第51話 激震「俺」ヒロインにされてしまう、のか?
文字数 2,252文字
「実は、友人からある依頼を受けておりまして、皆様には誠に申し上げにくいのですが……」
いつもとは違う、あまりにかしこまった灯子の口ぶりに、私は思わず箸を止め、胸の奥でじわりと広がる不安に気づいた。場の空気が明らかに重くなり、皆が息を詰めて彼女の次の言葉を待っていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
茉凜が優しい声で問いかけたが、その表情には不安の色が浮かんでいた。灯子は一瞬躊躇するように「うーん……」と悩みながら、少し困った顔を浮かべてから答えた。
「実は、学園祭のことなんだけど……」
その一言に、さらに場の空気が緊張感を帯びた。学園祭……それが何だというのだろう。私たちはじっと耳を澄まし、次の言葉を待ち受けた。
「私が所属する演劇部で、演劇をすることになったの。それで……」
灯子が話し終わる前に、茉凜の目が一層輝きを増した。「それで? どんな劇?」と、まるで物語の続きを待つ読者のように身を乗り出した。
「まあ、劇自体はありがちなファンタジーなんだけどね、問題は脚本担当の人でね……」
灯子は言葉を慎重に選んでいるようだった。
「その人、キャスティングに妥協を知らないんだよ。理想がもう少女漫画みたいに高すぎて、イメージに合う人がなかなか見つからなくてさ、困ってるみたいなんだよね」
灯子の説明に、私たちは「ふーん」と一様に頷いたが、茉凜だけは興味津々な様子でさらに身を乗り出し、「それで? それで?」と食い気味に聞き返した。
灯子は少し肩をすくめて、ため息混じりに続けた。
「でね、本題はここから。その脚本担当がね、あなたたち、この場にいるメンバー全員に出てもらえないかって言ってるんだよ」
その瞬間、私と茉凜、そして明の声が一斉に重なった。「はぁっ!?」
驚きのあまり、茉凜は口元を手で押さえ、私は言葉を失ってただただ呆然とする。唯一落ち着いていたのは洸人だけで、彼は「うんうん」とまるで知っていたかのように静かに頷いていた。
咄嗟に私は反論した。
「冗談じゃない。俺たちは今、そんなことにかまけてる余裕なんてないんだ。お前だってわかってるだろ?」
しかし、灯子は私の抗議をまるで気に留めないように、にこやかに微笑んだ。
「それはそうかもしれないけど、洸人くんも明ちゃんも、こういう体験、してみたくない? 学生生活は一度きりなんだから、ちょっとくらい冒険してみてもいいんじゃない?」
灯子の軽やかな口調に、内心では反発しつつも、彼女の言葉が心のどこかを揺さぶるのを感じていた。
「だいたい、俺たちみたいなど素人に演技なんてできると思うか?」
私が問い詰めるように言うと、灯子は少し意味深な笑みを浮かべ、穏やかに返してきた。
「そこは私たちがちゃんとサポートするし、練習期間も十分にあるから、心配しなくて大丈夫だと思うよ」
「いや、演じるっていうのは、そんな生易しいもんじゃないんだ。才能はもちろんだが、心構えとか覚悟とか、そういったものが重要で、努力でどうにかなるものじゃない」
私はそう言いながら、無意識に自分が弓鶴を演じている姿を思い浮かべていた。弓鶴というキャラクターを演じるたび、その内面の矛盾や痛みを隠し続けてきた――女である私が弟の弓鶴を装うという難題に直面しているからこそ、演技の奥深さが身に染みてわかっていたのだ。
でも、灯子にはそんな私の事情を知る由もない。
「ああ、それにね、脚本担当のお気に入りがあなたなのよ」
灯子は、さらに微笑みながら続けた。
「キャラのイメージにぴったりだって、もうこの役には彼しかいないって、全然譲らないんだから。それで困ってるわけ」
その言葉に、胸の奥で何かがひどく揺れ動いた。
私は「イメージ? それはどんなイメージなんだ……?」と、不安を押し隠しながら灯子に尋ねた。
彼女は、まるで何かを確信しているかのように、私をじっと見つめ、明るく言った。
「それはね、ずばりヒロイン!」
その瞬間、全身が凍りつくような衝撃が走った。まるで心臓を直に握りつぶされたかのように、息ができなくなってしまった。頭の中は真っ白になり、「そんなの、嘘でしょ?」という声が頭の中で何度もこだました。
「な、なっ、なんだと……?」
気づけば、手に持っていたお箸がカタカタと震え、どうしても動揺を隠せなかった。頬が熱くなり、まぶたの裏がじんわりと滲んでいく。今、私は弓鶴として振る舞っているはずだ。それなのに、灯子は私がヒロイン役のイメージなのだと言う。私が女の子の役だなんて――。
その言葉が頭の中をぐるぐると回り、心が乱れていくのが分かった。表情に出さないようにしなければと思うのに、胸がキリキリと痛む。このままでは、顔が真っ赤になってしまうかもしれない。灯子の楽しげな笑顔がちらりと視界に入り、ますます私の心拍数は上がっていった。
「落ち着いて……落ち着いて……」そう心の中で言い聞かせながらも、心臓はまるで私の言うことを聞いてくれず、鼓動が早まり、息が浅くなっていった。
「俺が……女の役をやるなんて……考えられない……」
震える声でようやく言葉を絞り出し、私は必死に冷静さを保とうとしたが、その言葉の重さが胸にのしかかって、どうにもならない感覚が押し寄せてきた。