第49話 茉凜と明の休戦協定
文字数 10,033文字
黒鶴の器を拡大するための鍛錬が行われているその場にも、明も共に立ち会っていた。私と茉凜が手を取り合い、目を閉じて向き合うその瞬間、明の視線が私たちに鋭く向けられているのを、肌で感じ取っていた。彼女の視線は、まるで冷たい鉄のように私たちを見守り、その圧倒的な存在感が心に静かで確実な重圧をかけていた。
その意識が、私の心の中で静かに芽生え、わずかに引っかかる感覚を残していく。茉凜の手の温もりが私の手の中にあるのに、その安心感がどこか遠くに感じられる。深淵の闇に立ち向かうたびに、心の奥底から湧き上がる不安が、私をじわじわと締め付けていくようだった。
心の奥に潜む明の存在が、私の邪念となり、茉凜との絆が次第にほころんでいくように感じる。手を繋いでいるにもかかわらず、その安らぎがどこか曖昧で、心の中に広がる不安と恐れが私を包み込み、意識を集中することが困難になっていた。
茉凜は私の不安を敏感に察知しているようで、彼女の瞳が、優しくもどこか悲しげに私を見つめ、微かに息を吐き出した。その表情には、私を守るための優しい嘘が含まれているのが見て取れた。
「今日はやめよう……。わたし、ちょっと調子が悪いみたい」
その言葉が、私を守るための優しい嘘であることは、胸の奥で鋭く響く確信となっていた。茉凜の気遣いに甘えるように、私はただ頷くしかなかった。心の奥底では、私がこの状況をさらに悪化させているのだと痛感していた。茉凜と明の間で揺れ動く心、彼女たちの間に立たされ、自分の気持ちを整理できずにいる私が、この混乱を引き起こしているのだと認識していた。
彼女たちと共にいることで、かえって自分の無力さが露呈し、その事実が私をさらに追い詰めていく。茉凜の優しさが、私の心に温かさと同時に冷たい鋭さをもたらし、私はその矛盾した感情に翻弄されていた。
◇ ◇
最近、私は息が詰まるような日々を過ごし、茉凜との会話も以前のようには弾まなくなっていた。心の中に募る焦燥感と不安が、私を圧迫していた。こんな状態ではいけないと感じ、解決策を見出さなければならないと切実に思っていたが、どうしてもその糸口が見つからなかった。
一番良いのは、明に出て行ってもらうことだろう。でも、それは現実的ではない。彼女は真坂の家を飛び出し、強硬派からも敵視されているはずだ。彼女を一人にして見殺しにするわけにはいかない。そんなことは到底できないと、自分に言い聞かせていた。
そんな矢先、自室に籠もり、答えのない迷路の中に迷い込んでいる私に、突然スマホからの連絡が入った。藤堂さんからの呼びかけだった。
「地下のトレーニングルームで、茉凜と明が言い争っている」と、彼の緊迫した声がスマホのスピーカーから流れてきた。
一瞬、心臓が大きく跳ねた。すぐに止めなければと決心し、私は駆け出した。走りながらスマホの画面を見ていると、転送された現場のモニター映像に切り替わり、二人の声が鮮明に耳に入ってきた。
そこで私は立ち止まり、スマホの画面に見入った。映し出されたのは、茉凜と明が互いに激しく言い争っている姿だった。茉凜の顔には、感情の波が荒れ狂うように浮かび、明の瞳には挑戦的な光が宿っていた。その声と表情には、私の心に重くのしかかる緊迫感が漂っていた。見るだけで、心の中に深い穴が開くような気がした。
◇ ◇
そこには明の表情が一層険しくなり、唇を噛みしめるその姿が映し出されていた。彼女の感情が限界に達し、ついに堪えきれずに溢れ出した。
「そうだよ、あんたがいるせいで、全部ぐちゃぐちゃになってるんだ!」
その言葉はまるで刃のように突き刺さり、スマホのスピーカー越しに伝わる絶望感が私の胸を締めつけた。彼女の叫びには、深い苦しみと憤りが込められていて、私の心に痛烈な衝撃を与えた。
「あたしが弓鶴くんのそばにいたなら、もっと違うことができたのに! あんたが横から急に出てきたせいで、あたしの居場所がなくなったんだよ!」
