第56話 深淵の巫女の舞
文字数 7,593文字
だが、作品が形になるには演者だけの力では不十分だ。脚本家の紡ぎ出す言葉、演出家の緻密なビジョン、照明の微妙な調整、舞台装置のセッティング、そして裏方スタッフの尽力があって初めて、舞台は完成する。それぞれの役割が完璧に絡み合い、舞台上の景色を支えている。キャストたちが輝けるのは、裏方の細やかな準備と計算があってこそなのだ。
音響スタッフの指示が飛び交い、照明が微細に変化するたび、舞台はまるで魔法にかかったかのように変貌する。光がキャストの表情や動きにドラマティックな陰影を与え、物語の緊張感や感情の高まりを一層引き立てる。キャストたちの目に宿る輝きは、観客の心を引き込んで離さない。
一方で、脚本家の描く世界に対する演出家のビジョンは、演者たちに新たな挑戦をもたらす。彼女たちは役柄の感情をどれだけ深く掘り下げられるか、自身の内面と向き合い続けながら限界を模索した。特に物語のクライマックスに向けた稽古では、全員が一つの意志となり、極限まで自分たちを追い込んでいった。その姿には、強い絆と深い愛情、そして作品への誇りが溢れていた。
◇ ◇
高岸の演出と演技指導は、まさに狂気じみた情熱と深い愛情に満ちており、その熱意が私たちを奮い立たせた。
坂上部長の冷静なリーダーシップは、稽古の進行をスムーズにし、私たちに自信を持たせてくれた。彼の的確な判断と落ち着いた姿勢は、私たちに安心感を与え、緊張と不安を和らげてくれた。
灯子の細やかなサポートも、私たちが演技に集中できる環境を整えてくれた。彼女の手際よい気配りと細かい配慮が、稽古の一つ一つをより良いものにしていった。
しかし、茉凜はウォルター役を演じるにあたり、数々の困難に直面していた。特に、殺陣のシーンが彼女にとっては大きな挑戦だった。事故の後遺症で左腕にほとんど力が入らず、右手一本での演技を余儀なくされていたからだ。
そんな茉凜に対し、舞台上で直接絡む明が手を差し伸べてくれた。
「もう、しょうがないわね。あんた、それでメイヴィスを守る騎士なんて務まると思う? まったく、世話が焼けるんだから」
明の言葉の端々には彼女なりの心配や気遣いがにじみ出ていて、その厳しい言葉の中に、茉凜への期待と励ましが込められていた。
明は茉凜に対し、片腕で戦うための実践的な指導を行った。そして、正面を向いて構えるのではなく、フェンシングのように半身の構えを取ることで、体を斜めにして相手に見せる面積を減らし、攻撃を受け流しやすくするようにアドバイスした。この方法により、茉凜は長身のリーチを活かしながら、見栄えの良い演技を実現することができるようになった。
明の厳しさの中には、たとえ不器用でも確かな思いやりが込められていた。その指導が茉凜に力を与え、彼女は次第に自信を取り戻していった。二人の間には、最初は小さな衝突もあったが、次第に自然に協力し合う姿勢が育まれていった。その姿は、まるでお互いを理解し合う過程のようにも見えた。
私はそんな二人のやり取りを、あえて口を出さずに静かに見守っていた。最初は不安そうだった茉凜も、回を重ねるごとに自分だけのスタイルを確立し始めた。
演技面でも、茉凜は私と向き合いながら稽古を重ね、どんどん洗練されていった。彼女はまるでキャラクターの宿命に深く結びついているかのように、役柄に没入していった。過去の痛みを堪えながらも、その内に秘めた強さと「守りたい」という強い意志が、舞台上で見事に表現されていった。
洸人が演じるヴィルギレスは、冷徹で知的な魔族の将軍そのもので、彼の冷たい眼差しはまるで相手の心の奥底を見透かすかのようだった。その冷酷さが舞台上で一層際立ち、洸人の演技は圧倒的な存在感を放っていた。
「貴様らの運命など、悠久の時を生きる我々の前では塵芥に過ぎぬ。その弱々しい命の灯火ごと、この手で捻じ切ってやろう」
洸人の低く冷たい声が舞台に響くたび、空気が凍りつくような緊張感が広がり、その冷酷さを感じさせるセリフが深い影を落とす。表情には一切の感情が見えず、まるで機械のように感情を抑え込んだその姿は、ヴィルギレスというキャラクターを完璧に体現していた。
洸人が放つその冷徹な雰囲気と深い知性が、ヴィルギレスをただの悪役に留まらせず、観客を引き込む魅力的なキャラクターとして立ち上がらせていた。彼の演技は、見る者を圧倒し、ヴィルギレスの恐怖と冷酷さを余すところなく伝えていた。
