第59話 扉を開けて 2
文字数 11,161文字
背後から突如として響いたその声は、冷たく鋭い刃のように、私の心臓を一瞬で凍りつかせた。
振り返ると、そこには長身で細身の男が立っていた。彼の眼鏡越しに覗く鋭い眼光は、冷酷さと計り知れない深さが宿っていた。
私の隣に立つウォルターも、私と同じようにその男の存在感に圧倒されていた。彼の右手が微かに震えているのが、私にもはっきりと感じ取れた。それは、ただならぬ威圧感を放つ男の前に、心の奥底から湧き上がる恐怖の現れだった。
「何者だっ!?」
ウォルターが低く怒鳴り、剣に手をかけた。その声には、緊張と警戒の色が濃く滲んでいた。しかし、男はその動きにも動じることなく、薄ら笑いを浮かべながら冷徹に言い放った。
「我が名は【ヴィルギレス】。お前たちが魔族と呼ぶところの軍を率いる者、と言ったらいいかな」
「魔族の、将軍か……!」
ウォルターが一歩前に踏み出し、剣を握る手に力を込めたが、ヴィルギレスは微動だにしなかった。その冷酷な目つきが、私たちをまるで足元の塵のように見下ろしている。私の心はその圧倒的な威圧感に圧され、ただ立ち尽くすしかなかった。
彼の眼光が、まるで深い穴の底から私を見下ろしているかのような錯覚を与え、空気が凍りつき、周囲の音がすべて消え去ってしまったかのような静寂の中、私の心臓の鼓動だけが、無惨にも響いている。
ヴィルギレスは薄ら笑いを浮かべながら、冷徹な声音で言った。
「将軍だと? 人族の格付けには興味はないが……まあいい。今一度訊く、お前たちが今回の【結界の儀式】に挑む者たちだな?」
ウォルターは、その言葉に臆することなく、毅然とした態度で尋ねた。
「結界の儀式とは何のことだ? 泉に舞を奉納することが、何だというんだ?」
ウォルターが一歩前に踏み出した瞬間、私の心臓は跳ね上がった。彼の姿勢には決意と勇気が満ちていたが、その無知が逆に恐ろしいものであることを、私の内なる不安が強く告げていた。
私の心の奥底で、何かがじわじわと迫ってくるのを感じる。ウォルターが知らないこと、私がこれからこの場で何をしようとしているのか、そして何が起こるのか――それが全て、今この瞬間に暴露されるかもしれないという予感が、私の胸を締め付けた。
ヴィルギレスは冷笑を浮かべ、私に視線を向けた。その瞳はまるで私の内面を深く見透かしているかのようで、逃げ出したいという衝動が胸に込み上げてきた。
「おや、随行の騎士殿は何も知らないというのか? これは意外だ」
彼の声は静かでありながら、私の心に鋭く突き刺さった。
ウォルターは驚きの表情で私を見つめた。
「メイヴィス、こいつは何を言っている? 俺には何のことかさっぱりわからない」
私は咄嗟に視線を逸らし、口ごもった。
「……そんなこと、どうでも……」
ヴィルギレスは私の様子をじっと観察し、さらに楽しげに笑みを浮かべた。
「なるほど、そういうことか。巫女殿、貴女も苦労しているようだな。この者に、儀式について何も伝えていないのには理由があるということか」
その瞬間、私の心は凍りついた。ヴィルギレスの言葉がまるで冷たい氷の刃となって、私の胸を貫いた。彼の言葉が持つ含みと、私の内に秘めた恐れが結びつき、冷や汗がじわりと背中を伝っていく。私が隠してきた真実が、これから暴かれようとしているという恐怖が、私の全身を硬直させた。
「黙れっ、これ以上話すことはない。この俺が相手になる!」
ウォルターが鋭い声を上げて剣を引き抜き、構えた。私はただ、彼の背中を見つめるしかなかった。彼は私を守ろうとして、全身で立ちはだかっている。けれど、その背中が不安で揺れているのが見て取れる。
「何も知らないままというのは哀れなことだ」、とヴィルギレスは冷たく続けた。
