第24話 冷酷王子と赤いワンコと黒鶴の誕生
文字数 6,654文字
私は彼女に自分の正体を悟られたくなかったし、その先に何を願っているのかも、一切明かさなかった。今はただ、互いに生き延びるために協力する。それだけが前提の関係だった。
だから、私は彼女には冷たく接することに決めた。守るべき責務だけを心に刻み、彼女とは距離を取り、ただの道具として意識しようと心がけた。感情を交えれば、自分が崩れてしまうのではないかと恐れていたからだ。
彼女が毎日、笑顔で挨拶してくる度に、私は無愛想に最小限の言葉を返すだけだった。それでも、彼女の笑顔は一貫して明るかった。私はそんな彼女が何を考えているのか理解できなかった。
突然面倒なことに巻き込まれて、一方的に望まぬ状況に置かれ、明日には命がないかもしれないというのに。普通に考えて、不安な気持ちで一杯だろうに。どうして彼女はこんなにも純粋な笑顔を保ち続けられるのだろう。
冷たく接する私に対しても、彼女は決して臆することなく近づいてきて、言葉を掛けて微笑みかけてくれる。その笑顔はまるで無限の光を放つ太陽のようで、その温かさが私の心にじわじわと染み込んでいった。彼女の存在が、私の冷徹さに小さなひびを入れ、そのひびが広がっていくのを感じた。
私は本当に、彼女をただの道具として扱い続けることができるのだろうか? 彼女の笑顔に触れるたびに、自分の心が揺らいでいくのを感じ、心の奥底で変わり始めている自分に気づいていた。
でも、私は認めたくはなかった。認めてしまえば、一度作り上げた今の私が崩れていってしまいそうだったから。私は氷の王子様で、目的のためにだけに生きればいい。そう考えていた。その温かさを受け入れることは、私の存在そのものを否定するような気がして恐ろしかった。
◇ ◇
しばらくして、虎洞寺氏の提案で茉凜の歓迎会が開かれることになった。
私は佐藤さんに食材の買い出しに連れ出された。外出にはリスクが伴うが、天の護衛がついていたので、仕方なく従うことにした。なぜか茉凜も一緒で、移動中の車内でも、私たちの間の雰囲気はどこかぎこちないものがあった。
買い物を終え、次の目的地へと向かう最中、突然の出来事が起こった。私と茉凜が二人きりで行動していたとき、背後から猛烈な勢いで一人の少女が抱きついてきたのだ。その行動は、まるで長い間会えなかった飼い主に飛びつく愛らしい犬のようだった。
彼女の名は【真坂
もっとも、それは昔の話で、祖父同士の取り決めに過ぎず、柚羽家の襲撃によってその約束は反故にされていた。それでも明は、弓鶴への気持ちを簡単には諦められなかったのだ。彼女の登場は私にとってまるで重い荷物を背負わされたかのように感じられた。
明は、弓鶴との過去の約束と深い感情を抱えており、その強い思いが彼女の行動に影響を与えているようだった。彼女の無邪気な振る舞いと対照的に、私と茉凜の間には一層の緊張感が漂っていた。
しかし、今の彼女は以前とは何かが違っていた。その違和感の正体は、私の中でなんとなく予感できた。彼女の瞳には、過去の記憶だけでは説明できない、重く沈んだ暗い影が溶け込んでいるように感じられた。
私が彼女と過ごした記憶は、幼い頃に数度柚羽家に来て、弓鶴と一緒に遊ぶ引っ込み思案な女の子というものでしかなかった。今の彼女が持つ強気で押しの強そうなイメージとは、まったく異なっていた。この変化が何を意味するのか、私の心には強い不安が広がっていた。
真凜がその提案を止めようとした瞬間、明の表情が一瞬で豹変し、疑念と怒りが混ざり合った視線が向けられた。瞬間、私の中に寒気が走り、背筋が凍りついた。
「わたしも行く!」と叫ぶ真凜の声が、切迫感に満ちていたが、私はその提案を冷酷に拒絶した。
「加茂野、貴様は俺の道具に過ぎない。いいか、道具風情は持ち主の言うことに黙って従っていろ」