そんな彼を見ながら、私は石御台公園での対峙を思い出していた。その時の彼の冷酷無比な姿が、ヴィルギレスに重なって見えたのだ。もっとも、その時の彼も「演じて」いたわけだが。
対照的に、明が演じるサランは、内に秘めた感情そのものを叩きつけるような迫力を持っていた。そのエネルギーは、彼女の演技が単なる演技を超え、キャラクターの本質そのものを映し出しているように感じさせた。
「はははっ、燃え尽きろ、燃え尽きろ!! 煉獄の炎に包まれ、絶望の中で悶え苦しむがいい! 我が焦熱の剣で、貴様らの命を一片残らず焼き尽くしてやる!!」
振り下ろす剣のたびに、空気が引き裂かれるような音が響き渡り、その迫力はまるで舞台の空間を切り裂いてしまうかのようだった。彼女の演技には無邪気な笑顔と残酷な意志が同居しており、その内なる焦熱と狂気が舞台上に渦巻いているかのようだった。
明はサランの感情を全身で表現し、その演技によってサランというキャラクターの恐怖と狂気が真実味を帯びて感じられるほどだった。
特にウォルターとサランが対峙するシーンでは、舞台上に強烈な緊張感が漂っていた。茉凜と明、二人が互いに激しくぶつかり合い、その迫力は見る者の息を呑ませるほどだった。
サランの挑戦的な叫び声と激しい動きは炎のように猛烈で、ウォルターもそれに呼応するように闘志を燃やす。茉凜の強固な意志と明の燃え盛る情熱が鎬を削るドラマは、まるで二つの異なる力が激しくぶつかり合う壮絶な戦いのようだった。
二人の化学反応と相乗効果は、おそらく彼女たち自身の思いをぶつけ合うことで自然に生まれていたのかもしれなかった。それぞれの演技が、互いに影響を与え合い、舞台上での存在感を一層引き立てていた。
そして、私は完全にメイヴィスそのものになりきっていた。演技に入る瞬間、私の中で自然にスイッチが切り替わり、弓鶴としての顔は完全に消え去っていた。メイヴィスの感情や思いが、私の中に自然と宿り、私自身が彼女の存在そのものとなっていった。
その瞬間、私は本来の自分をメイヴィスに重ね合わせることで、彼女の想いを自分のものとして感じていた。メイヴィスが抱く喜びや葛藤や、彼女の内なる痛みや希望が、私の感情と一体化し、演技を通して伝えるべきメッセージとなっていった。私の中でメイヴィスが生き、彼女の全てが私の一部となった。
メイヴィスとして舞台に立つ瞬間、私の心は彼女の葛藤と運命の重さを全身で受け止めていた。彼女の心の奥底に秘められた苦悩と恋心、その二つの感情が交錯する中で、私はまるで彼女の一部となり、彼女の痛みと喜びを自らのものとして体感していた。
メイヴィスの瞳を通して見える世界、彼女が抱える深い悩みや希望、そして彼女の決意が私の中に色濃く染み渡っていた。彼女の心の奥底から湧き上がる感情が、私の体験と融合し、舞台上での表現に深みを与えていた。
稽古が進むにつれて、メイヴィスの感情は私の中でさらに深まり、その複雑さと繊細さが一層際立っていった。私は単なる役者ではなく、メイヴィスという一人の少女の心と身体を共有する存在となり、彼女の内なる世界をリアルに感じ取ることで、役柄の本質に迫っていた。
そのような状態で演技に挑むことは、私自身の心を裸にするような感覚があった。泉の巫女メイヴィスの内面を掘り下げることは、深淵の巫女であった自分自身と向き合うことでもあり、彼女の苦悩や喜びを通じて、自らの存在意義や本当の自分を見つめ直すことでもあった。私の中で彼女の声が響くと同時に、自分自身の内なる声も明確に聞こえてきた。
それはまるで心の深淵に潜む自分と対峙する辛い旅路のようでもあった。しかし、その旅路の終わりには必ず『その瞬間』が待っていると信じていた。
◇ ◇
高岸が私たちを起用しようと考えた理由について、ずっと気になっていた。彼女が私たちのどこを見て判断したのか、その真意が掴めなかったからだ。
私たちの出自や背景について知っているとは思えなかったし、彼女が本当に私たちの内面に触れられる力を持っているのか、考えれば考えるほど疑問が膨らんでいった。
好奇心に駆られて、ある日彼女にその理由を尋ねてみた。高岸は少し照れたように笑いながら、こう答えた。
「直感的なもので、ただの感覚的なものに過ぎないかもしれないけど」と前置きしながら、彼女は続けた。
「君たちが持つ独特な雰囲気や、内面から溢れ出てくるようなものが、他の同年代の生徒たちとは、どこか違う。そんな感じがしたんだ」
