第70話 可能性を覗く瞳
文字数 5,562文字
その時、不意にスマホが鳴った。画面を見ると、佐藤さんの名前が光っていて、心が締めつけられるような感覚が広がった。すぐに察した。茉凜が、ようやく意識を取り戻したのだ。
不安と期待が入り混じり、胸の奥がざわめく。私は立ち上がり、鏡を見た。そこに映っていたのは、ひどく泣き腫らした顔の私だった。頬には涙の痕が残り、瞼は腫れて重くなっている。まるで弓鶴の仮面が崩れて、ずっと隠していた本当の「美鶴」が浮かび上がっているかのようだった。
このままの顔で茉凜に会うなんて、到底できるはずがなかった。だって、こんなにも脆くて弱い自分を見せるなんて、考えただけで怖い。
「少し時間を置いてから伺います」と、スマホに短く打ち込んで送信する。すぐに行くべきだとわかっていても、今の私は無理だ。泣きすぎて心も乱れたままでは、彼女にちゃんと向き合えない。だから、まずはシャワーを浴びて、気持ちを整えようと思った。
服を脱ぎ、勢いよくシャワーの下に飛び込んだ。冷水を選んだのは、心を一瞬でもクリアにしたかったから。でも、その冷たさに耐えられず、すぐに温水に切り替えた。冷水の刺激は、むしろ心の中にあった不安やモヤモヤを、より浮き彫りにしてしまった。
シャワールームの壁に映るのは弟の弓鶴の姿。鏡の中のその姿を見つめながら、私はいつも感じている心と身体の違和感を思い知らされる。どれだけ頑張って「男の子」になろうとしても、心は美鶴という女の子であることに変わりはない。
真凛の前では、弓鶴として振る舞わなければならない。彼女が私に期待して求めているものは男の子の弓鶴であって、女の子である美鶴ではない。
私は彼女に対して特別な感情を抱いている。だけど、その感情は男の子としてのものではなく、心の中の女の子の美鶴として彼女に惹かれている。
そんなお互いの不一致に気づくたび、どうしようもない違和感と苦しさが私の中を埋め尽くした。
もし、彼女との関係がもっと深くなったら、この不一致が、この繊細な関係を壊してしまうのではないかと、いつも不安だった。男の子の身体を持つ自分が、どうやって彼女に向き合えばいいのか、答えは見つからないままだった。
性欲があるかないか、といったら、ないとは言い切れない。でもそれは一番怖ろしいことで、想像するだけでも怖ろしかった。
彼女にそんな私の悩みや不安を押しつけることなど、できるわけもなく、私は自分の中で抱える葛藤となんとか向き合ってきた。それが彼女を守るために必要なことだと信じていた。けれど、その決意が、今では少しずつ揺らぎ始めているのがわかる。
温かいシャワーが、冷たく凝り固まっていた私の心にそっと染み渡る。でも、それだけではこの感情の深い傷を癒すことはできなかった。
◇ ◇
私は深呼吸をして、茉凜の部屋のドアをノックした。できるだけ、いつもの冷淡な顔を作り出そうと必死だった。
佐藤さんが出てきて、私を導き入れた。元々ゲストルームだったその部屋は、私の部屋と同じで一人で使うには広すぎて、華美な装飾などない洗練されたインテリアも、どこか無機質に感じられて、私にとってはあまり居心地のいいものではなかった。
広いリビングスペースを抜けて、茉凜のベッドルームに足を踏み入れると、そこにはシンプルでありながらも女性らしい温かみのある空間が広がっていた。
ベッドは無地の淡い色合いのカバーで整えられ、ベッドサイドには手にしっくりくるサイズのぬいぐるみたちが並んでいる。大きなクマやかわいらしい小さなウサギ、シンプルなリボンをつけた猫のぬいぐるみが、愛されているのが伝わるように、静かに寄り添っていた。
ドレッサーの上には、必要最低限のコスメが整然と置かれており、華美さはないけれど、彼女の清潔感と繊細さが感じられる。リップやアイシャドウ、パウダーケースがシンプルに並び、使い込まれたブラシやパフも自然に置かれている。
全体に、茉凜らしい落ち着いた温かさが感じられるこの部屋は、シンプルでありながらも彼女の個性と心地よさをしっかりと表現している空間だった。
ベッドの中の茉凜は、まだぼーっと天井を見つめたままで、目には生気が感じられず、心をどこかに置き去りにしてしまったように見えた。乱れていた髪の毛は、佐藤さんが整えてくれたようだったが、その静けさの中で彼女の心の痛みはまだ深く、漂うような静けさを保っていた。
