第66話 学園祭の打ち上げと洸人の追求と
文字数 7,269文字
信頼のおける相談相手である新城医師の説明を、茉凜は特に疑念も抱かず受け入れてくれた。だが、明の瞳にはわずかな不安が滲んでいた。彼女の瞳には、言葉では表現しきれない複雑な感情が潜んでいるように感じられた。それは単なる心配や疑念にとどまらず、私に対する深い感情が混じったものだった。
私は言い訳をする勇気など持てなかった。自分の選択に対しても、その感情に対しても、正直に向き合うことができない自分が、ただ無力に思えた。彼女の不安がどこから来るのか、そして私がその不安にどう応えるべきなのかを考えると、自分の言葉がさらに軽く感じられるだけだった。
◇ ◇
翌朝、私は茉凜の「しばらく休んだ方がいいよ」という勧めを断り、学校へと向かった。日常に戻ることで心を紛らわせようとするのは、いわば逃避行のようなものだった。
放課後、私は早々に帰宅しようとしたが、茉凜は「今日は寄るところがあるから来て」と言って私を引き留めた。心の中で不安が広がりながらも、彼女の言葉には逆らえずに従った。茉凜がどこに向かうのか、そこに何が待っているのか、その先にどんな意味があるのか、私はただただ不安だった。
連れて行かれた先は、演劇部の部室前だった。舞台を壊しかけ、カーテンコールにも出られなかったことを思い出し、どうしても気まずい思いがして、その場に立ち尽くした。
部員の人たちがどんな顔をして私を迎えるのか、どんな事を言われるのか、不安で胸がきりきりと痛んだ。けれど、茉凜は私の感情などお構いなしに扉を開けた。
部室の中には洸人と明、そして演劇部の部員たちが集まっていた。その表情は温かい笑顔で満ちていて、私の姿を見た瞬間、一斉に拍手と歓声を上げて迎えてくれた。
その瞬間、私の心は驚きと喜びで満たされた。胸が高鳴り、目には自然と涙が溢れてきた。こんなに感動的な体験は、私にとって初めてだった。彼らの温かい心に、私は言葉を失い、ただその瞬間を受け入れるしかなかった。
部員たちは口々に私に称賛と労いの言葉をかけてくれた。終演後に倒れてしまった私のために、彼らは打ち上げの予定をわざわざ繰り下げてくれていたのだ。
その思いやりに触れた私は、心からの感動を覚え、暖かい涙が静かに頬を伝った。涙が流れるたびに、自分が感情を誰に対しても素直にさらけ出せるようになっていることに気づいた。
両親の死後、感情を封じ込めることに必死だった私が、こんなにも簡単に涙を流せるようになるなんて、不思議で、少し戸惑っていた。それでも、その解放感は心地よく、涙の奥には嬉しさが広がっていた。
部室内での打ち上げはとても和やかで、私はその温かい雰囲気にしばし浸っていた。皆の笑顔と賑やかな会話に心がほぐれていく中、ふと洸人の真剣な眼差しが近づいてきた。
その瞬間、私の心は一気に緊張で凍りついた。彼の真剣な表情が、何か不穏な気配を漂わせているように感じられたからだ。
「少しだけ話をしたいんだ。場所を変えないか?」
洸人の声には軽やかさが消え、重々しい響きがあった。茉凜が心配そうな顔をしたけれど、私は彼の言葉に従うしかなかった。心の中で不安が静かに膨らみながらも、私はその感情を押し込め、洸人についていった。
部室の外に出ると、廊下の静けさが私たちを包み込んだ。洸人は私を無言で見つめており、その視線には深い意味が込められているように感じた。
彼の目が私の心の奥底に潜む不安を引き出そうとしているかのようで、胸の奥でうごめく恐怖が膨らんでいくのを感じた。
言葉が出ないまま立ち尽くす私の前で、洸人は一瞬の沈黙の後に、静かに口を開こうとした。その時、何を話されるのか、私の心は固く凍りついていた。
「文化祭が終わるまでは訊かないつもりでいたけれど、君にどうしても確かめたいことがあるんだ」
洸人の声には普段の軽やかさがなく、真剣さが宿っていた。その瞳が私を鋭く捉え、私の心の奥底に潜む不安を刺激するような感覚があった。
「一体、何のことだ?」
私は冷静を装いながら、彼の問いかけを受け止めた。しかし、その問いが何を意味するのか、私にはわかっていた。
数年前に彼と直接会ったことがあり、その時に彼が舞を目にしていたことを考えると、演劇での舞に私のオリジナルの要素が含まれていることを見抜いているのは当然だろうと感じていた。