その言葉を聞いた茉凜は、目を閉じて深く息を吐いた。彼女の優しい眼差しが、明の苦しみと怒りに対して静かに共鳴しているように見えた。
「ごめんね、アキラちゃん……でも、わたしは弓鶴くんのあの力を支えるためにここにいるの。それは、アキラちゃんだってわかってくれてるよね?」
茉凜の言葉は優しさの仮面をかぶった真実で、明の心に微かな揺らぎをもたらし、その瞳には怒りと絶望が交錯していた。
「そんなことはわかってる! でも、それじゃあ、あたしはどうすればいいっていうの? 彼にとって、あたしはただの邪魔者だっていうの?」
明の声がかすれ、涙が彼女の目に滲んできた。彼女の苦しみと悔しさが私の心に痛烈に響き、その激しい感情の波が体中を駆け巡るようだった。
「こんなに頑張ってきたのに、たくさんのものを壊してきたのに、それって、いったい何のためだったんだ……」
明の言葉には、深い絶望が滲んでいた。その瞬間、茉凜はそっと明に近づき、静かにその場に立ち尽くしていた。無言で明を受け入れるその姿は、心の奥底からの痛みを感じさせるものであった。茉凜の存在が、明の苦しみを少しでも和らげようとしていることが、私には痛いほど伝わってきた。
「アキラちゃん、そんなことないよ。あなたがいたから、弓鶴くんはこれまでずっと戦ってこられたんだと思う。前に彼が言ってたよ。『アキラちゃんも呪いの犠牲者の一人なんだ』って。だから頑張るんだって」
その言葉が、明の感情をさらに激化させた。スマホの画面越しに、彼女の顔が怒りで真っ赤に染まり、唇を強く噛みしめるその姿と目には炎のような感情が燃え上がり、その激しい反応に私の心も揺さぶられていた。
「うるさい、あんたうざいよ、顔も見たくない!」
明の言葉はまるで爆発する火花のように飛び散り、私の胸に強い衝撃を与えた。彼女の怒りが全身から溢れ出し、怒りと悔しさが、画面越しにでもひしひしと伝わってきた。
「ごめんね……」
茉凜の声は、スマホのスピーカーから優しく、しかし少し震えるように聞こえた。
「わたしの言葉があなたを傷つけたなら、本当にごめんなさい……」
その言葉を聞いた明は、一瞬の間をおいてから目を閉じ、深呼吸をするかのように視線を落ち着けようとしていた。
茉凜は、明の辛辣な言葉を一つひとつ真剣に受け止めていた。それでも、彼女の微笑みは揺るがなかった。茉凜の顔に浮かぶ笑顔は、明の激しい感情を包み込むかのように、どこか穏やかでありながらも、その背後には深い悲しみと決意が秘められているように見えた。
「わたしって、こういう人間だから……アキラちゃんがわたしが嫌いっていうのは、わかるよ」
「そうだとも、大っ嫌いだね。あんたみたいな、無自覚でいつもへらへらしてるだけで何もわかってないやつは特に!」
明の言葉は、茉凜に対する深い憎悪を露わにしていた。その激しい感情が、私の心にも痛みをもたらし、茉凜の優しさが逆に明の怒りを煽っていると感じられた。
「でも、わたしはアキラちゃんのこと、嫌いじゃない」
その言葉に対して明の表情はさらに険しくなり、彼女の顔に怒りと不信が色濃く浮かび上がった。茉凜の優しさが、明の痛みを逆に深めているように見えた。
「ふざけないで、あんたはあたしの敵なんだ。今すぐここでぶっ殺してやりたいくらい大嫌いなんだ。なのに何であたしに近寄ろうとするの? 頭おかしいんじゃないの!?」
茉凜はその激しい問いに対して、一瞬目を伏せ、深い思索の中から静かに答えた。
「それはね、アキラちゃんが弓鶴くんを本当に大切に思っている人だからだよ」
その言葉に、明の目には驚きと不安が混じり、茉凜に対する視線が一層鋭くなった。
茉凜は頷きながら話を続けた。
「あなたは、そのためにここに来たんでしょ? わたしには、アキラちゃんがどれほど辛かったか、想像することしかできない。でも、それは本当に立派なことだと思うんだ」
明は耳障りな舌打ちをし、茉凜を鋭い目つきで見つめた。
「何が立派だって? あたしにはもう何も残ってない。笑いなよ、こんなみじめなあたしを」
