第57話 舞が持つ意味
文字数 7,354文字
弓鶴の身体で舞を再現できたことには、確かな達成感と喜びを感じていた。しかし、その一方で、過去の記憶やかつての自分に向き合う時間が、胸の奥に優しくも痛ましい響きを残した。
喜びと悲しみが交じり合う複雑な感情が、静かに私を包み込んでいた。まるで、心の中に暖かく冷たい波が押し寄せ、私をどこかへ連れ去ろうとしているかのようだった。
幼い頃、母が舞う姿は私にとって憧れそのものだった。その優雅さはまるで夢のようで、私はその舞に心を奪われ、舞が私の中で美の極致だと信じて疑わなかった。けれど、舞に漂うどこか寂しげな雰囲気や、その舞が持つ本当の意味までは理解できなかった。私はただ、母の教えに従い、言われるがままにその舞を受け継いでいた。母が「美しい」と語ったその言葉を深く考えることなく、ただひたすらに。
あの温かい時間、母と共に過ごした日々は、今でも心に鮮やかに焼き付いている。そして私は、いつの日か母のように美しく舞うことを夢見ていた。しかし、その頃の私はまだ幼すぎたのだ。母が何を込めてその舞を踊っていたのか、その真の意味を知ったのは、母がこの世を去った後だった。
私は深淵の始まりの回廊で巫女となり、母に教わった通り、そこで舞を奉納した。その静寂の中で踊ると、あの日、母から耳にした言葉が、この場所と深く繋がっていることを確信した。
その声は、深淵の血族に流れる長い悲しみの歴史そのものだったのだ。望まぬ力を背負わされ、その力に縛られ、まるで檻の中に閉じ込められたかのように、自由に空を飛ぶことさえ許されない者たち。外の世界をただ眺めることしかできず、檻の中で生きるしかない運命を背負った人々。
いつか外の世界を自由に飛び回りたい。広い世界を自由に生きてみたい。そんな願いが、この舞には込められているのだと、私は初めて知った。母がこの舞に込めた想いが、私の心の奥深くに響き、今も私を突き動かしている。
それは、母から受け継いだ悲しみであり、そして希望だった。
日々舞い続け、血族の悲劇の連鎖を理解するにつれて、私は両親の願いを叶えるだけでなく、解呪を渇望する自分がいることに気づいた。
しかし、その結果が今の私だ。後悔と、背負った罪の重さだけが、今の私に残されている。私は贖罪のためだけに、まだ生かされている。私の命は仮初めのものであり、皆の願いを叶えること、呪いからの解放を求めること、そして弟を取り戻すことだけが、私の唯一の目的だ。生きる意味など、もう私にはないと、そう諦めていた。
私はメイヴィスと同じ。たった一つの目的のために生かされ、たった一つの生き方しか許されない、そんな哀れな籠の中の少女なのだと。頬を伝う涙の感触が冷たく感じられ、胸の内には悲しみしか湧いてこなかった。
そんな私に差し込んだ一条の光、それが茉凜なのだ。彼女は、籠の中の闇の底で蹲っていた私を、明るく照らし、温めてくれた。私はその光に惹かれ、そこから差し伸べられた手を取ったにすぎない。
それから、色を失っていた私の世界と時間は、何もかもが鮮やかに色づき、輝き始めた。茉凜の手が、私を外の世界に連れ出してくれたのだ。
それはメイヴィスにとってのウォルターと同じだった。だから私は、この役を受けようと決めた。彼女の光を追い求めることで、自分自身を解き放ち、茉凜がくれた希望を胸に、もう一度生きる理由を見つけるために。それが一時の夢であろうとも。
この少女も彼によって外の世界を見て、全身で感じることで、失われていた「自分が生きている」という実感を取り戻し、自分が世界の一部であることを理解していく。
そして、そのためにこそ、愛すべきこの世界とそこに生きる人々を守りたいと思うのは当然で、ウォルターにそこで生き続けてほしいと願うのだ。
私はメイヴィスとしてのその想いを噛みしめながら、即興と称して舞を見せた。彼女の願い、彼女の痛み、そして彼女の希望。そのすべてが私の内に宿り、舞を通じて伝わるようにと心を込めた。
そして、メイヴィスのように、私もまた、この舞を通して自分の生きる意味を見つけようとしているのだと、そんな思いが胸に広がっていくのを感じた。
そして、私は最終局面の第五幕へと進むメイヴィスとして、その思いに寄り添っていった。
◇ ◇
彼が生きているこの世界を守りたい。
その願いが心の奥で静かに膨らんでいくたび、私は彼のためなら何だってできると信じていた。たとえそれが、自分の命を差し出すことだとしても。泉の精霊の井戸を解放し、魔族を退けることができれば、彼がこの世界でずっと生き続けられると信じているから。
それに、こうなることは、最初から決まっていた。世界を救うために泉の生贄になることが私の存在意義で、仕方のない結末だと思っていた。そう、私は生きることなど、とうに諦めていたから。
だけど……どうしてこんなにも胸が苦しくて、息が詰まるような気持ちになるのだろう?