「その舞が持つ意味と価値、何故お前が随行者としてこの泉に連れてこられたのか、とても大切なことなのだがな……。やれやれ、此度の巫女と随行者はとても変わっている」
その言葉はまるで私を責めるようで、胸が痛んだ。ウォルターに何も知らせていない自分の愚かさを、今ここで厳しく指摘されているようだった。
「貴様は何が言いたい? すぐにここから立ち去れ!!」
ウォルターが声を張り上げて威嚇する。しかし、ヴィルギレスはその反応を冷笑を浮かべながら受け止め、まるで予測していたかのように言葉を続けた。
「そういうわけにもいかない。我ら魔族にとって、百年に一度現れる泉と、それと接続する運命の巫女の儀式がもたらす結果は、少しばかり厄介でね。とはいっても些事に過ぎないんだが、その度に彼らがどんな顔をして現れるのか興味があって、こうして足を運んでいるわけさ」
「そいつはご苦労なことだ。だが、指一本触れさせない。俺は彼女の随行者であり、彼女の剣だ。この命に代えてでも守り抜く」
ウォルターの言葉には決意が込められていた。彼は決して引き下がるつもりはないだろう。その姿に込められた熱意と覚悟が、私の心に深く響いた。一方で、私の心臓は激しく鼓動し、ウォルターの強い意志に応えようとするも、自分自身の無力さと向き合うことに、痛みと戸惑いを感じていた。
小さな声で「ウォルター、お願い、冷静になって……」と言いたかったが、言葉は喉の奥で止まってしまう。彼の熱い反応に、私の内なる恐怖と無力感が混じり合って、何もできない自分が情けなかった。
ヴィルギレスの嘲笑が耳に残り、彼の言葉が私たちの関係を揺さぶっているのを感じた。私の心の奥で渦巻く不安と恐れが、彼を危険にさらしていることも分かっていた。ヴィルギレスが言う通り、知られたくない真実を隠していることが、逆に私たちを危険に陥れているのだと痛感していた。
ヴィルギレスの冷笑が一層深まり、私に向けられたその視線は氷の刃のように鋭く、心の奥底まで突き刺さる。彼の目には私のすべてが見透かされているようで、その冷たさが体の芯から凍らせるようだった。
「ふふ、何も知らぬ愚かな随行者よ。お前はそこの巫女が、これからしようとしていることを何も知らない。だが、それでは興が冷めてしまう。いいだろう、教えてやる」
ヴィルギレスの言葉が放たれた瞬間、私は血の気が引くのを感じた。彼の冷酷な言葉が、まるで世界が崩れ落ちていくような絶望感をもたらし、私の全身を包み込む。すべてが一瞬で壊れてしまう恐怖が、私の心に圧し掛かり、何もかもが破滅へと向かっていると感じられる。私の内なる悲鳴が、ヴィルギレスの言葉と共に、心の中で激しく響いた。
「おやめなさい!」
自分でも驚くほどの強い声が、抑えきれない感情と共に発せられた。言葉は自分の意志を超えて、まるで別の力が働いているかのように口から飛び出していた。逃げ出したい――この場から、すべてから、逃れたい――その衝動を必死に抑えながら、私はうつむいた。
「どうした、メイヴィス?」
ウォルターの心配そうな声が、私の心を一層締め付ける。彼の声に込められた戸惑いと心配が、私の胸に重くのしかかり、どうしようもない焦燥感が胸を圧迫する。このままでは、ヴィルギレスの前で私の秘密が暴かれてしまう。彼には絶対に知られたくないのに、その恐怖が私を支配していた。
「ウォルター……あなたが知る必要なんてないのよ」
声が震えていた。必死に落ち着こうとしたが、心の中の混乱と恐れが抑えきれず、彼の視線を避けた。内なる不安と悲しみが、涙となって瞳の端に溜まっていく。ウォルターの心配そうな眼差しが、私の中で膨らむ悲しみと絶望をさらに強調し、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえていた。
「どうしてだ?」
