第39話 キャンプに行こう
文字数 5,606文字
その願いを実現するためには、抱いてしまった想いを胸の奥に鍵をかけてしまうしかない。それが私に与えられた罰のように感じられて、その選択が私をじわじわと蝕んでいるのを実感する。心の奥底で温めるその想いが、甘い痛みを伴って私の内部で膨らみ、私を縛りつけていく。
本当の事を何も言えず、ただ黙って真凜の側にいることを選んだのは、私が許された最善の道だと信じていたから。それでも真凜の温かな手が私の手に触れるたびに、私の決意は揺らいでしまう。
彼女の温もりにもっと強く触れたいという、身勝手な願いが心の中に浮かび上がる。それは私の内なる葛藤を、ますます複雑にし、私の感情を押し込めることがどれほど難しいかを教えてくれる。
いつか、真凜の前でこの感情が溢れてしまうのではないかという恐怖と不安が、私を包み込んでいる。私の心はその不安に圧倒され、どこかでこの感情をどうにかしようと必死に足掻いている。だから、今はこのままでいいって、自分に言い聞かせるしかない。
この夢が覚めるその日まで、私は真凜の側にい続けよう。そして、消えてしまう前に、せめて彼女が幸せでいられるよう、心から願おう。それが私にできる唯一のことだと、自分に誓いながら。
あなたの笑顔を守りたいから。それが私に別の生き方を教えてくれたあなたにできること。それだけが私の願い。
その思いを胸に抱きながら、私は真凜を見つめていた。その瞳の中に映る彼女の姿は、私の中にある感情の全てを、静かに受け止めてくれるかのように感じられる。そして、彼女の幸せを守ることが、私の使命であり、私自身の生きる意味であると、改めて感じた。
◇ ◇
虎洞寺邸は、海沿いの石与瀬の街から山中に分け入った高台にひっそりと位置しており、ほとんど人目に触れない場所に佇んでいた。周囲は厳重な警戒が施されており、ここにいる限りは襲撃の心配もなかった。静寂に包まれたその場所で、私たちは広大な敷地内に設けられた更地で日々の訓練を始めることができた。
私には、黒鶴の使用練度を高め、呪いを解くという真の目的に向けて自身の器を拡大する必要があった。しかし、訓練の合間に何よりも大切だったのは、真凜と共に過ごす時間だった。その静かな環境の中で、彼女と共にいることで、日々の辛さや緊張感が少し和らぐのを感じていた。
深淵の闇に向き合うとき、真凜の温かな手の感触が私を支えてくれる。手を重ねるたびに、胸の奥が熱くなるのを感じる。それはもう何度も触れ合っているはずなのに、毎回新たな感動を私にもたらす。どうしようもないほどの胸の高鳴りが、私の心を支配していた。
真凜もまた、同じように感じているのかもしれない。彼女の微かな息遣いや、私の手のひらに伝わる彼女の温もりから、それが私に伝わってきた。その瞬間、私たちの心がどこかで交わるのを感じていた。
この時間は私たちにとってただの訓練以上の意味を持っていた。深淵の闇の中でお互いを確認し合い、その絆を深めていくことこそが、私たちの心の繋がりを確かめる大切な瞬間だった。
◇ ◇
夏休みが始まるやいなや、私たちは虎洞寺氏とその屋敷のメンバー全員で、泊まりがけのキャンプに出かけることになった。護衛を担当する天のメンバーも全車両フル装備でついてくることになり、その様子はさながら大名行列のようで、少々大げさに感じられた。
キャンプの場所は、山深いホテルの周辺に併設されたグランピング施設で、手ぶらでも楽しめるという気楽なスタイルが売りだった。私たちは軽装で、気軽に出かけることができた。
夏の装いに身を包んだ真凜は、澄み渡る青空の下で、まるで光そのもののように輝いていた。彼女の姿は、まるで陽光を浴びた花のように美しく、伸びやかな肢体が青空に溶け込むようで、そのまばゆい存在感に心を奪われた。
彼女の一挙一動が、私の心をときめかせる。真凜の笑顔、軽やかな歩き方、そしてその輝きが、私の内なる渇望を呼び覚ます。私はいつも通り無愛想な表情を保ち、「まあ、いいんじゃないか」と何気なく言葉を漏らすだけで、私の心の動揺を隠そうと努めた。だが、真凜はその言葉の裏に潜む私の気持ちを見透かすように、微笑んで「そっか」と頷いた。
彼女が楽しそうに佐藤さんたちと共に料理の支度を始める様子を横目に、私の心は葛藤していた。一緒に手伝いたいという気持ちと、そこに溶け込みたくてもどうしても引っ込んでしまう自分がいた。心の中でふわりとした温かな気持ちを抱えつつ、私は静かにその場を離れることに決めた。