茉凜は明の言葉にかすかに眉を寄せたが、その瞳には変わらぬ優しさが宿っていた。彼女は穏やかに、かつ深い思いやりを込めて言葉を続けた。
「アキラちゃんがどれだけ辛かったとしても、今のあなたがいるのは、その痛みを乗り越えたからだと思う。わたしが何も知らない無力な人間だとしても、あなたの苦しみを少しでも和らげたいと思っているの。それがわたしにできることだから」
その言葉が、明の心にどこかで触れたのか、彼女は一瞬だけ静まり返り、目に涙をためながら、茉凜の言葉を飲み込もうとしているようだった。
「笑うなんてこと、できるわけないよ。弓鶴くんだって何も言わないけど、きっと今でもアキラちゃんのことを気にしてると思うの。彼は、いつもそうやって大切な人を思いやる人だから」
その言葉に、明の顔が一層険しくなり、唇が震え始めた。彼女の目は激しい怒りと不信に燃えていて、心の中で燃え上がる怒りがそのまま顔に現れていた。息を切らしながら、彼女の手が握りこまれたまま力が入っている。
「そんなわけないじゃない! 彼の目を見てればわかる……」
茉凜は静かに、一歩踏み出しながら言葉を続けた。彼女の動きはゆっくりとしていたが、その優しさと静けさが明の怒りを逆に刺激していた。
「そんなことないよ、アキラちゃんがどんなに辛い状況にあっても、弓鶴くんはあなたを見放したりなんかしない。彼の目には、あなたの苦しみが映っているから、深淵の人たちの辛さをよくわかってるから、本当の意味であなたを理解して、支えようとしているんだと思うよ。たしかに不器用なのかもしれないけれど」
その言葉を聞いた明の瞳には、ますますの激しい動揺と焦燥が見て取れた。
「どこがよ? あたしにはあんたみたいな特別な価値なんてない。あたしじゃ彼の力になれない。それがどんなに悔しいかわからないでしょ?」
茉凜は右手でそっと自分の左腕を包み込みながら、ゆっくりと話し始めた。その姿勢には深い思索と、誰かの苦しみに寄り添うための優しさが込められていた。
「ううん、そんなことない。わたしなんてなんの取り柄もないし、黒鶴の安全装置だなんて言われてるけど、本当に彼の力になれているかどうか、自信なんてないんだ……。それにね、実はわたしの左腕、ほとんど動かないの。人差し指と中指なんて、全然動かなくて。だから、弓鶴くんと一緒に戦うのは難しいし、わたしができるのは、彼のそばで笑顔でいることだけなの。それだけが、わたしができる精一杯のことだから」
明はその告白に目を見開き、茉凜の目には複雑な思いが交錯しているのを感じ取った。その瞬間、明の中で何かが崩れ去ったような気がした。
「それがむかつくんだ……。あんた、何もわかってないんでしょ? 彼の隣に立てるってことが、あたしをどれだけ苦しめてるか知りもしないくせに……。どうしようもないから、こうして見てるしかないのに。もう、やめてよ……」
明の声が震え、言葉には痛みと怒りが混じっていた。彼女は背を向けるように、視線を外し、体が震えながらもその場を離れようとした。
茉凜はその動きに対して静かに見守りながら、ふと問いかけた。
「じゃあ、あなたはどうしたいの? これからどうなりたいの? そうやって何もしないで見ているだけなの?」
明は振り返り、鋭い視線で茉凜を射抜いた。彼女の眉間にしわが寄り、手が強く握り締められていた。
「誰が? あんたが言うな。だまれ」
その言葉に、茉凜は内心で深い息を吐きながらも、冷静さを保とうと努めた。彼女の呼吸が落ち着く中、穏やかな声を心がけて続けた。
「ちょっと落ち着いて考えてみて。弓鶴くんが置かれている状況は、今とても厳しいでしょ? そんな彼が誰かと恋をするなんて、なかなか考えられないよね。だから、わたしやアキラちゃんに対しても、彼はきっと複雑な気持ちを抱えているんだと思うの」
その言葉が明の心に触れた瞬間、彼女の表情には一瞬、困惑と痛みが浮かび上がった。目を伏せたその姿からは、内なる苦しみと矛盾に悩まされている様子が見て取れる。