ウォルターの問いかけが、私をさらに深い闇へと突き落とす。彼に何も知られずにいてもらう方が、どれほど幸せだっただろうか――そんな思いが心の中で渦巻いていた。その思いが私を苦しめ、言葉が喉の奥でひっかかりながらも、必死に絞り出すように発せられた。
「知ったところで、もうどうしようもないからよ。だから、ここから早く逃げて……」
ウォルターを守りたい、その一心だった。しかし、その言葉が彼にどれほど届いたのか、私にはわからなかった。彼の優しさとが、私の内なる苦しみと矛盾するように響き、心に重くのしかかっていた。
ヴィルギレスの目には、私の心を見透かすような冷ややかな光がちらついていて、その視線が辛くてたまらなかった。彼の冷酷な目つきが私の内面を鋭く切り裂き、心の奥底にまで届いているようで、痛みが全身を包み込む。
「何も知らぬままでは、彼は真の意味でお前を守ることはできないだろう。だが、知ればどうなるか……それもまた見ものだな」
ヴィルギレスの声は冷たく、彼が心の底から楽しんでいるのが伝わってくる。その残酷な響きが、私の胸の中で何かを切り裂くように深く突き刺さり、心の奥に冷たく残る。
「お願い、逃げて……」
そう言うしかなかった。ウォルターがその答えに辿り着く前に、どうかどこかへ行ってほしい――そんな願いが胸に募る。彼が無事であってほしいと願う反面、自分の苦しみから逃れたいという欲望がますます強くなる。その矛盾した感情が私をさらに苦しめた。
「馬鹿なことを言うな。君を置いて逃げるなど、できるわけがないだろう?」
ウォルターの言葉はいつも通り真っ直ぐで、私を守りたいという強い意志が込められていた。その言葉が胸に響くたびに、痛みがさらに深まる。彼の強い意志が、私の心の中で自分の無力さを際立たせ、私をさらに苦しめる。
「もう、それしかないのよ。ウォルター……」
私が本当に言いたいのは、あなたを悲しませたくないということ。しかし、それ以上に、自分がこの苦しみから逃れたいだけだということだと分かっていた。自分の無力さとその欲望に嫌悪感を抱きつつ、ウォルターを守りたいという気持ちと戦っていた。涙が瞳の端に溜まり、感情の波が私を押し流していくのを感じる。
「ふふふ、いい、実にいい。此度の巫女はなかなかに感情豊かだ。持って生まれた使命と待ち受ける運命に絶望し、かすかに抱いた希望も、今は打ち砕かれる寸前で、苦しみと悲しみに満ちている。その姿は実に甘美で、食べてしまいたいくらいだ」
ヴィルギレスの愉悦に満ちた声が、冷酷に響く。彼の言葉は私の心の深いところに根を張り、私をさらに痛めつける。
「貴様!!」
ウォルターの怒りが爆発し、声が空気を震わせる。しかし、ヴィルギレスの顔には歪んだ満足感が漂い、まるで私たちを弄ぶかのように見える。
胸の奥で痛みが広がり、ウォルターを巻き込みたくないという思いが強まる。彼の優しさが私を支えてくれていることを理解しつつも、もう後戻りはできないことはわかっている。逃げ場もなく、どうすれば良いのかわからないまま、絶望と混乱が心の中で渦巻いていた。
それでも、ウォルターには何も知られてはいけない。彼の優しさが私をこれ以上傷つけることがないように――その思いが、ただただ辛い。
「では教えてやろう、随行者よ。何故百年に一度巫女が現れ、何故この泉にやって来るのか。その理由はな───」
ヴィルギレスの冷たい声が耳に響いた瞬間、私の全身が凍りついたように感じた。心臓が激しく鼓動し、手足が震える。恐怖と絶望で、視界が揺らぎ、彼の言葉が私の内側から削り取っていくような感覚に襲われた。
「やめてっ!!」
私の叫びが空しく、ヴィルギレスの口から残酷な事実が静かに、しかし決定的に放たれる。彼の言葉が、私の世界を崩壊させ、心を引き裂く。
「───我々魔族を退ける泉の精霊の結界の代償として、巫女の命が生贄として捧げられるのさ」
