたのことばかり見てる。“私たちは付き合ってません。そんなつもりはありませーん”なんて見え透いた言い訳をして、私から見たら、本当に馬鹿じゃないのって思うわ。」
明の言葉は鋭く、私の心に生々しい痛みを刻んだ。
「あんたはあいつを選んだ。私は選ばれなかった。それだけのことよ。あいつが気を遣ったとしても、私には入り込む余地なんて、どこにもないんだから。それなのに、今度は運命だって? 本当に呆れる……。私を馬鹿にするのもいい加減にしろ。」
彼女の声は震えていたが、その奥に宿る怒りと悲しみは渦巻いていた。涙がその目に宿り、明の強がりが痛々しさを増していった。
「……お前はそれで諦めてしまうのか?」
私は感情に流され、つい彼女を逆撫でるような言葉を口にしてしまった。
明は苦々しい顔をして答えた。
「あいつと同じようなことを言うんだね。そうだよ、そうするしかないんだよ。そうしなきゃ、あいつを殺すかもしれないからね!」
彼女の言葉に込められた痛みや悲しみの大きさに、私の心は激しく揺れた。その苦悩が、まるで私自身の心に引き裂かれるように響いてきた。
「あたし、おかしくなってる。いいや、もうずっと前から壊れてたんだろうな……」
そう言うと、明は突然、服を脱ぎ始めた。私はその行動に驚き、止めることもできずに立ち尽くしてしまった。
彼女の定番、フィットした黒のクロップトップが床に無造作に投げ捨てられた。
目の前には、涙ぐんだ明が立っていた。彼女の上半身はさらけ出され、何の飾り気もないワイヤーレスのブラジャーだけが残っていた。そして、胸元には、大きな火傷のような痛々しい傷痕があった。それは赤黒く変色し、不規則な形状をしていて、まるで彼女の心の傷をそのまま映し出しているかのようだった。
明の肩は小刻みに震えていた。その震えが彼女の中の苦しみを物語っていることがわかり、私は胸が苦しくなった。それは彼女が最も見せたくなかったものなのだと理解できた。彼女がそれを見せようとする理由もなんとなく察していた。明は自分の痛みを、私に伝えようとしているのだ。彼女の心の叫びが、静かに耳に届いた。