第69話 封じ込めた思い
文字数 4,368文字
茉凜の目元が少しずつ落ち着きを取り戻し、淡いピンク色が頬に戻ってくる様子は、私にとってもひとしおの安堵をもたらしていた。彼女の眉が優しく緩み、時折唇の端がわずかに上がるその表情が、私の胸に静かな希望をもたらす。私はその光景にじっと見入ってしまう。彼女の仕草ひとつひとつが、私の心に深い感動を与える。
しかし、その背後で私の心は、さまざまな考えが渦巻いていた。茉凜が導き手であるという確信は揺るぎないものとなり、その一方で弓鶴の身体に迫っている限界を思えば、悠長に迷っている時間などない。冷静な判断を下そうと努める一方で、その判断の重さに怖れを抱く私がいる。心の中で葛藤が生まれ、理性と感情がぶつかり合う。
◇ ◇
私は一晩中でも茉凜の傍にいたかった。それは、彼女のためでもあったけれど、何よりも私自身の心を守るためだったかもしれない。
彼女の穏やかな呼吸を感じ、そのあたたかい存在に寄り添っているだけで、まるで不安や孤独が少しずつ和らいでいく気がした。こんなにも誰かの近くにいたいと強く思うことが、自分にとってどれほど大切で、どれほど切実なことだったのか、私はまだうまく言葉にできなかった。
でも、佐藤さんがそっと私の肩に手を置き、「少しは身体を休めてください」と優しく諭してきたとき、私の心の中に張り詰めていた緊張がふっと解けた。抵抗しようという気持ちすら起こらず、ただ頷くしかできなかった。彼女の言葉には、母親のような温かさと、私をずっと見守ってくれてきた長い年月の重みがあって、その瞬間、自分の弱さを認めざるを得なかったのだ。
佐藤さんは、私がまだ幼かった頃から柚羽家で働いていて、ずっと私を見守ってきてくれた人だ。私の成長、私の弱さ、そしてかつて身体に起こった異常さえも知っている、信頼できる大切な存在。そんな彼女が、今もこうして私を気遣い、静かに支えてくれていることが、何よりも心強かった。
私は自室に戻った。それでも、ベッドに横たわることができなかった。安らかな眠りに身を委ねることは、今の私にはあまりにも遠い世界のようだった。
机に向かい、引き出しの鍵を外すと、そこには四冊の日記帳が並んでいた。その中で、まだ書きかけの一冊が私を静かに待っていた。ページをめくりながら、胸の奥に澱んでいた感情が押し寄せてくるのを感じた。
この日記は、私が深淵の巫女となってからの私の証でもあり、私の心の声を静かに刻んでいた。解呪に臨む前に、佐藤さんにお願いして、これらの日記を虎洞寺の叔父様に届けてもらうように頼んだ。あの屋敷が焼かれた時、彼女はなんとかこの三冊を抱えて逃げ延びたと聞いた。
日記には、私が知り得た深淵の巫女としての情報が綴られていた。それは後世に伝えるべきものであり、私が歩んできた道を誰かに知ってほしいという、小さな願いでもあった。
弓鶴がいつかこの日記を手に取る時、私という姉が、どんな思いで生きていたのかを少しでも理解してくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら、私は日々文字を重ねていた。
それにもかかわらず、私は弓鶴を遠ざけ、一度たりとも彼と会おうとはしなかった。手紙さえも送らず、ただ彼と距離を置いてしまった。
弓鶴がそんな私をどう思っていたのかを考えるだけで、胸が痛む。私の背を向けた姉としての姿が、彼にどれほどの寂しさを与えたのか、想像するだけで涙がこぼれそうになる。
彼の部屋を調べたとき、日記の一つも見つけられなかった。スマホにも過去の記録はなく、叔父様の話によれば、彼は過去のことについて何も語ろうとはしなかったという。私が深淵に囚われ、両親の仇の側で道具に成り果てたことに、彼がどれほど失望したのかを思うと、胸が締め付けられるような寂しさが押し寄せてきた。
それでも、それでよかったのだと自分に言い聞かせた。
弓鶴には、私のように何かを背負わされず、ただ普通の男の子として、新しい人生を生きてほしかったから。私の選んだ道が彼にどれほどの痛みをもたらすかを思うと、彼には何も知らずに、幸せな日常を歩んでほしいと願った。
今更、彼に謝ることなどできるはずもない。私ができることはただ一つ、この身体を早く彼に返すことだ。それ以上の贖いは、もうできないのだ。私の心に残された悔いは、この一つの願いに込められている。それが、私が彼にできる唯一の償いであり、私の心が少しでも軽くなるための唯一の手段なのだ。
そして、もう一冊。今年になってから書き始めた日記帳があった。茉凜と出会い、その後しばらくしてから、私はそのページに新しい日々を書き綴るようになった。
茉凜と過ごす日々の中で、私の心には変化が次第に現れていった。最初は彼女に対する驚きと戸惑いでいっぱいだった。それから、感謝と信頼が深まり、時間が経つにつれて、その感情は予想もしない方向に変わり始めた。最初はその感情を無視し、自分の中で消し去ろうとしていたが、次第にそれが避けられない事実であると痛感するようになった。