その言葉が私の心を深く抉り、まるで地面が足元から崩れ落ちるような感覚に襲われた。現実が私を無情に打ちのめし、周囲の音が遠くなり、視界がぼやけていく。私の中で必死に隠してきた秘密が、すべて暴かれてしまった。ウォルターにだけは、絶対に知られたくなかったのに……。
ウォルターの表情が凍りついた。彼の瞳に驚きと困惑が混じり、私に向けられていた優しさと信頼が、急激に崩壊していくように感じられた。
「メイヴィス……?」
ウォルターの声は震えていた。彼の問いかけには、私を守りたいという強い気持ちと、同時に深い失望と悲しみが込められているように思えた。私が何も言えず、ただ涙を流しているだけの中で、彼の目には私への理解と同時に悔しさが見て取れた。
胸の奥に広がる無力感と、絶え間ない苦しみ。それがまるで重い鎖となって私を縛りつけ、逃れることのできない絶望だけが目の前に広がっていた。
どうして私はこうも弱くて愚かなのだろう。ウォルターはいつも私を支えてくれた。なのに、それを裏切ってしまったという罪悪感が、冷たく鋭い棘のように胸に刺さる。
「あ、あああ……」
喉が詰まるように、言葉にならない声が漏れる。
現実の冷酷さに打ちのめされ、私はその場に崩れ落ちた。膝が震え、全身から力が抜けていくのを感じた。もう、立ち上がる気力すら残っていない。耐えることすら無意味に思えた。涙が、目から溢れ出す。頬を伝い、首筋を濡らしていく感触が、やけに冷たく、重く感じた。
私にはどうすることもできない運命が、のしかかってくる。その圧倒的な重さに、心が砕けそうで、ただ泣くことしかできなかった。自分の無力さを思い知り、その無慈悲な現実に直面するたびに、涙は止まることなく流れ続けた。声にならない嗚咽が胸の奥から込み上げ、喉を締め付ける。
「メイヴィス!!」
ウォルターが私の元に駆け寄り、優しく肩を抱きしめてくれた。その温かさが、かえって胸の痛みを強くし、私の心に一層の深い傷を刻んだ。彼の抱擁が、私の心を抉るように感じられた。
「生贄とはどういうことだ? 教えてくれ!」
ウォルターの問いが、私の心を引き裂く。その響きが、私の心の奥深くに残る痛みをさらに膨れ上がらせる。彼の焦燥と困惑が、私にとっては耐え難い圧力となって押し寄せてくる。
私はただ、涙で濡れた頬を伏せるしかできなかった。何も言いたくない、言うべきではないと心の中で葛藤しながらも、ウォルターの視線が私を捉えて離さない。
「メイヴィス……それは本当のことなのか……?」
ウォルターの声が再び私を呼び、ようやく顔を上げると、彼の表情には混乱と悲しみが溢れていた。彼の瞳に映る私の姿が、私の秘密を明らかにしてしまったかのようで、私の心は一層の苦しみに包まれていた。
でも、どんなに苦しくても、言葉はどうしても出てこない。彼を傷つけたくない一心で、自分の心が一層深い闇に引きずり込まれていくのを感じる。
「なぜ黙っていたんだ。なんで言ってくれなかったんだ……?」
ウォルターの言葉が、彼の悔しさと悲しみが、私の心の奥にひりひりとした痛みを引き起こす。その問いかけが、私がずっと恐れていた現実を突きつけてきた。私の口は動かず、ただ彼の目を見つめるしかできない。どんな言葉も、彼の痛みを癒すには足りない。
「……こうなることは、最初から決まっていたのよ……」
私の声はかすれていて、感情の重さをそのまま反映している。心の奥深くで、すでに諦めたという現実が重くのしかかり、言葉にするのが辛い。
「最初からだと……」
ウォルターの目には信じられないという感情が浮かんでいる。私が何を言おうとも、彼の心の中の混乱は収まらないだろう。
「それは、あなたと出会う前から、ううん、生まれた時から決まっていたの。どんなに嫌でも、この結末からは逃げられないの。だって、私がやらなければ、この世界は救えないのだから……」