「あたしがいるせいだっていうの?」
「違うよ、あなたがいることで彼が苦しんでいるわけじゃない。今の彼は、自分がどうすべきかを悩んでいるだけなんだと思うの。わたしもその一部なのかもしれないけど、もっと大事なのは、アキラちゃん自身がこれからどうしたいかだと思うな」
明はその言葉にしばらく沈黙し、胸の中で葛藤している様子が伝わってきた。彼女の肩が上下に揺れ、口を開けようとするが言葉が詰まっているようだった。
「どうしたいか……」
その言葉が明の口から出るのは難しいようで、彼女の顔には困惑が色濃く浮かんでいた。茉凜はその様子を見守りながら、心の整理を促すために、さらに優しく問いかけた。
「アキラちゃん、どんな形でも、弓鶴くんのために何かしてあげたいって思ってるよね? その気持ちは、絶対に無駄にならないと思う」
茉凜の優しくも確固たる眼差しが、明を見つめ続けた。明はその眼差しに応えるように、少しずつ目を開けて頷きながら、深呼吸をした。彼女の呼吸が整うにつれて、明の表情に少しずつ落ち着きが戻っていくのが見て取れた。
「だから、わたしたちで、一緒に協力しない?」
急な茉凜の提案に、明は驚きと戸惑いを隠せず、一瞬にしてその場の空気が変わった。彼女の目には疑念と混乱が交錯し、何をどうしていいか分からないという葛藤が見て取れた。明の口がわずかに開き、思いをまとめるのに苦しむように見えた。
「協力?あんた何を言ってるの?」
茉凜は一瞬の沈黙の後、深く息を吐き、決意を込めて語り始めた。彼女の声には優しさと固い意志が滲んでいた。
「これはわたしからの提案なんだけど、わたしは黒鶴の安全装置として、何がなんでも彼の暴走を防ぐつもり。あなたには深淵の戦う力と経験がある。彼には守る力はあっても戦う力がないから、その欠けているものをあなたが伝えてあげられると思うんだ。それはわたしにはぜったいにできないことだから」
明はその言葉を聞いて、一瞬思考に沈んだ。彼女は頬に手を当て、視線を遠くに向けながら、何かを考え込んでいる様子がうかがえた。彼女の表情には、困惑と内心の葛藤が色濃く表れていた。
「弓鶴くんのためになるなら、やってもいいけどさ……。でも、あたしはあんたに協力する気はさらさらないからね」
茉凜はその言葉に静かに頷きながら、彼女の意志を尊重する姿勢を見せた。
「うん、それでいいよ。わたしたちの弓鶴くんを守りたいっていう願いは、同じなんだから。そのために頑張ればいい。それに、呪いを解けば深淵の人たちは自由になれるんだし、きっと弓鶴くんだって自分を取り戻せるはず。そうしたら、きっと……」
茉凜の言葉に、明の身体がわずかに前に傾き、彼女の言葉に真剣に耳を傾けていた。その眼差しには、まだ希望と不安が交錯している様子が見えた。
「そうしたら?」
「そこからやっとスタートできるんじゃないかな? わたしとアキラちゃんの勝負が、ね?」
明は息を呑んでいた。その言葉に驚きと混乱が入り混じり、彼女の顔がわずかに赤らんでいった。
「勝負って……」
「ああ、前みたいなあんな勝負じゃないからね。本当の真剣勝負ってこと」
明の顔には困惑と戸惑いが浮かび、彼女の目がさらに広がった。しばらく黙っていたが、ようやく言葉を絞り出した。
「わけがわからない……」
「それが彼にとっても、わたしたちにとっても、一番の方法だと思うの。だから、そのためなら、わたしは自分の気持ちに、蓋をしたって構わない……」
茉凜の言葉が、まるで胸を締め付けるように響いた。彼女の瞳には涙がたまり、声にはかすかな震えが混じっていた。その微笑みには、深い悲しみと優しさが滲んでいた。
「……わたしは馬鹿だから、こんな風にしか言えないけど、わたしにとって弓鶴くんは、たぶん特別なんだと思う。はっきりとした形では、まだ言えないけれど……。でも、この気持ちが彼にとって重荷になるなら、今はそれでいい。今はこのままでいいんだ……」
「あんた、それでいいっていうの?」
「うん……」