舞は代々継承されるものであり、あくまで雛形として存在している。それが演者の心象によって独創的な表現を加えられるのは当然のことだった。私の舞は、私の心そのままを表現していた。
「……君はいったい何者なんだ?」
洸人の問いは、私の予想通りのものであった。私は心の中で深呼吸しながら、静かに答える準備をしていた。
「洸人、お前は何が言いたい? 意味がわからない」
私はとぼけるしかなかった。彼の言葉が持つ重さに対抗するため、冷静さを保つ努力をしながらも、心の中では動揺していた。
「君のあの舞を、僕はよく覚えている」
洸人の言葉は、私の内心にじわじわと迫ってきた。彼の記憶の中で私の舞がどのように残っているのだろうか。
「ふーん……。それが誰の舞の事を指しているのか、わからなくもないが」
私の言葉は、彼の記憶の中の私の舞と直接対峙するかのように響いていた。
「見たのは一度きりだったけれど、その流れるような美しさと深い悲しみは、今も僕の心に深く刻まれている」
彼の感情が、私の心の深い部分に触れてくる。洸人が語る美しさと深い悲しみが、彼にどのような影響を与えたのか、私には完全には理解できていなかったが、その言葉の重さがじわじわと私を包み込み始めていた。
「劇に取り組む前に僕は言ったよね、君には面影があるって。でも、僕には劇中での君が、彼女、いや、美鶴さんそのものにしか見えなかったんだ。これは決して気のせいなんかじゃない」
洸人の言葉が核心を突いた瞬間、私の心は砕かれるような感覚に襲われた。
でも、言い逃れの余地は確かにある。この身体は弓鶴のものであり、私はそこに取り憑いている怨念のような存在で、論理的に考えて私との結びつけは不可能だ。そうやって、自分を納得させようとした。しかし、その理屈が脆く揺らいでいる自分がいた。
「そんなことか。一応姉上の舞も見ていたからな。なぜか俺は一度見た動きなら、それを丸々自分に落とし込むことができるんだ。だからうまくできたわけさ」
平静を装ってその場を切り抜けようとしたが、洸人の目はさらに鋭さを増していた。その目に映る私は、どうにも隠し切れない何かを抱えているように思えた。
「そうだね、動きはコピーできるかもしれない。でも、抱いている想いまで忠実にコピーできるものなのかな? 僕はそうは思わない」
洸人の言葉が、私の心に重くのしかかった。その言葉に、私の指は震え、顔に動揺が浮かんでいくのを必死に抑えようとした。感情の制御が次第に難しくなってきていた。彼の言葉が私の心の奥深くにある秘密に触れようとしているのがわかり、その圧力に私は耐えきれないような気がしていた。
「そうか、お前にはそう感じられたのか。だとしたら、よかった……」
私はその言葉を口にしながら、できるだけ優しく、自然に微笑んだ。それは、彼に対して何も隠していないと強がって見せるためで、これが最も無難な対応だと感じたのだが――その瞬間、彼の反応が予想外の方向へ進んでいった。
彼は私の顔を見た途端、言葉を失った。そして、その表情には驚きと困惑が浮かんでいた。私は彼がなぜそんな反応を示したのか理解できなかったが、その動揺はあまりにも強く、彼の心に何か深い衝撃が走ったことが見て取れた。
「君は……いや、そんなはずがない。君はどう見ても男だし、背丈だって全然違う。」
彼の言葉が、波紋のように私の心を侵食していた。
今まで仮面をかぶってきた自分——「氷の王子」としての私がもはや完全に崩れ去っているのかもしれないという不安が急に押し寄せてきた。
美鶴としての内なる私が外に漏れ出してしまったのだろうか。
その考えが頭をよぎるたび、私は冷静を保とうと必死だった。表情を引き締め、心の揺れを悟られないように努める。それでも、彼の視線が鋭く私を捉えたままであることに気づき、冷たく振る舞うほど、その眼差しは私の内面に食い込んでいくような気がした。
「どうした? 何かおかしいか?」
自分でもわかるほど、いつもの冷淡な声が少し硬くなっていた。洸人の動揺はまだ止まらなかった。
「いや、何も……」
「普通に考えてありえない事だろうが、馬鹿かお前は。いつもの冷静な診断力はどこへ行った?」
私の言葉には苛立ちが混じり、彼に対するしてま非難の響きがあった。洸人は私の言葉に少し驚き、さらにその顔には困惑の色が強まった。
「確かに君は君のはずだ。だが、君が演じていたものはただの演技じゃない、何かもっと深いものが感じられて仕方がなかった」