止めどもなく涙が溢れ、頬を伝っていく。ウォルターの目が私を見つめ続ける中で、心の奥底から湧き上がる苦しみと罪悪感だけが私を支配する。彼の視線が、私の変えられない運命に対する無力感を一層浮き彫りにする。
「ごめんなさい、ウォルター……私のせいで、あなたをこんなにも苦しませてしまった……」
私の謝罪の言葉に、ウォルターは言葉を失っていた。彼の心に刻まれる傷を思うと、私の胸は締め付けられるように痛む。私のせいで、彼がどれほどの苦しみを味わうことになるのか、それを知ることがさらに私を苦しめた。
「本当は旅立つ前に、ちゃんと伝えるべきだった。でも、それができなかった私が悪いの……」
自分の過ちを悔い、後悔の念に押し潰されそうになる。なぜこのようなことになってしまったのか、自分でも理解できない。ただ、確かなのは、私が愚かだったという結果と、そのことに対する深い後悔だけだった。
彼との旅路があまりにも楽しくて、毎日が新鮮で、気づけば大切なことを後回しにしてしまっていたのかもしれない。それが間違いだと気づいたときには、すでに手遅れで、どうにもできない状況に陥ってしまっていた。
だから、私に残された選択肢は一つしかない。すべてを受け入れ、一人で静かにその重い運命と向き合うしかないのだ。それが私が背負うべき罪であり、私が受け入れなければならない現実なのだから。
ウォルターの瞳に映る私の姿が、私の内面の苦しみを余計に際立たせる。その目が私を見つめ、どんなに私が言葉を発しても、彼の心の中で広がる痛みを和らげることはできないと知っている。私の中で渦巻く絶望と後悔が、私を引き裂くように感じる。
「ウォルター、どうかここから立ち去ってください。これは主である私の、いえ、王女として下す、最初で最後の命令です」
その言葉を口にするたびに、心の中で自分の卑怯さが膨らんでいくのを感じる。ウォルターに対して、主従関係を盾にして拒絶するしか選択肢がないという現実を受け入れることは、私にとって苦痛でしかない。彼の気持ちを思うと、自分の選択がどれほどひどいものであるかが分かっており、吐き気を催すほどの自責の念に駆られる。
ウォルターには、これ以上私を見てほしくなかった。彼の悲しみを目の当たりにし、その中で自分の無力さを感じることが、私をさらに打ちひしがれさせる。
「そんな命令など聞けるか。ふざけるな!」
ウォルターの決意と怒りが私を深く抉り、私を手放さない。その苦しみが私を破壊しそうで、どうしようもないほど痛い。
ヴィルギレスは冷酷な視線で私たちを見つめ、まるで私たちの痛みを楽しんでいるかのように口を開く。
「詳しく教えてやろう。我々はこの世界を蹂躙することが望みだ。ところが、中立の立場で不干渉を決め込んでいた精霊どもが、よりにもよって人族に手を貸した。まったく意味が分からん」
ヴィルギレスの言葉は冷たく、容赦なく私たちに現実の厳しさを突きつけてきた。彼の冷酷な語りが、私たちの苦しみをさらに深めるだけでなく、その背後にある意図が明らかになってきた。
「そのための場所がここというわけだ。精霊どもはお前たちにそのための鍵として、緑の髪を持って生まれる少女を差し出すように告げた。救世を望むのであれば、それ相応の対価が必要とな。なんと無慈悲で残酷なことだろうか。まったく巫女という存在が哀れでならん」
彼の言葉は私の心に深く刻まれ、現実がどれほど残酷であるかを痛感させる。私の心の奥で渦巻く絶望と悲しみが、さらに強く私を圧倒する。
ウォルターはヴィルギレスを鋭い眼差しで睨みつけ、その声には震えが混じりながらも、怒りを込めて叫んだ。
「貴様は何がしたいんだ!? 巫女がそんなに憎いのか? そんなにも彼女を苦しめたいのか?」
ヴィルギレスはその質問に対し、愉悦の笑みを浮かべながらも、冷たくも魅惑的な口調で答えた。
「ああ、その通りだとも。教えてやろう、私は人間が持つ負の感情が好物なのさ」