グランピングの外に出ると、森の中へと足を運んだ。そこは静寂に包まれた場所で、澄んだ空気が深く肺に染み渡り、木々のざわめきや鳥たちのさえずりが耳に届く。心が次第に落ち着いていくのを感じると同時に、森の深い静けさが私の内なる動揺を少しずつ和らげていくのがわかる。
この静寂の中で、ふと懐かしい思い出が蘇ってきた。生まれ育った柚羽の家での山奥での生活は、不便なことも多かったけれど、確かに楽しかった。両親や弟と共に過ごした日々の記憶が、今でも心の奥に深く刻まれている。あのころの笑い声や温かな家族の姿が、心の隅で静かに輝いているのを感じた。
そんなことを思い出していると、突然、真凜の声が森の中に響いた。おそらく、私を心配して探しに来てくれたのだろう。柔らかな声が木々の間を通り抜け、私の名前を呼ぶその響きが、心の奥に微かな刺激をもたらした。
そこで、私は少し意地悪な気持ちが芽生えた。真凜にちょっとした驚きをプレゼントしてみようと思ったのだ。静かに草むらに身を潜め、息を殺しながら彼女の足音が近づいてくるのを待った。心臓の鼓動が高まり、わずかな動きに敏感になる。
真凜が私の近くに差し掛かると、私はそっと立ち上がり、草むらからひょっこりと顔を出した。彼女の反応が楽しみで、私の心は少しドキドキしていた。
「きゃっ!」と驚いた真凜の反応があまりにも可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。その笑い声が森の静けさに溶け込んで、ほんの少しだけその空気を明るくしていた。
しかし、すぐに彼女も笑いながら、「なによ、子供みたいなことして。やめてよね」と軽く叱ってきた。彼女の声には、優しさと少しの甘さが混じっていた。
その言葉に、私は一瞬子供の頃に戻ったような感覚を覚えた。まるで過去の記憶の中にタイムスリップして、弟と一緒に笑い合っていたあの頃の無邪気な日々が蘇ったような気がした。
私たちは、そのまま自然な流れで無邪気に笑い合った。真凜の笑顔は、まるで春の陽射しのように暖かくて、私の心の中にある寂しさや不安をすっかり溶かしてくれた。
「ごめん、真凜。つい、昔みたいに遊びたくなったんだ」と、私は申し訳なさそうに言いながらも、心の中ではその時間がずっと続けばいいのにと願っていた。
その後、私たちは森の中を並んで歩き、小さな池のほとりに腰を下ろした。静かな水面が風に揺れ、陽の光が優しく反射している様子に、心が自然と落ち着いていくのを感じた。
私は、心の奥にしまい込んでいた過去の話を、自然に語り始めた。これまで、彼女には自分の過去についてほとんど語ったことがなかったけれど、今日はなぜか、その話をしてみたいという気持ちになっていた。
山奥での生活は決して楽ではなかったが、自然の恵みを身近に感じることができた。水の確保や畑作り、そして時には野生動物との共存の問題。様々な苦労もあったけれど、それでも、家族と過ごした日々は温かい思い出として心に残っている。
真凜は、私の話に真剣に耳を傾け、時には目を輝かせながら頷いてくれた。話し終えると、私は池のほとりに視線を落とし、静かに呟いた。
「何も知らないあの頃に戻れたら、どんなにいいか……」
その言葉が、私の心に深い感傷を呼び起こした。真凜は心配そうに私を見つめ、「何かあったの?」と優しく尋ねてきた。その問いに、私は少し戸惑いを覚えた。彼女にすべてを話すべきか、それともこのまま黙っているべきか──心の中で迷いが渦巻いていた。
その迷いは、私の胸を締め付けるような重い感情を呼び起こし、どこから話せば良いのかが分からなくなってしまった。でも、真凜の優しい瞳が私を見つめる中で、少しずつ心が開かれていくのを感じた。彼女には、ただの友人としてではない、もっと深い信頼を置いている自分がいることに気付いていた。
私は「真凜には言いたくない」と、声を絞り出すように呟いた。彼女の目に一瞬だけ寂しさが浮かび、その表情が私の心に深い波紋を広げた。
「言いたくないなら、無理に話さなくてもいいよ。でも、できるだけ打ち明けてほしいな。私たちは友達なんだから。それで少しでもあなたが楽になれたらいいと思うんだ」と、真凜は静かに言った。