茉凜のその言葉には、彼女の純粋な思いと無償の愛情、そして深い思いやりが込められていた。
明はその言葉にしばらく黙って考え込んでいたが、茉凜の決意と純粋さに圧倒される様子が伝わってきた。
重い沈黙が流れ、空気が凍りついたように感じられる中、茉凜が静かに口を開いた。
「そうだ、もうひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」
「何よ?」
「わたしたち、友達になろうよ」
茉凜の柔らかな微笑みに、明は驚きのあまり言葉を失い、その場に立ちすくんでいた。
「はぁ?いきなり、どういうつもり? なんか裏があるんじゃないの?」
茉凜は軽く笑い、首を振りながら答えた。
「あはは、まさか、普通に笑い合える仲になれたらいいなって思ってるだけだよ。いがみ合っているより、その方が絶対にいいって思うから」
その言葉に、明の顔は徐々に赤らみ、視線をうつむかせながら照れくさそうに頬を抑えた。
「まぁ、弓鶴くんに変な気苦労をかけたくはないし……。けど納得はできないわ」
「うん、無理しなくていい。少しずつでいいから。それと、アキラちゃん?」
「なんだよ?まだあるの?」
「弓鶴くんが思う通りに生きられるその時まで、わたしたちは休戦協定ってことでいいよね?」
明はしばらく沈黙し、深いため息をつきながら目を伏せた。彼女の表情には内心の葛藤が色濃く浮かび、考え込む様子が見て取れた。やがて、彼女は力強く頷いた。
「……分かったわ。休戦協定ね。でも、これだけは覚えておいて。もし、あんたが弓鶴くんを傷つけるようなことがあれば、その時は容赦ないからね」
茉凜はその言葉に優しく頷き、温かい微笑みを浮かべた。
「うん、その気持ち、ちゃんと受け取ったよ。ありがとう、アキラちゃん」
明はその場で立ち上がり、少し照れくさそうに笑いながら、茉凜に向けて手を振った。茉凜も笑顔で手を振り返し、その瞬間、二人の間に少しずつでも和解の兆しが見えた。
「あたしはまだあんたを信用していない。でも、あんたの弓鶴くんを守りたいって気持ちは本物だろう。あたしもそれは同じだし、それだけは約束する」
「うん、ありがとうね、アキラちゃん」
茉凜の瞳には暖かい光が宿り、彼女は優しく明に手を差し出した。
「仕方ないわね……」
明は一瞬、憮然とした表情を浮かべたが、その手をじっと見つめ、深呼吸をひとつしてから、躊躇いがちにその手を取った。茉凜は微笑みながらその手を優しく握り返した。
「じゃあ、具体的にこれからどうするの?」
明が不安げに尋ねると、茉凜は穏やかな笑顔を浮かべながら答えた。
「まずは、弓鶴くんに安心してもらうことが大事だと思う。そのために、わたしたちも協力し合っていこう」
「うーん……」
そこで明の言葉が途切れ、顔に複雑な表情を浮かべた。
茉凜はその様子を見て、さらに静かな声で続けた。
「アキラちゃん、誰かを助けたいと思う気持ちや、誰かのために頑張りたいと思う気持ちは、誰にも否定できないものだと思うの。でも、そんな気持ちを一人で抱えて悩んでいると、いつか自分自身が壊れてしまうかもしれない。それを避けるために、仲間がいるんじゃないかな……なんて、偉そうに言ってみたけど。わたしは、そんな同志のような人がほしかったんだ」
茉凜の言葉は、彼女の内なる思いと誠実さをにじませていた。明はその言葉を聞きながら、ふと自分自身の立場と気持ちを考え直し、複雑な感情を抱えつつも、心に温かさを感じる瞬間を迎えていた。
「……そうかもしれないわね。あたしも、誰かに頼りたいと思ってたのかもしれないし」
明は少しずつ、自分の内面を見つめ直すように、考えを整理していった。
「これから、わたしたちがどれだけ協力できるか、試してみようと思う。でも、これだけは覚えておいて。弓鶴くんを守るために、あんたもあたしも、お互いに最善を尽くすことが大事だって」
「うん、もちろん。そのつもりだよ」