彼の言葉が、私の心にそっと入り込んできた。彼が抱く私への感情が何であれ、それは私が内面に抱える苦しみや願いと重なる部分があるのかもしれないと思った。彼が感じ取った「深いもの」という言葉が、私の心の隅々にまで届き、その理解は、ある意味安堵にも繋がった。
洸人の瞳に映るものが何かを求めているようだった。私はそれに応えるべきか、言葉を飲み込むべきか、一瞬迷ったが、ゆっくりと口を開いた。
「お前が俺をヒロイン役に推した理由は、そんなところだろうと思っていた。姉上の境遇とメイヴィスの物語が重なる……それは、確かに感じていた。」
彼の微かな頷きは、私の言葉を正しいものとして受け止めた証拠だった。
「望まぬ生き方を強いられて、それ以外の選択肢などない……俺はそんな姉上の悲しみを感じていたから、メイヴィスという役柄に対しても同じ感情を抱くことができたのかもしれない」
洸人の表情が少し和らぎ、彼の目が私の言葉に深く触れたのが分かった。
「そうか。君がそう言うなら、やっぱりそうだったんだな。僕は君の中に、美鶴さんと重なるものをずっと感じていた。その正体が何なのか確かめたくて、ずっと考えていたんだ。でも、今の君の話を聞いて、少し分かった気がする」
「なら、それでいい」と短く返したが、心の中では何かが引き裂かれるような痛みを感じていた。
そこで、私は洸人に、心の奥でずっと抱えていた問いを投げかけてみた。
「どうして、そこまで姉上のことを気にかけるんだ?」
彼は私の目から逃げるように視線を落とし、しばらく黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「こんなことを言っていいのか分からないけれど……彼女は僕にとって、救いの手であり、そして一方的な初恋の人だったんだ」
その言葉に、私は驚きで体が硬直してしまった。彼がかつて私に対して、そんな深い感情を抱いていたとは、思いもよらなかった。
洸人はまるで遠い過去を見つめるように目を遠くに向け、続けた。
「その頃の僕は完全に壊れていた。生きる意味を見失い、虚無に漂っていた。そんな僕に、再び生きる希望をくれたのが、美鶴さんだったんだ」
その言葉は、私の心に深く響いた。私が彼にかけた言葉は、実は自分自身にも向けられた励ましだったのだとしみじみと思い返した。
「おい、そんな話をしていいのか? 灯子に知られたら、まずくないか?」
洸人の口元に浮かんだ小さな微笑みは、どこか切ないほどに温かかった。
「もう何年も前の話だから。ただ、彼女には本当に感謝しているんだ。できることなら、もう一度会ってお礼が言いたい」
彼は、その目にほんのりと涙を浮かべながら、もう一度、躊躇いながら訊ねてきた。
「それで……美鶴さんはやはり……」
その問いに対して、私は深い息を吐き、心を込めて答えた。
「ああ、叔父上からの情報では、おそらく姉上は解呪に挑んで失敗し、命を落とした。もはや、この世にはいないと見ていいだろう……。だから俺は、彼女の遺志を継ぐと決めたんだ」
洸人は沈んだ顔で頷いた。彼の視線は、どこか遠くを見つめているようだった。
洸人の問いかけが、私の胸の奥にしまい込んでいた不安をゆっくりと浮き上がらせた。彼の瞳がまっすぐ私を見つめていて、逃げ場がないように感じられた。
「姉上は……運命を受け入れるしかなかった。それでも、最後まで戦い抜いたんだ。俺は、その強さを見習いたかった。彼女が生きた意味を、無駄にしたくなかったからな」
自分の声が震えていないか、心配だった。洸人がじっとこちらを見つめているのがわかった。その目の奥には彼の葛藤が見え隠れしていた。私も、彼もそれぞれの戦いを抱えている。
「それで君は、あの舞を……」
洸人の言葉に一瞬、鼓動が跳ねた。
「そうだ。あれは俺なりの覚悟の表明だ。姉上が選んだ道を、俺も歩むと決めた。だから、なんとしても俺が成し遂げなければならない。たとえ、それがどんなに険しい道であっても……」
自分の言葉が鋭く響くのを感じながら、同時にその裏に隠れた脆さも洸人には見抜かれている気がして、少しだけ息苦しかった。
「俺には……姉上には無かったものがある。それが黒鶴であり、そして茉凜だ。彼女がいれば、俺は───」
声がかすれそうになるのを必死にこらえながら、私は言葉を続けた。
