第64話 開いた扉の先で
文字数 5,447文字
ウォルターとメイヴィスにとって、この瞬間は希望の旅立ちであり、新たな未来への出発を意味する。しかし、私には、この場面が心の奥深くでの決別を意味している。間もなく訪れる自分の消失と、茉凜への未練が交錯するこの瞬間、私はその感情を一つ一つ噛みしめながらも、心の中で火山が噴火するような激しい感情に押しつぶされそうになっていた。
劇が進むにつれて、これまで曖昧だった茉凜への思いが、私の心の中で次第に形を成し、まるで嵐が私を襲うかのように、感情が抑えきれないほど溢れ出していた。そして、最後の最後で私はメイヴィスから離れ、自分の本当の気持ちと心からの願いを自覚してしまった。
彼女の唇に触れることで、私の中の深い感情が一気に現実のものとなった。一方通行の無理やりの触れ合いだったけれど、その瞬間、私の心には強烈な痛みとともに強く刻まれた。心の奥底で抑えきれない激情が爆発し、涙とともに激しい感情が流れ出した。
これで、私の心の中の茉凜への思いはすっかりはっきりとしてしまった。後悔や未練が心に渦巻く中で、私は自分を無理に納得させようとしていたが、それは虚しく、心の中で痛みが深まるばかりだった。
私の物語が終わりを迎えるとき、茉凜が抱いているだろう感情もまた、過去の一部として静かに収束していくだろうと思っていた。しかし、現実には、感情の波に飲まれてただ耐えるしかなかった。
舞台の光の中で、ウォルターとメイヴィスの旅立ちを見守りながら、自分の中の感情と向き合う準備が整ったはずだった。茉凜への思いが消えることはないけれど、それでも私は目的に向かって進まなければならないという決意を固めようとしていた。
そのつもりだったのに……。
なぜだろう、どうしても涙が止まらない。私はもっと強い人間だと思っていたのに、こんなにも弱くて、悲しみと悔しさに押しつぶされている自分が信じられず、涙を流すたびに、心の中で何かが崩れ落ちていくのを感じていた。私の中の強さや決意が、こんなにも脆いものであるとは思いもしなかった。
茉凜への思いが、こんなにも私の心に深く刻まれている。それを痛感するばかりで、どうしても収められない感情が私を引き裂いていた。私は、この先に待ち受けている茉凜とのお別れに向けて強くなりたかった。この演劇を通して、自分の中の未練や後悔が整理されると思っていた。でも、現実には涙とともに溢れ出る感情が私を包み込み、その重さにただひたすら耐えているだけだった。
こんな泣き虫が私の本当の姿なのか。涙が止まらない自分を受け入れながら、私はまだ前に進む力を探して迷っている。
観客の万雷の拍手や声援も、まるで遠くから聞こえてくるようで、焦りと絶望に苛まれながら舞台袖へと逃げ込みたかった。そして、その瞬間、茉凜の顔を見ることができなかった。彼女の口から何が出てくるかを考えると、身もすくむような恐怖と共に、心の中で再び感情の嵐が巻き起こっていた。
舞台袖に入ると、ようやく息をつくことができた。身体には今まで味わったことのない疲労感が押し寄せ、立っていることさえ難しく、ふらついてしまった。そんな私を、茉凜はそっと支えてくれた。
「だいじょうぶ? 弓鶴くん、がんばったもんね」
彼女の言葉は、私の心にしみわたる温かさをもたらしたが、同時に信じられない思いが湧き上がってきた。
「どうしてあんなことをしたの?」とか「どうしてキスなんか?」と訊かれると思っていたから。私の突然の行動に、彼女がどれほど動揺しているかと想像していたのに、彼女は私を気遣ってくれたのだ。
「どうして……」
私は小さく呟いた。その声は自分でもよく分からないほど震えていた。
「ん? なにか?どうかした?」
茉凜は私を覗き込むように言った。こわごわと顔を向けると、そこにはいつもの、いや、いつも以上に穏やかな茉凜の微笑みがあり、私を包み込んでくれていた。その笑顔は、私の心に深い温もりをもたらし、私の感情を一層混乱させた。
「どうして……」
また同じ言葉が漏れた。胸がどんどん熱くなり、涙が溢れて止まらなかった。その笑顔が嬉しくて、すぐにでも彼女の胸に飛び込みたくなるほどで、その衝動が私を圧倒していた。どうして、こんなにも茉凜の存在が私の心に深く根を下ろしているのか、私自身理解しきれなかった。