その苦しさは、決して単なる死の恐怖ではない。私の心の中で、彼と過ごした時間、彼と交わした言葉、彼の笑顔がひとつひとつ蘇り、そのたびに私の胸が締め付けられるのだ。
彼を守るために命を捧げる決意を固めたその瞬間から、私は自分が何を失っているのかを深く理解してしまった。彼を守るためには、私自身がこの世界を去るしかない。そのことを受け入れる一方で、彼と共有したすべての瞬間が、私の中で愛おしく、切なく、まるで生きる意味そのものになっているからだ。
それでも、これが私が彼のためにできる唯一のことで、私の心が痛み、涙が止まらないのは、私が生きることを諦めたわけではなく、ただ彼を守りたいと心から願っているからだ。
それが永遠の別れになるとしても、私ができる全てを尽くす覚悟が私にはある。その覚悟が私の心を貫き、最後の一秒まで彼のために生きる理由を与えているのだ。
心の中で「これから先もずっと一緒にいたい、彼と共に歩みたい」という抑えきれない気持ちが、日ごとに強くなっていく。それが恋だとわかっていても、私にはどうしようもなくて、ただ胸を締めつけるだけ。
彼と一緒にいることで感じる幸せが、同時に私を深く苦しめる。彼と共有したい未来が、私にとってはもはや夢でしかないと知りながら、私はどうしても彼の存在を手放すことができない。私の胸は、彼のために尽くすことができる唯一の選択肢であると信じて、痛みと涙の中で揺れるばかりだ。
どうして私は彼を随行者に選んでしまったのだろう。
王様が「最優の騎士を選べ」と仰ったとき、あの場には確かにウォルターよりも強く、立派な騎士たちがいたに違いない。彼らは多くの戦果を上げ、称賛を受けているに違いなかった。それでも私は、左腕の自由を失った彼を選んでしまった。あの瞬間、伝達の泉で出会った彼にどうしても心を惹かれてしまったから。
愚かな選択だと、誰かに言われるかもしれない。感情に流された無謀な決断だと。しかし、彼に対するこの気持ちは、単なる選択ではなく、私の心の奥で彼と深く結びついている何かがあると感じたから。彼の不完全さや過去の苦悩を知るほど、私の心は彼に引き寄せられていった。
運命と呼ぶのは簡単だけれど、これは私自身が初めて心から選んだ決断だった。もしかすると、私は彼の中に自分とは違う、けれど似たような深い闇を感じていたのかもしれない。
彼が「俺は戦うことしか知らなかったから、それ以外のことは考えたこともない」と語ったとき、その言葉が胸に痛いほど響いた。彼もまた、挫折し、暗闇の中に囚われていたのだと。その孤独や痛みが、私の中にある孤独と共鳴しているように感じた。彼の言葉、彼の過去、そして彼が抱える闇が、私の心の奥底にあるものと重なり合っているようだった。
お互いに傷を舐め合うわけではないけれど、私たちの心の根底には、何か共通するものがあったのだと思う。彼と共有する瞬間や感情の中で、私たちの痛みが交わり、理解し合うように感じた。
私が彼を選んだ理由は、単なる偶然ではなく、運命のように感じられた。それは、自分が選び取った道であり、彼と共に歩むことで何かを成し遂げたいという強い想いが心に根付いていたからだ。
彼と共にいることで、私の心の中にある深い願いが、少しずつ形になっていくのを感じた。それは、彼と歩む未来に対する確信であり、彼を守りたいという強い願いが込められている。
彼との時間が深まるたびに、この思いはさらに確かなものになり、私の胸を締めつける感情は、ただの恋ではなく、運命のように感じられた。どんな困難があろうと、彼と共にいることで感じるこの深い絆を、私は信じているのだ。
そして、旅を共にするうちに、私たちは少しずつ変わっていった。私はまるで幼子のように、これまで抑えていた感情を解き放つようになり、ウォルターもまた、そんな私に振り回されながらも、いつの間にか笑顔が増え、まるで少年のように明るく話すようになった。
気づいたときには、私は彼のことを好きになっていた。驚くことだった。誰かに恋をするなんて、生まれて初めてのことで、そんな普通の幸せが自分に訪れるなんて思っていなかったから。