「───始まりの回廊で器を完全に解放し、根源を再生させられるはずだ。そうすれば、異界への門は開き、血族の呪いはこの世界から消える」
自分の口から出たその言葉の響きが、どこか虚ろに感じられた。計画の裏にはまだ多くの曖昧さが潜んでいる。洸人の顔にはさらなる不安の色が浮かんでいた。そしてその不安は、私自身の中にも根を張っていた。
洸人は何も知らない。茉凜は確かに黒鶴の安全装置として機能しいる。だが、儀式に不可欠な「導き手」の真贋を確かめる術がない。デルワーズの示した情報は漠然としていて、確信を持つには遠い。心のどこかで、「それでも、なんとかなる」という願いにすがろうとしている自分がいることが、痛いほど分かっていた。
「でも、成功したとしても───」
洸人の声が、私を現実に引き戻す。彼の問いが、私の心に鋭く突き刺さる。
「───君と茉凜ちゃんはどうなるんだ? 本当にリスクはないのか?」
その問いは、私が一番恐れていたものだった。答えを持たない不安が、心の奥から浮かび上がり、胸を締め付ける。私の口は言葉を発することを拒んでいるように感じられた。
「それについては、まだ何も……はっきりとは分かっていない……」
力なく答えた私の声は、震えを含んでいた。心の奥でざわめく不安が、私の表情に現れていた。視線を合わせることすら怖かった。
洸人はそれを聞いて、じっと私を見つめた。彼の眼差しが、まるで私の内面を掘り下げるように鋭く、私を追い詰める。
「そんな重要なことをまだ伝えていないのか? 彼女には、それを知る権利があるんじゃないのか?」
私の心はその問いに打ちひしがれた。彼の言葉が私の心の中で反響する。もちろん分かっている。茉凜には真実を伝えるべきだということも、彼女が背負うべき責任とリスクを知る権利があるということも。
「……今はまだ……伝えていない。まあ、どうにかなるだろう」
その瞬間、自分がどれほど無責任なことを言っているか、改めて痛感した。現実から目を逸らすための言葉に過ぎなかった。自分が言った言葉が、あまりにも無力で空虚に思えた。
洸人はその言葉を聞いた後、無言でしばらく私を見つめた。そして、ゆっくりと私の肩に手を置いた。彼の手のひらから伝わる圧力が、私の心を押しつぶすように感じられた。
「“どうにかなる”なんて、そんな曖昧な言葉で済む問題じゃないだろう?」
洸人の声は私の心の奥に潜む弱さを暴露し、心の奥底に眠る恐怖を引き出した。
彼の言葉が、私の心の奥に潜む弱さをえぐり出す。洸人が正しい。これはただの怠慢だ。逃げ続けていた自分の愚かさを、彼の言葉がまざまざと映し出していた。彼の目の前で、私はどれほど無力に見えているのか、その瞬間に痛感した。
「茉凜は君にとって大切な存在なんだろう? 彼女に全てを隠したまま、ただ前に進むなんて、それでいいのか?」
洸人の問いが、私の心に深く刻まれた。茉凜のことを思うと、胸が痛んでたまらない。彼女のためにこそ、この決断を下さなければならないというのに、その重さに押しつぶされそうだった。
私は彼の手を振り払うようにして、自分の決意を強固なものにしようとした。洸人の言葉がどうであれ、私の気持ちは揺るがなかった。
「俺は茉凜を死なせるつもりはない。必ず解呪を成就させて、一緒に帰ってくる。それだけは絶対だ」
洸人はしばらくの沈黙の後、軽くため息をついた。その息が、私に現実を突きつけるようだった。彼の目には、私の覚悟に対する複雑な感情が浮かんでいた。
「君がそう決めたのなら、それを尊重するよ。だが、いずれ茉凜ちゃんには話さなきゃいけない時が来る。その時には、彼女に嘘をつかず、正直に話すべきだ」
「分かっている」
その言葉は、心の奥底からこみ上げてきた苦悩を垣間見せるものだった。それは嘘を重ねることで自分を守ろうとする、情けない私の姿だった。
「いまさら本当のことを言ったところで、何も変わらない。かえってみんなを傷つけるだけ」と、自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
しかし、その背後には、真実を隠し続けることの重さが、時折深い影となって現れる。嘘が積もるにつれて、自分の中で真実がますます手の届かないものになり、解放されることがないまま日々が過ぎていく。
もう手遅れであることを痛感しつつも、嘘をつき続けることでしか自分を保つことができないという矛盾した現実が広がっていた。