その言葉は曖昧で具体性に欠けていたが、高岸の瞳には確固たる信念が宿っていた。そして彼女はさらに続けた。
「私たちは誰もが、生きるために仮面をつけている。役割を演じながらも、その内側には色々な思いを抱えている。でも私は、その奥にある感情や願いを見るのが好きなんだ。それがどす黒い情念であれば、なおさら興味をそそられる」
その瞬間、私の心に驚きと戸惑いが広がった。
普段、少し強引すぎるようにも見える高岸のこの時の表情は、普段の姿とはまったく異なる深い思索に満ちていた。その言葉の奥に潜む彼女の感受性と洞察力が、私たちを特別な存在として見ていたことが明らかになり、私の中で一つの確信が生まれた。高岸が私たちを選んだのは、単なる直感以上のものがあったからなのだと。
「じゃあ、男の俺をヒロインに選んだのはどうしてだ?」と、私はさらに問いかけた。
高岸は少し考え込みながらも、優しく微笑んで言った。
「最初はもちろん見た目からだったのは否定しない。でも観察していると、君だけは何かこう、他の誰よりも格段に普通じゃないって思ったんだよね。それと稽古を始めてからわかったんだけど、揺らぎというか、多面性や複雑さが感じられて、その正体が何なのか私にもさっぱり分からない。底が知れないっていうかね」
「おいおい。俺は何か、化け物か?」と、私は冗談めかして言ったが、心の奥には少しだけ不安が芽生えていた。
高岸は、その冗談に対しても、また微笑みながら答えた。
「いや、化け物なんてとんでもない。君が持っているのは、まるで海の底に眠る宝石みたい輝きかな。見た目だけでなく、それとその内面に隠された深さや複雑さが、私にとって非常に興味深いんだ。演技の中でそれがどう表現されるのか、楽しみにしているよ」
私は高岸の言葉に唖然とした。輝きなどとうに消え失せたと思っていたし、悲しみの涙だけが私の全てだと思い込んでいたからだ。驚きが私を包み込んでいた。
彼女はただの表面的な演技を求めているわけではなく、私たちの内面に潜む本質、感情、そのすべてを舞台に引き出そうとしていたのだ。彼女が求めていたのは、私たちが自分自身と向き合い、心の奥に隠された複雑さや深さをさらけ出すことだった。
「男性であろうと女性であろうと関係ないんだよ」と言われた時、戸惑いを覚えたが、同時にその言葉には少し救われた気がした。性別や既成概念に縛られない演技、それ自体が新たな挑戦であり、自分の中に秘められた可能性を探る機会でもあった。
高岸の信頼が、私たち全員の中に少しずつ自信を芽生えさせていった。私もその一員として、彼女の期待に応えたいという気持ちが膨らんでいく。
私たちが舞台でどのように自分を表現し、観客に何を届けるのか。その瞬間が訪れるのを待ちわびると同時に、自分の奥底に潜むものを曝け出すことへの恐れが、心の片隅に残っていた。それでも、今はその恐怖さえも、演技を通じて新たな自分を見つけるための旅路の一部であると感じていた。
◇ ◇
だが、まだ一つ大きな問題が残っていた。高岸はその一点で、長い間頭を悩ませ続けていた。
「うーん……。どうしてもイメージ通りにいかないなぁ。こればかりは、私一人ではどう表現すればいいのか分からない」
彼女が思い詰めていたのは、第一幕と第五幕でメイヴィスが見せる【舞】のシーンだった。
それは、メイヴィスが精霊の井戸と呼ばれる泉と繋がる儀式の場面であり、観客の心を一瞬にして引き込む、物語の核心を成す重要なシーンだった。
この場面で要求されるのは、静寂の中に潜む神秘性、そして荘厳さの中に宿命と悲しみが滲み出る、非常に高度な振り付けだった。その舞は、ただの演技ではなく、メイヴィスが抱える運命そのものを具現化しなければならなかった。
そのため、振り付けの進行は難航していた。高岸がこの舞に込める思いは並々ならぬもので、どうしても成功させたいという強い決意が彼女の表情にも表れていた。どんなに時間がかかろうと、妥協は許されなかった。
彼女はダンス部や日舞の経験者にも相談を持ちかけたが、幻想的な世界観やファンタジーの要素を含む舞は、現実的な舞踏のイメージとはかけ離れていた。伝統的な動きや技術は素晴らしいが、それではメイヴィスが感じる神秘や宿命、儀式の荘厳さを表現するには不十分だった。
問題は、技術ではなかった。彼女が求めていたのは、舞の背後にある「情感」や「雰囲気」をどう具現化するか、観客に見せるだけでなく、感じさせることだった。メイヴィスの心に秘められた悲しみや、彼女を取り巻く運命を表現するには、ただの動きではなく、内面から滲み出る何かが必要だったのだ。