その言葉が真凜の心に深く突き刺さり、彼女は呆然と立ち尽くしていた。その瞬間、私の心は張り裂けそうな痛みで満たされた。彼女の悲しげな瞳を背に、私は
◇ ◇
私たちは明の付き人が運転する車で、海岸沿いの廃ホテルへと向かった。車内は沈黙に包まれ、私は心の中で様々な思いを巡らせていた。
廃ホテルの冷たい空気が私の肌に染み込み、明の鋭い声がその静寂を切り裂いた。彼女の言葉には、ただの懸念ではなく、長年抱え込んだ感情が詰まっていた。深い溜息と共に抑えきれない切実さが滲んでいた。
彼女は私が「深淵の黒」という禁忌の力を手に入れたことをすでに知っていた。そればかりではなく、彼女は上帳が私を抹殺対象に指定しようとしていることも知っていた。彼女の言葉の中に込められたその事実が、私を取り巻く状況の厳しさと深刻さを一層際立たせた。
「あんた馬鹿じゃないの!? 黒はとても危険で制御できないってことくらい知ってるでしょ? 大昔にもいたらしいけど、みんな自滅してるんだよ?」
その私の胸を鋭く貫いた。彼女の焦りが、彼女自身の声を抑えられないほど強まっていた。自分では思いもよらなかったことが、彼女にとっては命に関わる重大なことだったのだ。
「このままじゃ、あんたはきっと死んじゃう。だからお願い、そうなる前に真坂の家に来てほしい。そうしたら、あたしが守ってあげるから」
禁忌対象を匿うなど、背信行為にも等しい。彼女の言葉には、自らのすべてを捧げてもいいという覚悟が感じられた。弓鶴への彼女の思いは、私の想像を遥かに超えていた。弟のことを守りたい、その一心で彼女はここに来たのだ。その気持ちに対して、私はどうしようもなく感謝の念を感じた。
しかし、私はその申し出を受け入れるわけにはいかなかった。
その優しさ、守ろうとする意志は、私にとっては束縛に他ならない。彼女が望む未来は、私の目指しているものとは全く異なるものだった。私は弓鶴を取り戻すために、この力を使う決意をしていた。私の使命は、彼を守ることではなく、彼を取り戻すこと。そのためなら、私はすべてを犠牲にしても構わない。
でも、その本当の理由を、彼女に伝えることはできなかった。彼女の期待を裏切ることがどれほど残酷か、分かっていたからだ。
「どうしてわかってくれないの? あたしはあんたのために、たくさんのものを壊してきたのに!」
彼女は狂ったように私に詰め寄り、その瞳には抑えきれない涙が浮かんでいた。その声には、怒りと痛みが溢れ出していた。その感情の波が、私の心を揺さぶり続けた。
だが、それでも私は動けなかった。彼女の叫びを聞きながらも、ただ黙って、冷たく距離を取ることしかできなかった。
そして、彼女の口から語られた、彼女自身が辿ってきた過酷な道のりを聞くにつれ、その背後にある孤独と悲しみが私の胸を締め付けた。
◇ ◇
柚羽家が何者かに襲撃され、弓鶴が後継者としての資格を失い、外の世界へと追いやられた。その知らせを聞いた明は、どうしても彼を取り戻したいという強い思いから、自らの運命を決意した。真坂家の後継者として立つことで、彼を自分の元に迎え入れることができるかもしれないという一縷の望みにすがりついたのだ。
その根拠となるものは、「力」だった。彼女は自分の中に眠っていた圧倒的な才能に気づいていた。それは兄たちをはるかに凌駕するほどのものであり、その力を糧にして彼女は自らの手で後継者の座を勝ち取るべく、過酷な道を選んだ。
明が「深淵の流儀赤」という禁忌の力を使いこなせるようになったのは、まさに地獄のような日々を生き抜いた証だった。その修練は、肉体と精神の限界を超えたものであり、彼女はその力を磨き続け、やがて兄たちの実力を超えた。しかし、その偉業が評価される一方で、彼女は兄たちからの妬みと憎しみを買うこととなった。彼女の力が、彼らの立場を脅かしたからだ。
