第28話 冷酷王子の日常と膝枕
文字数 2,417文字
朝四時。まだ暗い空が窓の外に広がり、静けさが部屋を包んでいる。枕元の時計が無言のまま時を刻み、私は眠気の残る頭を起こす。何も考えないようにしていたのに、真凜の笑顔がふと浮かんできた。彼女の無垢な瞳、あの眩しい笑顔。それが不思議と胸を締めつける。
彼女の笑顔は、温かくて、どこか安心する。それなのに、その裏に隠れる自分の気持ちを思うと、罪悪感が重くのしかかる。彼女に癒されている自分がいる。それは分かっている。でも、それが本当の自分なのかは分からない。
地下のトレーニング施設で体を動かす。無心で汗を流し、考えを振り払おうとするが、心のざわめきは消えない。むしろ、運動するほどに、真凜への思いが頭を占めていく。彼女の笑顔に癒されるたび、その笑顔に応える自分が偽りのように思えて、気持ちが重くなる。
制服に着替え、ダイニングに向かう。キッチンから漂う香ばしい匂いが少しだけ緊張を和らげるが、完全にほぐれることはない。佐藤さんと真凜が朝食を作っているいつもの光景に、ほっとするのも束の間だ。こんな日常が永遠に続くはずがないことは、心の奥で知っているからだ。
彼女たちがいることで、現実に引き戻される。真凜の無邪気な笑顔が、私の中で温かい光を放っている。その光が、同時に心の奥に潜む不安を静かに照らし出し、胸を重くする。
「弓鶴くん、おはよう!」
真凜の明るい声が聞こえ、反射的に微笑みを返す。それが無意識の行動だと自分で気づいた瞬間、胸が少し重くなる。彼女の無垢な信頼が、時に耐え難いほどに感じる。しかし、その信頼に背を向けることもできない。彼女の純粋さが、私の心を刺すように深く染み込んでいく。
朝食の席。手を合わせて「いただきます」と言うと、一瞬だけ心が落ち着く。しかし、真凜と佐藤さんが話すその静かな時間が、かえって私の内面を映し出す。いつかこの日常が壊れてしまうという恐れが、また頭をもたげる。
登校の時間になり、真凜と並んで藤堂さんの車に乗り込む。彼女の無邪気な話に相槌を打ちながら、私は窓の外をぼんやりと見つめる。彼女の笑顔が視界に入るたび、心が揺れる。穏やかな気持ちと、耐えがたい不安。その二つが交錯して、居心地が悪い。
午前の授業が終わり、校庭の大きな木の下で、真凜が作ったお弁当を一緒に食べる。彩り豊かなおかずが詰まったお弁当を口に運ぶと、彼女の優しさがゆっくりと心に染み込んでいく。
この時間が、どれだけ自分にとって大切なものか、痛感する。しかし、それを守り続けることができない未来を思うたび、胸に押し寄せる恐怖から逃れられない。
◇ ◇
ある日、ふとした瞬間、真凜の肩に頭を預けてしまったのは、私にとって予期しない出来事だった。普段は気を張っている自分が、彼女の前では少しだけ気を抜いてしまうのだ。それは、彼女の温かさや無垢さが、私の心の重圧を解きほぐしてくれるからだろうか。
彼女の髪の香りがふわりと鼻をくすぐり、私はその柔らかさに包まれて、知らず知らずのうちに意識を失った。気づけば、彼女の膝の上に頭を預け、すっかりと眠り込んでいたのだ。
目を覚ました瞬間、真凜が優しい微笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。その瞳に何の咎めもなく、ただ私を見守るような安らぎがあった。しかし、私はその優しさに圧倒されてしまい、瞬く間に頬が燃えるように赤くなった。何も言えず、ただ逃げ出してしまった。
それからというもの、彼女と顔を合わせるたびに気まずさを感じていた。だが、その裏には、彼女の優しさが私の心を深く揺さぶっていることに気づいていた。
「弓鶴くんって、無理していつも気を張り詰めているから、疲れてるんだよね?」
真凜の言葉は、まるで私の心を見透かしたかのようだった。その声に込められた思いやりは、私の胸の奥に静かに染み込んでいった。
「無理しなくたっていいんだよ。休みたいときは、いつでも私に頼って。遠慮なんていらないからね、どーんとこい!」
その言葉に、少しだけ心が軽くなった。彼女が私を理解してくれていること、そして無条件に支えてくれることが伝わってきた。それが、私の中の緊張をゆっくりと解いてくれた。
それ以来、私は昼休みに彼女の膝を借りて、時折目を閉じることが増えた。彼女の膝の上で休むたび、私の心は穏やかになり、彼女の存在の大切さが一層強く胸に響くのだ。
しかし、そんな安らぎの裏には、常に不安がつきまとっていた。真凜に依存してしまう自分を恐れていたし、彼女の気持ちに私は応えることができない。それが、何よりも私を苦しめていた。
真凜が見ているのは、弓鶴であって私ではない。ただの仮りそめの姿でしかない。本当の私が何者なのか、彼女は知らない。そして、真実を知った時、彼女がどれほど傷つくか、それを考えると恐ろしかった。もし、解呪が成し遂げられたなら、私は彼女の前から消え去らなければならない。弓鶴は元の場所へ帰り、私はその存在を失う。その確定している未来が常に私の心に影を落としていた。
それでも、真凜が私の手を握り、あの無邪気な笑顔で微笑んでくれる瞬間、全てがどうでもよくなってしまう。彼女の温もりが、私を少しだけ「人間」として感じさせてくれるのだ。
この感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。ただ一つ言えることは、彼女は私にとって大切な存在であるということ。それだけは、揺るぎない事実だった。
私はいずれ消え去る運命にある。それでも、今この瞬間、彼女の笑顔に救われている自分をどうすることもできずにいた。彼女の存在が、私の中でどれほどの意味を持つかを実感するたび、胸の奥が締めつけられる思いが止まらなかった。