彼女の言葉は、まるで心の奥深くに優しく触れるようで、私の胸にじわりと温かさを広げていった。真凜の優しさに触れることで、心の中に渦巻く葛藤が少しずつ和らいでいくのを感じた。しかし、同時に自分の痛みを彼女に分け与えることへの躊躇も、私の心を締めつけていた。
それでも、私は真凜にできるだけのことを話す決心をした。自分の正体については触れず、両親の死と、その後の姉と弟との別れについてだけを静かに語った。話が進むにつれて、真凜の表情は次第に深刻さを増し、その瞳に浮かぶ涙が私の心に重くのしかかるようだった。
「ひどすぎる……。そんなの、あまりにひどすぎるよ……」
真凜がつぶやいたその言葉に、私の胸の奥で強い痛みが広がった。彼女の悲しみが私の痛みを映し出し、私がどれだけ彼女に重荷を背負わせてしまったのかを痛感させられた。
言葉がうまく出てこないまま、真凜がさらに問いかけてきた瞬間、心臓が凍りついた。
「行方不明になったお姉さん、今どうしてるんだろう? どこにいるんだろう?」
その質問が、私の心の奥底で眠っていた痛みを引きずり出し、心がざわめくのを感じた。予感はしていたものの、その問いに対する答えがどうしても見つからなかった。心の中で葛藤しながら、私はただ首を横に振るしかできなかった。
「姉は、柚羽美鶴は……おそらくもうこの世にはいないだろう」と、私はか細い声で呟いた。その声はまるで風に消え去るように、儚くも切なかった。
私は解呪に失敗して命を落とした。今の私は、弟の弓鶴の中に宿る幻影、怨念のような存在に過ぎない。本当なら、彼女にこうして向き合うことなど許されるはずもないのだ。この現実を受け入れることがどれほど辛いか、心の奥底からひしひしと感じていた。
「そう、なんだ……」
真凜の口元がわずかに震えているのがわかった。私の言葉が、彼女の心にどれほどの影響を与えたのかを考えると、心が苦しくなった。
「ごめんね、悪いこと聞いちゃったね。でも、わたしはあなたがどれほど辛かったか知りたいって思うんだ」と真凜は言った。
その言葉に応えるように、私は静かに目を閉じた。そして、「ありがとう、真凜。少し楽になった」とだけ静かに結んだ。
その瞬間、私たちの間に流れる空気が、わずかに変わったように感じられた。実際に静かに水面を見つめる私の心は、ほんの少しだけ軽くなっていた。
「そろそろ戻ろう。みんなを心配させると悪いから」と、私は強がりながら言った。心の中では、どれだけの罪悪感と後悔が渦巻いているか分からなかったが、それでも彼女を心配させたくはなかったのだ。
私は手を差し出し、できる限りの勇気を振り絞って彼女に向けた。真凜は私の手をじっと見つめた後、涙を拭き取りながら、柔らかな微笑みを浮かべて静かに私の手を取った。彼女の手の温もりが、私の冷たくなった指先にじんわりと広がり、ほんの少しだけ安堵をもたらしてくれた。
「うん……戻ろう」と、真凜の声はやわらかく、穏やかで、私への優しい励ましが込められていた。その声が、私の心にほんのりと温かな光を灯し、暗闇の中に一筋の希望を差し込んだ。
真凜の存在が、私の痛みを少しでも和らげてくれることに感謝しつつ、これからの時間を大切にしようと心に誓った。彼女と共に過ごすこの瞬間が、どれほど私にとっての支えとなるかを実感しながら、私たちはキャンプの場へと向かって歩みを進めていった。
歩きながら、私の心は痛みと罪悪感で重く押しつぶされていた。深い闇の中で、自分の存在がどれほど虚しいものかを思い知っていた。真凜の前で、少しでも過去の自分を取り戻したい、彼女との温かな時間を心から楽しみたいという気持ちがあった。しかし、そのたびに私は本当の姿を隠さなければならず、心の中で抑え込んでいる苦しみが、私を切り裂いていた。
真凜と過ごす時間は、まるで夢のようなものであり、現実の冷たい刃に触れることを避ける一瞬の逃避だった。彼女と向き合い、彼女の手のぬくもりを感じるたびに、自分が本当はどれほど脆く、無力であるかを痛感していた。彼女にとって、私はただの幻想であり、過去の影でしかない。それがどれほど辛いことであっても、私はその現実を受け入れなければならなかった。
真凜が私に寄せる温かな感情が、私の心に一瞬の希望を灯すが、その希望が瞬く間に消え去るのは、私の運命の一部なのだろう。私たちの絆が深まるほど、その間にある深い溝が広がるように感じていた。真凜のために、私はただの幻影であり続けるしかないのだと、心の奥で痛みを抱えながら、静かにその現実と向き合っていた。