ある日、兄たちは修練を装い、明の命を奪おうとした。彼女はその罠を逆手に取り、兄たちを自らが仕掛けた罠に落とし、最終的には自滅へと追い込んだ。彼女が生き残るために、そして目的を果たすために、自らの手で兄たちの命を奪った瞬間が、彼女の暗い過去に刻まれた。
彼女の目に浮かんだ涙を見たとき、その純粋な願いが、深淵の力という呪いによって捻じ曲げられてしまったことが痛ましく思えた。彼女もまた、この呪いがもたらす悲劇の犠牲者だったのだ。私の心は深く揺れ、胸の奥からこみ上げる感情が止まらなかった。気づくと、私も涙をこぼしていた。
「この子は悪い子なんかじゃない。ただ生き方を捻じ曲げられてしまっただけ」
私はそう心の中で呟いていた。
その言葉は私自身への慰めであり、また彼女への切ない思いでもあった。
◇ ◇
その瞬間、突然真凜が現れた。どうしてここに辿り着いたのか、何が彼女をこの場所へ導いたのか、その理由は全く理解できなかった。後で知ったことだが、私の靴に仕込まれていたGPS発信機と、天のチームの連携によって彼女はここに来たのだった。
「来るんじゃない、真凜!!」
私は反射的に彼女の「名前」を叫んでいた。声が虚しく響き渡る中、明の顔が険しく変わり、彼女の目には暴風のような殺意が宿った。
「あんた、弓鶴くんの何なの? 邪魔なのよ! だから死んでよ!」
明の言葉には、深い憎しみと焦燥が混じり、まるで怒りの炎が噴き出しているかのようだった。真凜にとって、彼女はただの障害でしかなく、その存在が明の目的に対する大きな脅威となっていた。
このままでは真凜が命を落としかねない。私は必死に動こうとしたが、明の圧倒的な体術の前に圧倒され、彼女が持つ金属の棒で腹を打たれ、動けなくなってしまった。痛みが体の隅々に広がり、視界がぼやけていった。
苦痛でぼやける視界の中で、私は真凜が明の鋭い剣戟を見事に回避しているのを見た。まるで先読みするかのように、明の攻撃を避けている姿は、私が彼女と初めて出会った時と同じで、彼女が持つ異常過ぎる能力を思い起こさせた。常識的に考えて、三家後継者の攻撃を回避できるはずがないのだ。
しかし、特別な訓練も受けていない真凜には戦う術がなく、ただ必死に逃げ回るばかりだった。
明はその焦りからさらに激昂し、深淵の赤の力を解放した。展開された場裏が金属の棒に絡まりつき、彼女が望むすべてを焼き尽くす焦熱の剣が姿を現した。炎のように燃え上がる剣の光が廃ホテルの暗闇を照らし出し、その熱波が周囲の空気を歪めた。明の顔には、これ以上の無駄な感情を持たず、冷徹な殺意だけが浮かんでいた。
真凜はその猛烈な熱風に、全身を震わせながらも必死に逃げ続けていた。彼女の表情には恐怖と決意が入り混じり、かつての平和な日々の面影はどこにもなかった。
私の中で感情が混ざり合い、どうしようもない切迫感が心を締め付けた。真凜がこのままでは本当にただの道具として終わってしまう。彼女の命が危険にさらされている今、何とかして彼女を救わなければならないという思いが、私の胸に激しく鳴り響いていた。
明の必殺の連続技が繰り出されても、真凜にはかすりもしなかった。けれども、コンクリートの床や柱を砕いて飛び散る破片は、彼女に少なからずダメージを与えていった。私の「もうやめてくれ!」という叫びが虚しく響く中、明はひたすら攻撃を続けた。
しかし、次の瞬間、明は突然動きを止めた。彼女の足が何かに引っかかり、身動きが取れなくなっていた。恐怖と混乱が交錯する中、明の目に映るのは、目の前に広がる粘着の罠の光景だった。
それは罠だった。真凜はただ逃げ回っていたわけではなく、天のメンバーたちが周囲に仕掛けた粘着トラップに、巧妙に誘い込んでいたのだ。私の心臓は高鳴り、状況が一変したことを感じ取っていた。
