第53話 それぞれの思い
文字数 5,831文字
茉凜は少しだけ早足で歩きながら、ふわりとした笑顔を浮かべていた。その笑顔には、どこか儚い期待と同時に拭い去れない不安が混ざり合っているように見えた。
彼女の瞳は、まるで何か遠い未来にある希望を見つめているかのようだった。その微笑みは優しさに溢れていたけれど、私にはその裏に何かを隠しているように感じられた。もしかしたら、その笑顔の奥には、私たちがまだ気づいていない深い不安や恐れがひそかに潜んでいるのかもしれなかった。
「茉凜、大丈夫か?」と私はそっと尋ねてみた。その言葉は、心の中で膨らむ茉凜への心配がそのまま声になったものだった。
普段はあまり口にしない私が、この瞬間にだけは自分の気持ちを正直に表現したくなったのは、彼女の表情が私に何かを訴えかけているように感じたからだ。
茉凜は、少し驚いたように目を瞬かせて、私を見た。そして、小さく頷くと、優しく微笑んだ。その微笑みは、一見すると安心感を与えるものだったが、私はその裏にまだ何かを感じ取っていた。
彼女が「大丈夫」と答えたその声には穏やかさがあったけれど、私にはその微笑みの下に潜む本当の感情が隠されているように感じられた。緊張していると言うけれど、その言葉の裏にはもっと深い感情――不安や、もしかしたら恐れ――が滲んでいるように思えた。
私自身もまた似たような感情を抱えていた。劇の主役とヒロインのキャスティングが完全に男女逆転という新しい試みに対して、茉凜がどれほど不安や葛藤を抱えているかは想像に難くなかった。
演劇の経験もなく、さらに男性を演じるという未知の領域に挑戦することは、誰にとっても大きな挑戦であり、その不安が募るのは当然のことだと理解していた。
私たちは歩き続け、しばらくの間無言で進んだ。夕暮れの空がますます深い色合いに変わり、私たちの影が一層長く伸びていく。
茉凜の笑顔の裏に隠された本当の思いが、私たちの歩調と共に静かに交錯しているような気がした。それでも、言葉にできない思いを抱えたまま、私たちはその時を共に過ごしていた。
その一方で、洸人は私たちの後ろを無言で歩いていた。彼の表情は相変わらず無表情で、まるで何も感じていないかのように見える。けれども、その冷静さの中に潜む微妙な感情の波を私は感じ取っていた。最近、彼の無表情が実は彼の内面で渦巻く複雑な感情を隠すためのものであることを、ようやく理解できるようになってきた。
私はちらりと洸人に目を向け、つい口を開いてしまった。「洸人、今回のこと、どう思っているんだ?」
彼は少しだけ顔を傾け、眼鏡の奥の鋭い目を上目遣いにして、私の質問に対する答えを考えるような素振りを見せた。しばらくの沈黙の後、小さく微笑んでから言葉を発した。
「灯子に話を持ちかけられたのがきっかけだよ。少し迷ったけど、こういう体験も悪くないと思ってるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私は心のどこかで引っかかるものを感じた。洸人は普段から感情を表に出さないが、その背後で何かが揺れ動いているのが私にはわかる。彼の言葉は理性的で、まるで淡々とした日常の一部のように聞こえたが、その奥底には揺れる小さな感情が存在するように思えた。彼の冷静さは、彼自身の内面の揺らぎを支えるための防御壁のようなもので、私にはその微細な感情の動きが透けて見えるのだった。
洸人の言葉には、何か隠された意図や内面の葛藤が含まれているように感じられた。その静かな微笑みの裏に、彼が抱える未解決の問題や思いが潜んでいるのではないかと思うと、私の心はますます彼のことを気にかけずにはいられなかった。彼が一見無関心に見えるその瞬間にこそ、彼自身の内面で起きている静かな波が存在するのだと、私は強く感じていた。
「ふーん……」と私は呟きながら、視線を再び茉凜に戻した。彼女は、遠くを見つめるような表情を浮かべており、その目には何かを思案する深い思いが宿っているようだった。
その時、不意に明が口を開いた。彼女の声には、明らかな不満と苛立ちが色濃く滲んでいた。
「あーっ、もう。なんであたしが端役なのよ。弓鶴くんの相手っていったら、どう考えてもあ・た・しでしょうが」
明の声には、キャスティング面で自分の存在が軽んじられているという思いが込められていて、それは茉凜に対する嫉妬の現れであることがはっきりしていた。明は自分がもっと重要な役を担うべきだと感じているのだろう、その感情がそのまま声に表れていた。
私はその言葉に反応し、明に視線を向けた。彼女の表情は険しく、唇をわずかに歪めていた。彼女の不満が募っているのがよくわかった。