「なんだと!?」
「怒り、悲しみ、恐怖、失望――これらが渦巻く瞬間が、私にたまらない喜びをもたらすんだ。おそらく、私には感情というものが存在しないんだろう。だからこそ、人の感情が生み出す混沌と絶望を渇望しているのかもしれないね。人間の心が深く揺さぶられ、感情の波が押し寄せる瞬間に、私はこの上ない満足を感じるのさ。それがここに来た理由というわけだ」
ヴィルギレスの言葉には冷酷な喜びが込められ、その口調はまるで生き物のように場の空気を冷たく、重苦しいものに変えていく。彼の愉悦の表情が、私たちの苦しみをさらに煽り、その絶望感を一層深めていく。
ヴィルギレスの言葉が織りなすのは、歪んだ楽しみそのものであり、その目に浮かぶのは他者の苦しみから得られる虚無感への快感だ。その体の中に宿っているのは、冷たく、歪んだ欲望だけ。彼らにとって、人間の血肉は単なるエネルギー源に過ぎず、私たちの心そのものが極上の調味料のようなものなのだろう。
ウォルターは黙ってヴィルギレスの言葉を聞き続けていた。その静かな佇まいの中に、彼の肩が微かに震えているのが私にはわかった。彼の感情は抑えきれないほど強く、怒りと激情がその震えに表れている。
ウォルターのその震えが、彼の内なる葛藤を物語っている。彼がどれほどその怒りを抑えようとしているのかが、私には痛いほど伝わってきた。その静寂の中に隠された彼の激情が、私の心の奥でさらに深い痛みを引き起こす。
「どうすればいいというの……」と、心の中で呟く私。自分の力ではどうすることもできない現実に、涙を流すしかない。ウォルターの震える肩を見ながら、私の中でますます深まる絶望感と、それをどうにかしたいという切実な思いが交錯している。
「許さない……」
ウォルターが毅然と立ち上がり、怒りに満ちた表情で剣を構える姿は、まさに決意に溢れていた。その目には冷酷なヴィルギレスに対する怒りと憎しみが宿っていた。
「もう、貴様は喋らなくていい。話す言葉など無い!!」と、彼の声は響き渡り、そのままヴィルギレスに向かって駆け出していった。
「だめ、ウォルター!!」
私は必死に彼を引き留めようと手を伸ばすが、その手は虚しく空を切るだけで、彼の背中を見送るしかなかった。彼の姿が遠ざかる中で、私は自分の無力さに打ちひしがれ、ただただ悔しさと悲しみに包まれる。
魔族の将軍に一人で立ち向かうなど、どう考えても無謀だ。
何より彼が私のために怒りを燃やし、身を挺して守ってくれる理由がわからない。彼の信頼を裏切った裏切り者であるにもかかわらず、どうして、こんなにも私を大切にしてくれるのか、その気持ちが理解できなかった。
その思いが胸を締め付け、涙が止まらない。ウォルターの姿が遠くなり、湧き上がる後悔の波が、痛みとなって私の心を締め付ける。自分が犯した過ちや、ウォルターへの申し訳なさが一層深く刺さってくる。自分の罪の重さが、ますます私を苦しめる。どうしてこんなことになってしまったのか、その答えが見つからず、心はただ悲しみと悔恨の中に沈んでいく。
ウォルターの剣先がヴィルギレスに迫り、その先に待ち受ける悲劇が、まるで現実のように私の目に浮かんだ。しかし、その瞬間、ウォルターの剣が一陣の赤い風に弾かれ、その鋭い動きがぴたりと止まった。空気が震え、赤い風が暴風のように吹き荒れる中、彼の剣が止められたその光景は、私にとって衝撃的だった。
「おいおい、ヴィルギレスの旦那。あたしが止めてなきゃ、あんた死んでたかもよ?」
その声は、紅蓮の炎のように鮮やかな赤い髪と瞳を持つ少女から発せられた。彼女の外見は、その内に秘めたる激情を物語るように、炎のように燃え立っている。彼女こそが、これまで何度もウォルターと剣を交えた強者、【サラン】であった。魔族一の女剣士として知られる彼女が、ここに現れたのだ。