高岸の言葉に耳を傾けながら、私は彼女が抱える苦悩の重さを痛感した。彼女にとってメイヴィスの舞は、ただの演技の一部ではなく、物語の核心を象徴する重要な表現であり、メイヴィスの内面そのものだった。もしこの舞が失敗すれば、メイヴィスの悲しみや宿命が観客に伝わらず、物語そのものが色褪せてしまうという強い恐れが彼女にはあった。
「これをうまく表現できなければ、メイヴィスの物語が全て台無しになる…」と、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。その声には焦りと苛立ちが混ざり、舞にかける彼女の想いの深さが伝わってきた。
私はその姿を見て、心の中で決意を固めた。このままでは、彼女の理想を実現することはできない。だけど、もしかしたら私にできることがあるかもしれない。メイヴィスの宿命や悲しみを表現するには、私自身の内面をさらけ出すしかない――それが唯一の道だと感じた。
その瞬間、私の胸に浮かんだのは、長年自分の中に秘めてきた感情や思いだった。それを舞に込めることができれば、高岸の求める「深み」や「複雑さ」を表現できるかもしれない。しかし、それは同時に、私自身の心の傷をさらけ出すリスクを伴っていた。
私は深く息を吸い込み、心を決めた。高岸に向かって歩み寄り、静かに、しかし確固たる声で言った。
「高岸さん、俺にできることがあるかもしれない」
高岸は私の言葉に驚き、目を見開いた。
「君に? 何かアイデアがあるの?」
「実は、舞のシーンで伝えてみたい感情があって、俺が持っているイメージが、もしかしたら必要な要素を引き出すヒントになるかもしれない」
高岸は少し考え込み、目に希望の光を宿して私を見つめた。
「君がそこまで言うなら、一度試してみる価値はあるかもしれないね。で、具体的には?」
私はしばらく考えた後、決心して答えた。
「一度即興で舞ってみよう。それを見てから判断してくれ」
高岸の視線を感じながら、私は稽古場の中央に歩み出た。これから舞うのは、私が心の奥底で大切にしてきたものだった。
それは柚羽家に代々伝わる神聖な舞――深淵の始まりの回廊で、根源と対話する過程で奉納される舞で、私は母からそれを継承していた。
この舞をここで再現することは、自分の最も深い部分をさらけ出すことでもあった。人前でそれを披露するのは初めてだが、この舞の持つ神秘的で重厚な感情が、メイヴィスの悲しみや宿命を表現する助けになると信じていた。
私は大きく息を吸い込み、心を鎮めた。そして、母の言葉を思い出す。
「よく覚えておいて。この舞は、私たち深淵の血族の思いや願いを、根源の欠片に届けるためのものなのよ。いつも眠ってばかりいる“彼女”を目覚めさせるためのね」
その言葉を胸に、私は静かに立ち上がり、ゆっくりと息を吐いた。
心の中にある感情を整理し、静けさと集中を保ちながら、手を優雅に広げる。その動きは、まるで水面に浮かぶ波紋のように繊細で、体全体が感情の流れに合わせて揺れる。
舞の始まりとともに、私の身体が自然に、流れるように動き出す。
私の感情は、静かな水面に映る月光のように穏やかでありながらも深く、悲しみや苦しみ、喜びや希望が、まるで泉の水が静かに流れるようにして、舞踏に反映されていった。
舞は、まるで古の精霊たちが私を導くかのように流れ、私の身体と心が一体となって、深淵の歴史を語り継いでいた。
その動きの中には、過去の記憶が交錯し、愛する人々との時間が心の中で鮮やかに息を吹き返す。母の温かい微笑みが、私の動きの一つ一つに宿り、家族との暖かなひとときが舞いのリズムとなって私の足取りを支えていた。
舞踏の中で私は、心の奥深くに潜む悲しみと喜びを見つめ、それを空間に解き放っていった。その感情は、まるで水面に落ちた滴が広がるように、私の動きの中で織りなされ、観る者の心に静かな波紋を広げる。
私の手が描く優雅な弧は、目に見えない風を優しく操るようで、私の足が床に触れるその音すら、心の奥深くの感情と響き合っているかのようだった。
舞踏の終わりには、私は一瞬の静寂に包まれ、自身の内なる葛藤と対話していた。
その瞬間、私はただの人間ではなく、精霊と共に踊る一体となった存在として、深淵の物語を語り続けるために、全身でその感情と向き合いながら、ひとときの魔法に浸っていた。