二人の間に、初めて確かな信頼と理解の架け橋がかかるのを感じながら、茉凜と明はこれからの協力のために、静かに合意した。
明と茉凜の対話が進む中で、互いの気持ちと立場が少しずつ明らかになっていった。明の心に抱えた疑念や警戒心は、茉凜の真摯な言葉と温かい態度によって、徐々に解消されていったのだ。
そのとき、明は思い切って疑問を投げかけた。
「あんたはどうして、彼のそばにいられるの? 価値がないって自分で言ってたくせに。あたしにはわからない」
茉凜は少し考え込み、静かに微笑んだ。その笑顔には、哀しげな影があったものの、温かい決意がしっかりと込められていた。
「わたしも、彼を支えるために何ができるか、まだ探している最中なんだ。でも、ただそばにいて、笑顔を絶やさないこと。それだけでも彼にとっては意味があるかもしれないって、そう思っているんだ」
その言葉を聞いた明は、心の中に複雑な感情が渦巻くのを感じた。彼女の顔には警戒心がまだ残っていたが、少しだけ口元が緩み始めていた。
「……そうかい。わかった。あたしも自分の出来ることをするさ。でも、あんたのこと、まだ完全には信じてないから」
茉凜はその反応に優しく微笑み返し、静かに頷いた。彼女の微笑みは、まるで暗い空に差し込む一筋の光のように、明の心にじわりと染み渡った。
「うん、それでいいと思う。弓鶴くんもきっと、それで安心するはずだから」
明は再び頷き、静かに視線を合わせた。その目には、どこか解放感が漂っていた。
「あたしだって、弓鶴くんには嫌われたくないからね」
その言葉に、明は少しぎこちなく微笑み返し、茉凜は嬉しそうに頷いた。彼女の笑顔には、互いに理解し合おうとする温かい感情が溢れていた。
「そうだね。今はお互いにできることをしっかりやっていこう」
二人の間に流れる空気は、これまでの緊張感から解放され、徐々に穏やかさが戻っていった。
◇ ◇
茉凜と明が、弓鶴のために真剣な話し合いを続けるその様子が、私には夢の中の幻影のように映っていた。彼女たちの声は、遠くから聞こえるかすかな囁きのように感じられ、私の心はその響きに圧倒されていた。
「彼がリラックスできる環境を整えるのが最優先だね。ストレスを減らすために、できる限りの配慮をしよう」と茉凜が言うその声が、私の胸に強く響いた。その言葉には彼女の優しさと献身が込められていて、私の中で深い感情の渦が巻き起こっていた。
「それから、場裏の扱い方を叩き込まないとね。彼が自分を守れるようになるために、戦うための術を身に着けてもらう。簡単ではないけど」と明が応じた言葉も、私の心を切り裂くように響いた。彼女たちが弓鶴のために尽力しているその姿が、私にとっては複雑な感情を引き起こしていた。
「茉凜は私のことをどう思っているのだろう?」
その問いが頭の中で繰り返される。彼女の言葉が、私の心の奥深くに沁み込んで、苦しみとともに響いていた。
『わたしは自分の気持ちに、蓋をしたって構わない……』
彼女のその言葉が、私の心を激しく揺さぶる。彼女の秘めた思いと優しさは、私にとって一筋の光でありながら、その光は深い痛みの源でもあった。彼女の気持ちが、私の心に重くのしかかり、私の感情を絡め取っていく。
「私は弓鶴じゃなくて、美鶴なんだよ。ごめんね、ごめんなさい……」
その言葉が胸の奥で重く響き、私の心を切り裂くような痛みを引き起こす。涙が自然に頬を伝い、心の中に渦巻く混乱と切なさが私を包み込んでいった。彼女の真意が私に届くたびに、私はその心の奥底に引き込まれていく感覚を覚える。
私の胸には幸福と絶望が交錯し、心の中の混沌が私を圧倒していた。茉凜の言葉が私の心を揺さぶり、私自身の感情が溢れ出すのを止めることができなかった。心の奥で、切なさと混乱が渦巻き、私はその感情に飲み込まれていく。
涙が止まらず、スクリーンがぼやけていく中で、私はただ黙ってその感情に浸りながら、深い切なさと混乱に包まれていた。私の心は茉凜の優しさと痛みに引き裂かれ、感情の波に揺さぶられながら、ただただその中に溶け込んでいった。