私は驚かせないように、静かに近づき、茉凜の視線の先に顔を伸ばした。それでも、彼女の瞳には輝きが薄く、焦点が定まらないままだった。まるでその目が、どこか遠い場所に心を置き去りにしているように感じられた。
「茉凜……」
私は何度も優しく声をかけた。その声には、地獄のような苦しみから彼女をなんとしても救い出したいという強い思いが込められていた。茉凜を見守る私の心には、彼女を助けたいという切実な気持ちでいっぱいだった。
やがて、茉凜の口が微かに動き、目の焦点が次第に合ってきた。私はその変化を見逃さず、さらに呼びかけを続けた。
「……づるくん……」
彼女の呟きを聞いて、私は思わず身を乗り出した。
「茉凜、俺だ。わかるか……?」
その声が届いたのか、茉凜ははっと目を見開いた。しかし、その口から漏れた言葉は、深い悲しみを含んでいた。
「あれ、ゆづるくん……つぶされちゃったのに……」
おそらく彼女の心は、あの異常な事態に心を囚われたままで、現実の時が進んでいないのかもしれなかった。
「しっかりしろ、俺は潰されてもいないし、こうしてちゃんと生きている。ほら!」
私は茉凜の右手を取り、その震える手のひらを自分の頬に触れさせた。自分が生きているという証を彼女に伝えたかった。私の温かい頬を感じ取ってもらい、少しでも安心してほしかった。
それでも、茉凜の手の震えはなかなか収まらなかった。だから私は、彼女を安心させるように微笑み続けた。涙がこぼれそうになるのを必死に抑えながら、彼女に心の温かさを伝えようとした。
「温かいね……」
「ああ……。お前の手はちょっと冷たいな」
お互いの体温を確かめ合いながら、茉凜の目には少しずつ光が戻っていった。彼女の心に少しずつ温もりが戻り、私の存在が再び彼女の中にしっかりと刻まれていくのを感じた。
「生きてる……ちゃんと生きてる」
「ああ……生きてるぞ」
その言葉に応じるように、茉凜の顔にふわっと柔らかな笑みが浮かんだ。それはまるで、雲間から差し込む陽光のような、温かさと安心感をもたらす笑みだった。その笑みを見て、私はようやくほっと息をついた。
いつもの茉凜が戻ってきたのだ。彼女の瞳には再び輝きが戻り、深い悲しみの中にもあった彼女の本来の温かさと強さが見えた。
◇ ◇
茉凜は「もう、大丈夫だよ」と言って、起き上がろうとした。けれど、その姿からは、彼女が何かに焦り、それを隠そうとしているように見えた。彼女の目には、どこか遠くに心を置き去りにしてしまったかのような虚ろさが漂っていて、私は慌てて彼女の手を押さえ、「待て、無理をするな」と静かに制止した。
私は彼女が好きな温かい豆乳ラテを用意し、彼女の近くに座った。私には彼女の気持ちを優しく包み込むしかできないと思ったから、あまり口を挟まず、彼女の反応を静かに見守った。茉凜の心を安らげるために、ただそっとそばにいることが、今は最も大切なことだと感じていた。
沈黙が流れる中、茉凜の手がカップを持つ手が微かに震えていた。彼女はゆっくりとカップに唇をつけ、温かい飲み物の感触を確かめるように、慎重に飲み進めた。そんな彼女の姿を見守りながら、私は心の中で彼女の傷が癒えるのを願っていた。
ふうっ、とため息をついた後、茉凜がぽつりと口を開いた。
「ごめんね、なんかひどいことになっちゃって……」
彼女の言葉に、私は少し驚きながらも、静かに答えた。
「いや、何よりお前が無事でよかった」
私の声がどこか冷たく、堅苦しく感じられるのが、心の奥でじわじわと悔しさを募らせていた。もっと優しく、彼女の心に寄り添う言葉をかけたかったけれど、弓鶴の仮面を被る私には、どうしてもそれがうまく言えなくて、苛立っていた。
「わたしね、あの時変になっちゃったんだ……」
彼女の声は小さく、か細い。目を伏せながら、どうしても言い出せずにいたことを打ち明けるようなその姿に、私の胸が痛んだ。
「変になった?あ、 無理に言わなくてもいい……」
私は言いながらも、好奇心が少しだけ顔を出してしまうのを抑えた。
茉凜はそれに構わず続けた。
「あのね、こんなおかしな話信じてもらえないと思って、今まで誰にも話したくはなかったんだけど、わたし、時々物の見え方がおかしくなるときがあるの」
「見え方?」
「うん……。目を閉じたわけじゃないのに、急に世界が真っ暗になって、何も見えなくなってしまうの」