真凜はその状況を確認すると、すぐに私のもとに駆け寄り、激しく叱責してきた。その声には怒りとともに、私への深い失望が込められていた。
「柚羽くん、わたしはあなたにとって必要な道具なんでしょ? その道具を忘れていくな、この馬鹿っ!!」
彼女の怒りは、私が冷酷な言葉を放ったことではなく、一人で行こうとしたことへの非難だった。真凜の眼差しには、私がどれほど彼女の存在を軽んじていたかを見透かされたような痛みがあった。
その瞬間、私は自分の愚かさを痛感した。彼女を危険に晒したくないという私の思い込みが、実は私の独りよがりであったと気づかされた。私には彼女が必要で、彼女もまた私を必要としていた。その前提を受け入れるしかなかった。
真凜の存在は私にとって不可欠であり、彼女の強さや勇気を見くびっていた自分に、深い後悔と反省が押し寄せてきた。彼女が示してくれたこの気持ちを、どう受け入れ、どう前に進むべきかを考えなければならなかった。
明が罠から抜け出し、狂気のまなざしで私たちに迫ってきた。その目には明らかな狂気が宿り、過剰な力の行使が、術者の精神をどれほど蝕むかを物語っていた。
私は真凜に言った。声は強く、決意を込めて。
「俺は、黒を使ってあいつを止める……」
真凜はその言葉に一瞬の迷いも見せず、微笑みを浮かべながら答えた。
「たとえあなたが暴れたって、きっとわたしが止めてみせる。自信なんてないけど、でも、やるしかない」
彼女の決意の言葉に、私の胸は熱くなった。彼女の信頼と決意が、私の心を奮い立たせ、共に戦う力を与えてくれていた。
私たちは自然に手を取り合い、躊躇うことなく、力を解放していった。それが、私たちの「ふたつで一対の翼」が誕生する瞬間だった。
「力よ、集え……」
私は目を閉じ、深い決意を込めて願った。精霊子を受け入れる器として、私の心はその力を迎え入れる準備が整っていた。
私の意識が鮮やかに覚醒する中で、深淵の闇が私を狂気の淵へと引き込もうとするが、不思議と不安はなかった。
周囲には淡い光の粒が舞い踊っていて、まるで夜空に散りばめられた星々が、私の周りに降り注ぐかのように輝いていたのだ。
その光は、柔らかな白と金色が混じり合い、暗い背景に対して鮮やかに輝きながら、優しく力強く私を包み込み、冷え切った心を溶かしていった。
私を包み込む暖かな流れは、静かな確信と安堵感をもたらしてくれる。その淡い光は、漠然とした夢の中でさえも感じるような柔らかさで、私の内面に温かい感動を呼び起こしていた。
私は光に引き寄せられるように手を伸ばした。すると、光の中から温かく、柔らかな手が伸びてきて、私の手と触れ合った。その手の感触は、深い安心感と穏やかな力を私に伝えてきた。迷いなくその手を取ると、私は深い闇から救われた。
耳にはかすかにささやく風の音と、羽ばたく翼が生む微かな囁きのような音が響き、まるで自然の静かな奏でが私の心を包み込むようだった。その音は、風の柔らかな旋律と羽ばたきの軽やかなリズムが調和し、心の奥深くにまで届いてくる。微かな音は、まるで幻想的な音楽が流れるように心を落ち着け、私を包み込んでいった。
背後に現れた黒い塊だったものは、まるで大きな翼のように広がり、優雅に羽ばたいていた。その翼の先端が揺れるたび、光の細かい粒子が舞い散り、空中に散らばる様子は神秘的で、まるで夜空に輝く星々が瞬くようだった。
光が細やかに煌めき、翼の羽根の間からこぼれ落ちる星屑のように流れていく様子は、まるで夢の中の幻想的な光景で、心の奥に深い感動を呼び起こした。その輝きが私の目に映り込むたび、心は奪われ、その神秘的な美しさに胸が高鳴るのを感じた。
それが、私と真凜が初めて繋がった瞬間だった。力の絆が、私たちの心と身体に強く結びつき、闇に立ち向かうための確固たる決意を抱かせた。