「ごめんなさい!!」
その瞬間、私は咄嗟に走り出していた。まるで時間切れを迎えて舞踏会から逃げ出すシンデレラのように、ただ必死に。茉凜の優しい言葉と微笑みが、私の中で暴れ狂う感情を引き裂くように感じられ、逃げることでその混乱から解放されようとしていた。しかし、どこへ逃げてもその心の痛みは消えず、ただ必死に走り続けるしかなかった。
◇ ◇
私は脇目も振らずに走り続けていた。学園祭の喧騒の中、人々が行き交う中をただひたすらに。茉凜から逃げることだけに集中していて、周りにいる人々の存在などまるで気にならなかった。もしこの中に刺客が紛れ込んでいたら、という考えすら浮かばなかった。ただ、彼女から逃げることが全てだった。
緑色の長い髪が風になびき、白いドレスがひらひらと揺れるその姿が、人々の視線を一瞬で集めた。だけど、それさえも私にはどうでもよかった。今の私の顔を茉凜に見られるのが、ただひたすらに嫌だった。彼女にどう答えたらいいかわからなかったから、それがただ恐ろしかった。
気づけば、校庭のはずれにある目立たない場所、いつもの木の前に立っていた。ここは、茉凜やみんなとお昼にお弁当を食べる日常の場所。時々、彼女の厚意に甘えて膝枕をしてもらったこともあったりして、ここで二人っきりで話すことが、私にとってとても幸せな時間だった。
息が荒く、胸が痛む。それ以上に心が苦しくて、私は太い木の幹に頭をつけてただ泣き続けていた。
「やっぱり、ここに来てしまうんだ……」
そんな言葉とともに、手のひらで涙を拭い、木の感触を確かめるように抱きしめた。胸の奥で心が痛み、涙が止まらなくなる。けれど、何もする気力が湧かない。
「私はどうしたらいいの?」
自然と漏れた言葉が、涙に溶け込んで消えていく。周囲の喧騒も、今の私にはまるで関係がない。
メイヴィスとしての役柄に完全に没頭し、自分には決して訪れることのないハッピーエンドを迎えるという一時の夢。それだけで満足できるはずだったのに、終わりの瞬間に私は美鶴としての自分に戻ってしまった。
茉凜への想いを抑えきれなかった自分が、どうしようもなく情けない。なんて馬鹿なのだろう。それだけは絶対に駄目なことだと分かっていたのに。彼女だって「今のままでいい」と自分の気持ちを押し殺しているというのに。
私が逃げてこうして涙を流している間にも、彼女はただ静かに気持ちを押し込めているのに。そんな彼女の優しさに対して、私の心はただ自分の弱さをさらけ出すばかりだった。
「やっぱりここにいたんだ」
茉凜の声がして、私は自分は愚かだと思った。彼女がここに来ることなど分かりきっていたはずなのに。逃げ場など無いと理解しながらも、それでも彼女にはここに来てほしくなかった。
「こないでっ!!」
私の声は完全にメイヴィスの役柄、いや美鶴そのままで、制御不能になっていることに気づいた。大切なはずの氷の王子様の仮面がどこを探しても見つからない。それは、私自身と私が抱く願望がなさしめたことなのか。そんな自分が恐ろしかった。
茉凜は私の全力の拒絶に対しても怯むことなく近づいてきた。その足音の一つ一つが、私を震えさせた。
「お願いだから、来ないで……あっちにいって……」
精一杯の懇願だった。しかし、彼女はそれを許さなかった。
「だめだよ……」
そう言って、茉凜は私を背後から優しく抱きしめてくれた。
ふわりと漂う彼女の髪の香りが私を包み込み、心が引き寄せられてしまう。
「いやだ、いやだ」と必死に首を振って抗っても、彼女は私を離そうとはしなかった。
その温もりと優しさが私の内面に深く浸透し、涙が止まらなかった。力強い抱擁は、私が心の奥底で求めていたものだった。混乱していた心が少しずつ静まり始め、安心感が広がる一方で、その安堵は逆に、胸の奥に新たな苦しみを呼び覚ましていた。
こんなこと、許されていいわけがない。
彼女の温もりがこれほどまでに心地よいのに、どうしても素直に受け入れることができない自分が、たまらなく辛かった。
「離して……」
「だめ、放ってなんておけないよ。今離しちゃったら、あなたどこにいっちゃうかわからない気がするもん」
茉凜の言葉が私の心に刺さる。彼女の言う通り、私自身、糸の切れた凧のように、どこに行ってしまうのか、本当にわからなくなっていた。