私は消えていく運命だと知っているのに、今さら恋だなんて、ばからしいはずなのに……それでもその気持ちは抑えられなくて、胸が張り裂けそうで、彼に何も言えなくなってしまう。
もしこれがウォルターでなければ、ただの随行者であったなら、こんなことにはならなかった。旅に出る前に、真実を伝えられていたはず。だけど、彼だからこそ、私は言えなかったのだ。彼の目を見るたび、私の心が震えてしまうから。
今はそれをとても後悔している。彼をただの随行者として扱えなかった私が、すべてを招いてしまった。彼の笑顔を知り、その優しさに触れるほど、自分の選択がどれほど愚かだったのかが痛感される。私のせいで、彼が傷つくかもしれないと思うと、心が締め付けられるようだ。
もう、私にできることは何もない。何も言わずに泉に向かい、その力を解放して、静かに消えていく。それが私に与えられた最初からの運命で、私にしかできないことだから。
せめて、彼がこれからの世界で幸せに過ごせるように。私がいなくても、その笑顔が輝き続けることを願いながら、自分の役目を果たすしかない。
きっと、ウォルターは私の選択を憎むだろう。彼の中で私がただの過去の一部となり、私の存在が彼の心に影を落とすかもしれない。それでも、それでいいんだ。彼には、私のことなどすぐに忘れてほしい。彼が生き続けることができる世界を守れるなら、それでいいのだ。
私はもう十分に生きた。彼のおかげで、ちゃんと生きることができたから。彼と過ごした日々が、私の人生に意味を与えてくれた。それは短い時間だったけれど、私の心の中に深く刻まれている。
だから、せめてもの感謝として、この命を捧げよう。自分の役目を果たし、世界を救うために尽力することで、私の存在が少しでも役立つのなら、それが私の最期の願いだ。
「ああ、本当にこの旅は楽しかったな……」
その言葉が、まるで風に乗って消えていくように感じられる。心の奥底から溢れ出るその感謝の気持ちは、ただの言葉ではなく、私のすべてを込めた最後の言葉だ。どんなに辛くても、どんなに切なくても、この瞬間だけは私の心が満たされている。
これから先、私がいなくなった世界で、ウォルターが幸せでありますように。彼が笑顔で過ごし、彼の大切な人たちと共に歩んでいくことを、心から願いながら、私は静かにその時を迎えようと思う。
◇ ◇
私を包んでいた静寂が、突然の拍手で破られた。驚いて目を開けて振り返ると、そこには涙を浮かべた高岸が立っていた。
そして、その背後には、茉凜を始めとする皆が、私を見守っていた。彼らの姿は、まるで柔らかい光の中に溶け込んでいるようで、私の心に温かさと安心感をもたらしていた。
どうやら私は、舞に没頭しすぎて、自分が今どこにいるのかさえわからなくなっていたようだった。胸の鼓動がようやく落ち着き始め、私はゆっくりと現実に戻されていく感覚を味わっていた。
茉凜は驚きと喜びが入り混じったような顔をしながらも、優しく微笑んでいた。その笑顔は、私を現実へと優しく引き戻す力を持っていた。
一方、洸人と明は複雑そうな表情を浮かべていた。彼らが何を思っているのか、私には察しがついていた。深淵の血族にとって、この舞は特別な意味を持つからだ。
この舞は、力を選定する根源の欠片の召喚のためのものであり、そこから言霊を聴けるか否かで、その人のその後の人生が決まってしまう。私はその残酷な儀式に巫女として何度も立ち会い、舞を披露してきた。そのたびに、舞の持つ重さと、それが運命を決定づけるものだということを痛いほど知っていた。
選ばれし者が得る力は計り知れないが、待ち受けるその代償もまた大きい。根源の欠片からの力の波動は、選ばれる者の魂を震わせ、その言霊が届かなかった者には、無情にも絶望が訪れる。
私はこれまで何度も、選ばれなかった者たちの涙や嘆き、そして失われた希望を見てきた。巫女として舞うたびに、その悲しみが私の心に深く刻まれ、私の魂を少しずつ削り取っていったのだ。
その涙の一滴一滴が、私の心に重くのしかかり、舞の後の静けさの中で深く浸透していった。失われた希望の残響が、私の胸の奥で永遠に響いている。舞うたびに、私の内なる痛みが増していくように感じるのは、その悲しみを私が受け入れ、共鳴させる役割を担っているからだと知っているからだ。
