第67話 茉凜の異変
文字数 3,528文字
もしこれが、徐々に進行する不治の病だったなら、残された時間を大切に過ごすことで、少しでも救いがあったかもしれない。でも、私の状況はそんなに優しくない。
黒鶴を連続して稼働させるたびに、弓鶴の身体は加速度的に限界に近づいている。一度それを経験した私にはそのことが痛いほど理解できる。このまま無理を重ねて精霊子の器を拡張し続ければ、やがてその身体は完全に耐えられなくなる。それが避けられない事実だということは、目を逸らすことなんてできない。だからこそ、私は一刻も早くこの呪いを解かなければならない。手遅れになる前に、弓鶴の魂を取り戻し、彼を縛りつける運命から解き放ちたい――その一心で動いているのだ。
でも、そんな強い決意とは裏腹に、茉凜との時間をもっと大切にしたいという私自身のわがままが、心の中で静かに渦巻いている。彼女ともっと寄り添い、一緒に思い出を作りたい――そんな願いが、限られた時間の中でどうしようもなく膨らんでいく。
私は、自分の欲望を完全に捨てることができないままでいる。茉凜との未来を夢見てしまう自分がここにいる。こんなにも彼女を大切に思いながらも、結局は彼女を裏切り、失望させる運命だと分かっているのに――なんて愚かで、傲慢なのだろう。
こんな自己中心的な願いが、私の中で交錯し続けている。弓鶴を救うことが最優先だと分かっていながらも、茉凜との別れを恐れてしまう自分。この無力さと葛藤が、私の心を蝕んでいくのを、ただ感じるしかない。
◇ ◇
演劇部の打ち上げが終わり、涼しい秋の夜風が心地よく頬を撫でていた。私たちは静かに街を歩いていた。
茉凜が「ちょっと寄りたい店があるの」と微笑んで言ったので、私は自然と足を彼女に向けた。茉凜の柔らかなミルクティーブラウンの髪が、街灯に照らされてゆらりと揺れていた。
「明は?」不意に口をついて出た私の問いに、茉凜は困ったように微笑んで、小さな声で答えた。
「先に帰っちゃった。『あたしはいい』って言って……」
その瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。打ち上げでの明の姿が、頭の中で繰り返し浮かび上がった。彼女の肩がどこか力なく、寂しげだったのは、きっと私のせいだ。
学園祭の後、明は私に対してどこか距離を置くようになっていた。その冷たさを感じるたびに、私は彼女を傷つけてしまったことを悔やむばかりだった。
私が演劇で犯してしまったあの行動――明にとって、許せないことだとわかりきっていたのに、謝ることもできなかった。ただ心の中で「ごめんね」と繰り返すばかりで、自分の不甲斐なさにもどかしさだけが募っていった。
下手に言い訳でもしてしまえば、きっと余計に彼女を傷つけてしまうことも分かっていた。だから、ただ静かに心の中でその謝罪を繰り返し、何も言えずにいる自分が、情けなくてならなかった。
ふと、街のざわめきの中に微かに感じる、見えない警護の気配。私たちを守る天のメンバーたちの存在が、今はひどく頼もしく思えた。彼らが近くにいることで、茉凜とのこの静かな時間が邪魔されることはない――そう確信して、私はほんの少しだけ安心していた。
しかし、その安心感は、まさに一瞬で崩れ去った。
茉凜が突然立ち止まり、何かを凝視するようにじっと前を見据えたまま、私を置き去りにするかのように動かなくなった。
彼女の顔は瞬く間に血の気が引き、真っ青になっていた。その姿を見た瞬間、私の心は凍りついた。茉凜がこんなにも恐怖に襲われ、狼狽える姿など、一度も見たことがなかったからだ。
「茉凜!」
私は思わず声を張り上げ、彼女のそばへ駆け寄った。震える肩にそっと手を置いたが、茉凜の反応はまるでなかった。彼女の目は虚ろで、焦点が合っておらず、まるで彼女の心が遠くのどこかへ飛び去ってしまったかのようだった。
その無防備な姿が、私の胸に重くのしかかり、言いようのない恐怖が広がっていった。何か悪いことが起こる前触れのような、背筋が寒くなる感覚に囚われていた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