「きっと役に入り込みすぎちゃったんだね……だから今は頭の中が混乱しているだけ。でも、それってすごいことだよ、普通の人にはなかなかできないことだもん」
彼女の言葉には、私を励まそうとする優しさが込められている。しかし、私の心の中では、彼女に対して申し訳ない気持ちが渦巻いていた。
「ごめんなさい……あんなことしちゃって……」
ただお詫びしたくてたまらなかった。茉凜が私の暴挙を受け入れてくれたことはありがたいけれど、それでも私の心は重苦しく、彼女の期待を裏切ってしまった罪悪感が消えない。
「ああ、あれかー……。さすがにちょっとびっくりしちゃったかな……。でも、クライマックスのメイヴィスの気持ちだったら、そうしてもおかしないかなって思ったから、無問題だよ」
茉凜の冷静な対応に救われた気がした。彼女はメイヴィスを演じる私に寄り添い、私の行動を受け入れてくれていた。その優しさに胸が締め付けられる。
「ただ、ちょっと残念な気持ちはあるかな……。役の上とはいっても、わたしにとって……その……ちゃんとした初めてだったので……」
茉凜の言葉が心に深く刺さった。彼女にとっての大切な瞬間をこんな私が奪ってしまったことが、耐え難い苦しみだった。
「ごめんなさい……」
肩を震わせながら謝罪を繰り返す私に、茉凜は急に慌てたように言った。
「ああ、そんなに謝らなくてもいいから、平気平気。あくまで劇の上でのことなんだから、そんなに気にしない気にしない」
茉凜のその言葉は、優しさに溢れていたのに、私の心は苦しさでいっぱいだった。茉凜が好きなのは弓鶴で、私ではない。それがわかっていながら、私は自分の欲望で彼女の気持ちを踏みにじってしまった。この罪悪感は、どうしても消すことができない。
「劇は大成功だったし、演劇部のみんなもすっごく満足してたから。まあ、観客がなんだか騒がしかったのはアレだけど……でも私たちはやり遂げたんだ。これも、あなたが頑張ったおかげだよ」
泣き続ける私の頭を、茉凜は不自由な左手で優しく撫でてくれた。その触れ合いに、私の心は少しずつ温かく溶けていくような感覚を覚えた。
「……もう、あなたがこんなに泣き虫さんだと、わたしも困っちゃうなぁ」
呆れたように言う彼女の声には、まるで母親や年の離れた姉のような温かさがあった。でも、その彼女の温かさが、私の弱さを一層浮き彫りにしてしまう。こんなにも優しくて、こんなにも理解してくれる茉凜に対して、私は何も返すことができない。それが、さらに涙を止められなくする。
「私は……」
何かを言おうとしても、言葉が詰まり、喉が締め付けられるような感覚に襲われる。どんな言い訳をしても、彼女にはきっと伝わらない、そんな気がしてならなかった。
「弓鶴くん、今はなにも言わなくてもいいよ。ただここにいて、わたしと一緒にいるだけでいいんだ……」
茉凜の声は、まるで心を包み込むように優しく、温かかった。私はただ、何も言わずに頷くだけだった。彼女に抱きしめられながら泣き続けるうちに、私の心は少しずつ解きほぐされていった。
でも、同時に私は理解していた。茉凜の優しさに甘えているだけでは、前に進むことはできないということを。彼女の純粋な愛情に依存してしまえば、私は自分を見失ってしまうかもしれない。それでも、今はもう少しだけ、彼女の温もりの中にいたかった。
「ありがとう、茉凜……」
ようやく口に出せた言葉は、それだけだった。自分に苛立ちを感じながらも、私は彼女に寄りかかるしかなかった。
茉凜は、舞台上で私の本当の姿を見ても、その優しさを崩さなかった。それがただの演じている役柄だと、彼女はそう解釈してくれたのだろう。この瞬間だけは、彼女の優しさに救われた気がした。
けれど、どうあっても覆らない運命は、茉凜との別れが絶対に避けられないということ。それは最初から決まっていたことで、私は彼女に憎まれてでも、この罪を背負って消えていくしかないのだと、深く理解していた。
「落ち着いたら、みんなのところに帰ろうね」
茉凜の声が、私を現実へと引き戻す。彼女は微笑みながら一歩下がり、右手を差し出してくれた。その手の温もりを感じた瞬間、私は涙を拭い、少し躊躇った後、その手を取った。彼女の指先から伝わる温かさが、私の心の傷をそっと癒してくれるようだった。
「ごめんね……」
そう、心の中で呟いた。