茉凜と出会ってから、私の世界は光と色を取り戻し、彼女がいない未来を想像することができなくなっていた。茉凜は私にとってただの友人でも、単なる相棒でもなかった。彼女は私にとってのすべてだった。彼女と過ごす時間が、私の存在の意味を支えていた。
私の茉凜への思いは、友情を超えたものであり、もしかすると初めからその感情はそれ以上のものであったのかもしれない。
彼女と過ごす一瞬一瞬が、私にとってかけがえのないものであり、彼女のひまわりのような笑顔、その優しい瞳、時折見せる不安な仕草に、私は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。茉凜の存在は、私の心に静かに、そして深く根を張っていった。
けれど、学園祭が終わったあの日から、私の手は止まったままだった。書きたいことが山ほどあったのに、それを言葉にすることができなかった。心の中で、いろいろな感情がせめぎ合い、整理がつかず、言葉にすることでそれらがすべて壊れてしまうのではないかと恐れた。
彼女への本当の気持ちを言葉にすることが、あまりにも怖かった。もしそれを言葉にしてしまえば、茉凜との関係が何か変わってしまうのではないかという恐怖があった。その思いと、抑えきれない感情が私を揺さぶり、日記のページにペンを走らせることができなくなっていた。
私の使命と、私の願い。そして、茉凜への抑えきれない気持ち。それらが胸の中で激しく渦巻き、私はどうしようもなく心が壊れかけていた。
茉凜の笑顔を思い浮かべるたびに、私はほんの一瞬だけ心の鎖が解ける気がした。彼女と過ごす静かなひととき、手を取り合い、その温もりを感じる瞬間だけが、私の心を支えていた。その優しさに触れるたび、私は本当に弱くなってしまう。こんなにも強く生きなければならないのに、彼女の前ではただの一人の女の子に戻ってしまう。
とはいえ、今の私の身体は弓鶴という男の子であり、こうして心の中の感情と現実の自分とのギャップに苛まれるのは、本当に愚かな話だと自分でも思う。
だとしても、茉凜の存在は、私の唯一の救いであり、心の灯火だった。彼女に触れている時だけ、私は使命の重さから解放され、自分自身でいられる気がした。それが罪であるならば、その罪に溺れてしまいたいとさえ思っていた。
しかし、その優しさを受け入れることは、同時に彼女を失う恐怖でもあった。私という偽物の仮りそめの存在が、茉凜のように純粋なものと交わるべきではないと感じていた。
茉凜が私を見つめるその瞬間、私は彼女にすべてを告げたい衝動に駆られてしまう。でも、口を開こうとするたびに、どうしても言葉が喉で詰まってしまう。もし、彼女が私の本当の姿を知ったら?私が背負っている運命のすべてを告げたら?その時、茉凜の瞳が失望に曇るのではないかと考えると、恐怖で心が締め付けられてしまう。
私は何度も心の中で彼女の名前を呼び、心の奥底で彼女に謝り続けた。彼女に触れたい、彼女を守りたい、彼女を愛したい――それなのに、私はただ、彼女を苦しめるだけな存在に過ぎないと感じる。
それでも、私は進まなければならない。茉凜へのこの気持ちを抱えながら、壊れかけた心を無理やり繕って、使命のために歩み続けるしかないのだ。それが私に与えられた運命なのだから。
私はその決意を固め、震える手で日記帳にペンを走らせていった。一文字一文字に茉凜への感謝と私自身の心の奥深くから湧き上がる思いを込めて。
それは、これから消えゆく私が迷いと恐れを振り切るための儀式のようなもので、すべてをここに吐き出せば、心の整理がつくと信じていた。
机に鍵を閉めておけば、これが茉凜の目に入ることはないだろう。私の気持ちはここに封じ込められ、永遠に隠される。そう願いながら、涙をこらえきれずにペンを進めた。
一文字一文字を記すたびに、理由もわからず涙が溢れて止まらなかった。涙がぽたりぽたりと落ち、綴られた文字が滲んでいく。
こんなにも切ない感情があふれ出す理由を、私自身でも理解できなかった。それでも、私はその涙を拭うこともなく、止めどなく湧き上がる感情のままに日記を書き続けた。
それは時を忘れるほどに、私のすべてをさらけ出すように。
書いているうちに、思い出が次々と浮かんできた。茉凜と過ごしたいろいろな瞬間、彼女の笑顔、それに自然に応えることができるようになった私。時には笑いがこみ上げ、時には泣いてしまう、そんな自分の感情の鮮やかさに驚いてしまった。私の中にこんなにも深い感情が満ちていたなんて、信じられない気持ちだった。
「ありがとう、茉凜。あなたが私にくれたたくさんのものが、私に生きることの本当の意味を教えてくれた。あなたの存在がどれほど私に力をくれたか、言葉では表しきれないくらい。ほんの短い間だったけれど、その一瞬一瞬が、私にとってかけがえのない宝物になった。心の底から感謝している。私は……あなたが……」
その最後の一文字を、涙をこらえきれず、震える手で慎重に記した。涙が頬を伝い、紙に落ちるひとしずくひとしずくが、文字をゆっくりと滲ませていった。