心の中では焦燥感が渦巻いていたが、なんとか冷静を装い、優しく声をかけた。だが、茉凜の口から漏れるのは、まるで子供のように震えた、か細い声だった。
「……つぶされちゃった……」
その言葉に、私の呼吸は一瞬止まった。何が? 何が彼女をここまで追い詰めたのか、頭の中で必死に状況を整理しようとした。
「何が? 何が潰されたんだ? 茉凜、しっかりしろ!」
混乱と不安で胸がいっぱいになりながらも、私は彼女の肩を強く揺さぶった。しかし、その行為にすら茉凜は怯えるかのように身体を震わせ、次の瞬間、彼女の顔が崩れ、涙が頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちた。その泣き顔を見ると、私の胸も張り裂けそうな痛みでいっぱいになり、どうしていいのかわからなくなった。
「弓鶴くんが……潰されちゃった……。死んじゃった……」
その言葉に私はさらに驚愕し、声も出せなかった。
「死ぬ?」彼女が言っていることがまるで理解できなかったが、彼女の震えと恐怖に包まれた姿を見ると、ただ事ではないことが伝わってきた。
「茉凜……俺はここにいる。何ともない」
私は必死に言葉を紡ぎながら、彼女の背中にそっと手を伸ばし、優しく撫でようとした。しかし、その瞬間、茉凜はそれを拒むかのように肩を振り払った。そして、叫び声を上げた。今まで聞いたことのない、魂を引き裂かれるような叫び声だった。
「そんなのだめ、いやっ、いやぁぁぁあああああーーっ!」
その叫びは、彼女の内側に渦巻く恐怖そのものが形を持って響いているかのようだった。私の胸に響き渡り、身体が凍りつくような感覚を覚えた。私には何もできなかった。ただ、崩れゆく彼女を抱きしめるしかなかった。
茉凜の肩を強く抱きしめ、その震えを感じながら、私の心も彼女と共に崩れ落ちていくのを感じた。彼女の泣き声が、私の内側に深い穴を開け、どうしようもない痛みと無力感が押し寄せてきた。彼女の恐怖と絶望が、私の胸の奥底まで染み込んできた。
ただただ、彼女を抱きしめながら、私の心もまた、彼女と共に壊れていくような感覚に包まれながら、ただひたすらに彼女の側にいることだけを考えていた。
「あっ、うっ、あっ、あぁぁ……」
彼女の身体が激しく震え、抑えきれない嗚咽が次々と漏れ出す。そのたびに、私の心は締めつけられ、彼女が抱える苦しみが何であるかもわからず、ただ彼女を失いたくないという焦りでいっぱいになった。彼女がどこか遠くへ行ってしまう、そんな感覚が私を襲った。
「落ち着け、茉凜。何も起こってない、だから……落ち着いて」
私の声が彼女の耳に届くことを祈りながら、なんとか落ち着かせようと努めた。だが、その瞬間、何の前触れもなく、周囲の空気が一瞬にして重く震えた。振り返ると、建設中のビルの足場が崩れ始め、数十メートルの高さから巨大な鉄骨が音を立てて降り注いできた。崩壊に伴う轟音が、まるで雷鳴のように耳をつんざいた。
「なっ……!?」
鉄骨が空中を切り裂き、地面に激しく叩きつけられた。衝撃が地を揺らし、路盤の破片が四方に飛び散る中、私は茉凜を守るように抱きしめたまま、身動きが取れなかった。心臓が激しく鼓動し、ただ目の前で起こる異常な光景に呆然とするしかなかった。
彼女の震える体を抱きしめながら、私はその恐怖と衝撃が何もかもを飲み込んでいく様子を見守るしかなかった。
鉄骨が地面に落ちる音、周囲の破壊、そして茉凜の震える声。すべてが重なり合い、私の世界を壊していく。彼女を守るために何かしなければと思いつつも、恐怖と混乱で身体が固まってしまっていた。
茉凜の背中を優しく撫でることさえできず、ただ彼女の涙を受け止めながら、目の前で続く恐怖の現実をただ見つめるしかなかった。彼女が無事であってほしい一心で、私はその壊れかけた世界に立ち尽くしていた。
「みえたって、もう、どうにもならないじゃない……」
茉凜は途切れ途切れの声で小さく呟くと、力を失い私の腕の中で崩れ落ちた。
「ま、茉凜……! しっかりしろ!!」
私は意識を失った彼女を抱えながら、茫然自失のまま立ち尽くしていた。目の前で繰り広げられる異常な現実と、それに圧倒される恐怖の中で、何が起きているのか理解できないまま、ただ立ちすくんでいた。