その言葉に、私は少し困惑しながらも、茉凜の話に耳を傾けた。
「でも、すぐにその中に何かが浮かび上がってきて、それがなぜだか、白い靄みたいなものに包まれていて、ゆらゆらして見えるの」
「それは幻か?」
私はつい口にしてしまったが、茉凜は首を横に振り、ゆっくりと話し始めた。
「ううん、それは違うって思う。実はこれって、今まで何度もあったの」
「以前から、なのか? それはいつだ?」
茉凜は少し考え込み、記憶を辿りながら答えた。
「弓鶴くんと最初に会った時……。それから、アキラちゃんと向き合った時……。あと、曽良木っていう人が現れた時……」
その言葉に、私は驚きとともに、心の中がぐらぐらと揺れるような感覚に襲われた。全てが一つの真実に結びつこうとしていたのだ。
石御台公園での私の暴走。あの時、天のメンバーが誰一人として突破できなかった、私の無意識の自己防衛機構を潜り抜けた事。超一流の明の剣戟をことごとく回避した事。曽良木の時も、彼女はそれを察知していたという。そして、今ここで、彼女の言葉がすべてをつなぎ合わせていた。
「今回起こったことも、お前にはそういう風に見えていたということか?」
茉凜は頷きながら、震える声で話し続けた。
「あの時、真っ白にぼやけた弓鶴くんがどんどん遠ざかっていって、そこに上から大きな白い塊が降ってきて……」
彼女の手が震え始め、ラテがカップから零れそうになるのを見て、私は慌ててその手を支えた。茉凜の恐怖が私にまで伝わってきた。彼女の顔色は青ざめ、目の中には深い不安が広がっていた。
「茉凜、もういい……」
それでも、茉凜は止まらなかった。彼女の声が、切なさと恐怖に満ちたまま続いた。
「わたし、だめって叫ぼうとしたけど、声が出なくて、身体が重くてなかなか動けなくて、見えているのに何もできなくて……。そうしたら、弓鶴くんが下敷きになってしまうのが見えて……」
その言葉を聞くたびに、私の心は重く圧し掛かるような感覚に包まれた。茉凜の目は大きく開かれ、体は激しく震え、恐怖と絶望の入り混じった感情が私に痛いほど伝わってきた。
茉凜の視線が空間の奥を見つめるその様子から、彼女がどれほど恐ろしい光景を目にしていたのかがわかった。彼女の呼吸は荒く、言葉を続けるたびに体が震えていた。
彼女を抱きしめたい衝動が私の心を支配したが、その感情を必死に抑えた。
私の心の中で、茉凜が持つ力の意味が次第に明確になってきた。彼女が、自身や身近な人が絶対的な死の危険に晒されるときに、得体の知れない予知めいた視界を得る特別な力を持っているという確信が深まってきた。
それは、デルワーズが語った「異なる世界の異なる時間と場所を指し示す」という説明にもリンクしている。異なる世界の場所と時間を指し示すということは、その場所のその時を覗き見ることが可能になるということだ。茉凜の瞳に浮かぶぼやけた白い像がゆらめく様子は、複数の不確定な未来の断片が重なり合っているのかもしれないと解釈できる。
私はSF作品がそこそこ好きで、そうした作品をいくつか読んだことがあったため、このような想像が頭をよぎったのだ。未来の断片が重なり合う状態は、茉凜が見ているさまざまな可能性が交錯する視界であり、それが彼女にとっては「未来の影」として映っているのではないかと考えた。
私は静かに声をかけた。
「怖かっただろう。誰だってそんなものを見せられたら、どうしていいかわからなくなる。でも、これだけははっきりしている。それはお前を守り、俺を守ったんだ。これはお前だけが持っている特別な力だ」
茉凜は驚いたように私を見上げ、「とくべつな……ちから……?」と呟いた。その言葉には、まだ恐怖と不安が混じっていた。
私は微笑みながら頷いた。
「ああ、そうだ。これこそが、茉凜の中に宿っている力。“導き手”の力だ」
「みちびきて……? なんなのそれ? どうして、わたしにそんなものが……」
その言葉が口から出ると、茉凜の目にわずかな希望の光が宿ったように見えた。
その本当の意味について、彼女はまだ何も知らない。それでも、何か重要な役割を果たすものであることを理解し始めたのかもしれなかった。
私はその瞬間を見守りながら、茉凜の存在が持つ意味を確信していた。それは、もう逃れられない結末へと進むしかないことを意味していた。