「まあまあ、落ち着いてよ」と、茉凜が穏やかに宥めるように言った。その声音には、明の感情を和らげたいという優しい気持ちが込められていた。しかし、明はそれに反発するように、舌打ちをしてから言った。
「いいよね、あんたは。さぞかし楽しみでしょうね」と皮肉を込めた言葉を投げかけた。
「そんなことないって。わたしに主役なんて務まるかどうか。できたらアキラちゃんに交代してもらいたいってのが本音だよ」
茉凜は、肩をすくめながら、あっさりと告げた。
「あたしに?」と明が驚きの声を上げた。
「うん、わたしは左腕がうまく使えないから、騎士なんて役は無理に決まってるよ。その点アキラちゃんなら、剣の扱いはお手の物だし、絶対に舞台で映えると思うんだ」
茉凜は優しく笑いながら言った。
「うーん……」と明は深く考え込みながら、その言葉を噛み締めていた。その間、私たちの周りには沈黙と共に微妙な感情の波が広がっていた。
やはり茉凜は演じることへの不安と、自身のハンディについて気にしている様子だった。普段は気にしないように振る舞っている彼女も、人前で演じるとなればそのプレッシャーは無視できない。役者としての責任感と、自己評価が混ざり合って、彼女の心を重くしているのだろう。
その言葉を聞いて、私は心の中で複雑な感情が渦巻くのを感じた。茉凜の優しさが、明の苛立ちを少しでも和らげようとしているのは分かる。彼女が主役を譲りたいというのも、その気持ちから来ているのだろう。他人を気遣う彼女の姿勢は、まさに彼女らしいものだった。
しかし、その優しさが逆に茉凜自身にどれほどの重荷を背負わせているのかを、感じ取らずにはいられなかった。彼女が無理に自分を押し殺してまで他人を優先する姿勢は、周囲には理解しがたい部分もあるかもしれない。彼女の心の奥底には、自らの能力に対する不安や、他者への期待との間で揺れ動く葛藤があるのだかもしれない。それを理解することで、私もまた彼女の気持ちに寄り添いたいと強く思った。
洸人の沈黙がさらに重く感じられ、私は再び彼に問いかけた。
「やはり、洸人が仕組んだことか?」
洸人は再び微かに笑い、まるで私の質問に答える準備をしていたかのように、軽い調子で言った。
「ああ、そんなところだ。みんなと一緒に何かを作り上げるっていう体験は、今まで考えたこともなかったからね。挑戦してみるのも楽しいんじゃないかな?」
その言葉には、洸人の心の中に隠された孤独がほんのりと覗かせた。彼の言葉からは、他者との関わりに対する期待と、それに伴う不安が混じっているように思えた。
彼が言う「挑戦してみるのも楽しい」という言葉には、彼自身がこれまで避けてきた領域に足を踏み入れることで得られる新たな発見や成長への期待が込められているのだろう。その反面、他者との協力や共同作業が持つ難しさや、孤独との戦いの感情もあるのだろう。
その言葉を聞いて、私は彼の中に潜む微かな孤独感に共感を覚えた。洸人もまた、他者とどのように関わるべきかを模索しているのだと感じた。私たちは皆、それぞれの孤独を抱えながら生きているのだと、改めて実感する瞬間だった。彼の言葉を通して、自分自身の孤独や他者との関わりの大切さについて深く考えさせられた。
「だが、俺に女の役なんてできると思うか? ありえない話なんだが」
私は自嘲気味にそう言い放つと、茉凜はその言葉を静かに受け止め、優しく微笑んだ。
「弓鶴くんならできるよ」と、その声には揺るぎない自信が込められていた。
「ずいぶんと自信満々だな。で、その根拠はなんだ?」
私の口調には苛立ちが滲んでいたが、茉凜の確信に満ちた言葉がどうしても気になった。彼女が何に基づいてそんなに確信を持っているのか、知りたかった。
茉凜は少し考え込みながらも、すぐに無邪気な笑顔を浮かべた。
「だって、わたしは弓鶴くんが持っている、ほんとうの輝きを知ってるからね。だから、きっとうまくできるよ。うんっ!」
その一言があまりにも力強く、無垢なまでの信頼に満ちていたので、私は一瞬言葉を失った。自分にはそんな輝きなんて存在しないと常々感じていたし、暗い影が常に付きまとっているように思えていた。けれど、茉凜の存在は私に予期せぬ影響を与え、気づかぬうちに自分をさらけ出させてしまう。
「なにがだ。そんなものあるわけがないだろ。気休めを言うな」
私はぶっきらぼうに答えたが、心の奥深くでは茉凜の言葉が静かに響いていた。彼女が言う「輝き」というのが、もし私自身の感情の発露を指摘したものであったなら、それは喜んでいいものなのだろうかと、自問自答していた。