サランは短めの双剣を構え、鋭い殺意を漂わせながら、ウォルターの前に立ちふさがった。その姿は、自信と決意に満ち溢れており、戦場の緊張感を一層高めている。
ヴィルギレスはやれやれといった表情で肩をすくめ、サランに向かって冷淡に言った。
「サラン、余計なことをしてくれるなよ。これからが一番面白いところだったのに。まあいい、そいつの相手をしてやりなさい。ただし、すぐに殺しては駄目だ。彼には、事の結末をしっかり見届けてもらいたいからね」
サランはその命令に対して、一瞬の沈黙の後、冷ややかな笑みを浮かべた。彼女は手に持った双剣を、まるでその冷たさを確かめるかのように舐めた。その剣先は冷え切った鋭い光を放ち、次の瞬間に流れる血の匂いを予感させた。
「あいよ、殺さなきゃいいんだろ? だったらたっぷりといたぶってやるさ。あたしに傷をつけてくれた礼をしなきゃならないしね」
サランの言葉が耳に入ると、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。ウォルターが目の前で、耐え難い痛みを味わわなければならないと思うと、私の心は絶望に満ちていった。彼が死ぬよりも辛い目に遭うのではないかと、恐怖と悔しさが胸に広がっていく。
「ほらほら、よそ見してんじゃない!! あたしと踊れ、踊るんだよ!!」
サランの矢継ぎ早に繰り出される焦熱の剣がウォルターを掠めるたびに、私の胸に突き刺さるような痛みが広がる。その痛みが心臓を鋭く刺し、呼吸が一瞬止まる。ウォルターの苦しむ姿に、言葉では表せない恐怖と焦燥が込み上げてくる。
この状況で、私にできることは何なのか――その答えが見つからないまま、焦りと無力感が私を襲う。しかし、どれだけ悩んでみても、私にできることが一つしかないことは、とっくに分かっていた。
「そうだよね、私にできることは、最初からそれしかなかったんだ」
小さく呟きながら、私はウォルターに背を向けた。その姿が遠ざかるごとに、胸が締め付けられるような思いが募るけれど、今は迷っている暇はない。彼を救うために、今すぐにでも動かなければならない。
目指すは、精霊が眠るという泉。その泉にこそ、ウォルターを救うための抗う手段が隠されている。私は決意を胸に、急ぎ足でその場所へ向かう。心の中には、彼を救うための希望だけが残っていた。
心を決め、私は走り出した。このささやかな命を全て捧げる覚悟を持って、彼を救うための最後の一歩を踏み出す。罪深い自分が贖うべきものがある。それがたとえ自分の命であっても、彼を助けるためならば迷わずに進むしかなかった。
その足取りは、まるで儚い命の象徴のように、一歩一歩が苦しみと愛の重みを背負っていた。彼のために、私の全てをかける。この苦しみが、私の心を切り裂くたびに、彼への愛が深まっていく。けれども、その愛がこんなにも切なく、苦しいものだとは思っていなかった。
背中越しにヴィルギレスの嘲笑が響いた。
「あはっ、ははは。やっぱりそうか、そうくるか。これは愉快だ。巫女殿にとって、やはりこの男は救うに足るだけの大切な存在なのだな。さあ巫女よ、今こそその身に刻まれた絶望の舞を見せてくれ」
その声は、冷たくて残酷な楽しみを含んでいて、私の決意をさらに試すように響いた。胸の奥で湧き上がる恐怖と絶望を押し殺しながら、私はただひたすらに前へと進むしかなかった。
その一歩一歩が、私の心を引き裂き、涙が頬を伝った。それでも、彼のために、自分の命を賭ける以外に選択肢はなかった。愛する彼が苦しむ姿を想像するたびに、自分の無力さがさらに痛みを増し、どうしてこんなにも辛い決断をしなければならないのかと、自問自答する。
この儚い命が、彼を救うための唯一の手段であるならば、どれほど悲しくても進むしかない。前に進むその先に、希望があればいいと願いながら、私はただひたすらに前へと走り続けた。