それでも、私は舞い続けなければならなかった。それは柚羽の家を継ぐと決めた私にしかできない役割であり、私があの場所で生きるために与えられた使命だったから。
そして、私はこの運命の呪縛から逃れることは許されなかった。運命が私に課したこの役割が、私をここに縛り付け、私が果たすべき使命を強要していた。私の意志や希望に関係なく、ただただこの運命に従い、舞い続けるしかなかった。
すべては呪いを解くために——
私の心にはまだその呪縛が残っている。その解放を願いながら、悲しみと使命に向き合い続けているのだ。
だからこそ、茉凜や高岸たちが見せてくれた拍手と涙は、私にとって深い救いだった。彼らが私の正体や本当の気持ちを知っているわけではないにしても、私が表現した痛みや葛藤を真摯に受け止めてくれた。
その瞬間、私の胸は静かに温かくなり、目に映る彼らの表情が、私の中の重荷を少しだけ軽くしてくれるような気がした。彼らの拍手と涙は、私がこれまで積み重ねてきた苦しみや孤独を共鳴させ、私の心に新たな光をもたらしてくれたのだ。
深く息をつき、私は再び彼らに向かって微笑んだ。その笑顔は、私自身の内なる強さと、彼らが与えてくれた温かな支えへの感謝の気持ちを込めたものだった。
この舞を披露する意味、それは単なる儀式の一環ではなく、私自身の存在を証明するためのものだった。舞いながら感じた痛みや葛藤が、私をただの巫女ではなく、一人の人間としての私を深く根付かせていた。
茉凜たちがそこにいてくれることで、私はそのことを改めて実感することができた。彼らの存在が、私の心を支え、私自身が舞の中で感じる痛みと希望を共有してくれることで、私の存在が確かに意味を持っていると感じられたのだ。
私は大きく息を吸い込み、心を落ち着けてから高岸に問いかけた。
「どうだった? 泉の巫女の感情とイメージを、俺なりに表現してみたんだが」
その言葉には、わずかな不安と自分でも感じている後ろめたさが混じっていた。舞い終わった後の静けさが、私の心に少しの疑念を残していたからだ。
しかし、高岸は興奮気味に答えた。
「これだよ、これ。ど真ん中ストライクって感じで素晴らしかった。君が感じたメイヴィスのイメージは、本当に彼女の心に寄り添っていて、その舞には深い悲しみと憂いが込められていた。それが痛いほど伝わってきたよ」
「本当に……?」
私の言葉には、少しの驚きと安心感が混じっていた。
「うん、これで行こう。それにしても、君の引き出しは本当に底が知れないね。どうなってるの? 何かこう……」
高岸の目が私をじっと見つめ、その視線が心の奥まで見透かされるような気がして、私はつい言い訳をしてしまった。
「これは……子供の頃から母がよく見せてくれた舞いを覚えていて、それを少し真似してみただけなんだ。大したことじゃない」
「そうだったんだ。君の古風な立ち居振る舞いには、そういう背景があったんだね。どうも普通の家庭で育ったって感じには、見えなかったから。なるほどねー」
高岸の鋭い観察眼に、私は少し怖くなった。それでも、私は自分のこの劇の役に対する自信を少しずつ取り戻していった。
こうして最大の問題が解消され、私たちは第五幕の仕上げに取り掛かることになった。
◇ ◇
学園祭の日が次第に迫ってきた。時間がまるで砂時計の砂のように、ひと粒ひと粒が私にとって重く感じられ、その流れがあまりにも速く感じられた。毎日が貴重で、一瞬一瞬を大切にしなければならないと、心の奥で感じていた。
舞台の幕が上がるまでの時間が、今や私の心の中で静かに、しかし確実に刻まれていく。私たちの舞台がどんな反応を引き出すのかは未知数だが、仲間たちと共に作り上げたこの作品に、私は全身全霊を込める覚悟ができていた。
この舞台が成功するかどうかに関わらず、それは私自身の願いであり、決して叶うことのない夢のために、私のすべてを捧げるつもりだった。
だからこそ、幕が上がるその瞬間まで、一瞬一瞬を全力で生きる覚悟を持ち続けた。私の心の奥で、舞台が終わった後の静けさと、達成感の中にある深い安堵感を想像しながら、その日を待ち続けた。