「そんなわけない。美鶴という存在は、もうとっくに死んでいる。この身体を動かしているのは、解呪に取り憑かれているだけの、ただの亡霊なのよ」
その思いが胸に広がり、私の心に重くのしかかっていた。茉凜の言葉がもし本当であれば、私の中のどこかでまだ生き続けている感情や希望があるのかもしれないと感じる一方で、それが本当であっても、私の本質はもう完全に消え去ってしまったという現実に直面していた。
洸人の静かな言葉が、私の心に強く響いた。彼がぽつりとつぶやいたその一言で、私は動揺を隠しきれずにいた。
「こんなことを言うと、気を悪くするかもしれないけど……君はお姉さんに、とても良く似ていると思う」
その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が急激に高鳴り、まるで秘密が暴かれたような感覚に襲われた。心の奥深くにしまい込んでいた過去の痛みが、再び鮮やかに蘇ってくるのを感じた。
「……まあ、一応は血を分けた姉弟だからな。顔は似ているかもしれないが、それだけで俺に女の役ができるとは思わない」
洸人の微笑みには、どこか真剣な眼差しが含まれていた。その真剣さが、私の不安をさらに深める要因となった。
「たしかにそうだね。でもね、僕は以前、一度だけ君のお姉さんに会ったことがあるんだ。彼女の名前は、美鶴さんだったかな?」
「そうだが……」
私の返事は短く、心の中では動揺が増していくのを感じた。洸人が過去のことを持ち出す理由がわからなかった。なぜ今、それを語るのか。
「彼女は“始まりの回廊”の巫女として、あの場所に縛り付けられていた。誰にも助けを求めることができず、君とも離れ離れになって……ずっと一人ぼっちだったんだ」
洸人の言葉が、私の胸に深く突き刺さる。忘れたい過去の痛みが、再び押し寄せてくるのを感じた。私はそれにどう向き合うべきか、正直にわからなかった。
「そうだな……」
それだけしか言えず、心の中で渦巻く感情に向き合う方法がわからなかった。私の心は深く混乱していた。
「彼女に会ったのは一度きりだけだったけど、あの時感じた寂しさや儚さは、君の醸し出す雰囲気とどこか似ている気がする。もちろん、君は君であって、彼女じゃない。でも……」
「そんなばかな。目の錯覚だろう?」
私は笑い飛ばすように言ったが、洸人の言葉は妙に心に残り、彼が私の本質に気づいているのではないかという恐怖が背筋を走った。
「まあ、君は黒鶴という力を背負い、解呪を目指しているのだから、彼女と同じような孤独や責任感を抱えているとしても不思議ではないけどね」
その言葉に、私は少しだけ安堵を覚えた。心の奥底に潜む不安が、わずかに和らいだ気がした。
洸人は優しく微笑みながら、続けた。
「だからこそ、君の演技を見てみたいと思ったんだ。君が女の子の役を完璧に演じられるかどうかは分からないけれど、きっと君なりの素晴らしいヒロイン像があるはずだ。それが、君を推薦した理由の一つさ」
「そうかな……」
私は曖昧に答えながらも、心の中でまだ迷っていた。自分が演じる役に向き合う勇気が今の私には欠けているように感じた。自分を信じることが難しい今、演じることができるのかという不安が、心の中で渦巻いていた。
そこで明が言った。
「あたしは、昔よくも柚羽の家に遊びに行ってたから、お姉さんのことはよく覚えているよ。でも、洸人が言うような感じじゃなかったな。ふんわりした、とても優しい人だった」
明の言うことは間違いではなかった。でも、それはあの事件が起きる前の、何も知らない純粋な頃の私の姿だった。そんな姿は、とうに彼方に消失したと思っていた。今の私は、その頃の面影を残さずに変わってしまったのだと信じていた。
そんな話を茉凜は、少し後ろで静かに聞いていた。彼女が美鶴という存在について、どのように感じているのか、どれだけ興味を持っているのかが不安になった。もし、私の中にその頃の残滓が少しでも残っていて、彼女がそれを感じ取っているのなら、それは私の最も恐れていたことだった。
洸人はその後も静かに微笑みながら、私に対する期待を込めて言葉を続けた。
「あともう一つ、君を推した理由があるんだ」
その言葉が私の心に引っかかり、私は再び興味を持って尋ねた。
「それは何だ?」
洸人は優しく、そして少しだけいたずらっぽい表情で言った。
「それは、脚本を読み込んだら分かるよ。驚くと思うけどね」
その言葉に、私は無言で頷いた。手にしていた脚本の重みが、突然心にずっしりと感じられた。何が書かれているのかを知るのが怖かった。私は表紙に指を置いたまま、深呼吸をして、心を落ち着ける努力をした。