第68話 導き手~茉凜
文字数 6,893文字
「茉凜、大丈夫だから……」と、言葉を紡ぎたかったが、声が喉の奥で詰まった。茉凜の手が、沈んでしまいそうな不安に押しつぶされるように私に伸ばされ、その細い指先が私の服を掴んでいた。彼女の泣き声は幼い頃のように震えていて、それが痛ましくて、何度も私の名前を呼ぶその声に、どうしようもなく切なさが募った。だけど、私は何もできない――ただ、彼女を抱きしめることしかできなかった。
「安心しろ、俺はここにいる」
自分で言ったその言葉が、どれだけ無力かを知っていた。それでも、少しでも彼女の不安を和らげられるのなら……そう願っていたけれど、車内に響く茉凜の泣き声は、私の心に鋭く突き刺さるようで、何も解決していないことを痛感させた。
茉凜の髪が涙で濡れて、私の肩に寄りかかる。その体の温もりが、まるで消えてしまいそうなほどか細く感じられて、私の中に不安が押し寄せる。
彼女がここにいるのは確かなのに、その存在が今にも消え去ってしまうのではないか――そんな恐怖が私を支配し、気づけば私は茉凜をもっと強く抱きしめていた。彼女が私の腕の中にいる限り、どうか彼女を守りたい、その一心だった。
◇ ◇
部屋のベッドに横たわる彼女の姿は、まるで壊れた人形のようだった。虚ろな目で天井を見つめているの彼女、私は胸が押しつぶされそうな気持ちになった。一体何が彼女をここまで追い詰めたのだろうか。
茉凜の顔は、いつも私に向けられていたあの太陽のような笑顔が完全に消え去り、ただ涙の痕が残るだけだった。その顔を見るたび、私の心の中には言葉にできない罪悪感と悲しみが渦巻いていた。私は彼女に何もできなかった。ただ、無力なまま、彼女の苦しみを見ているだけ。今の自分がどれほど無力で情けない存在か、痛感するしかなかった。
彼女が感じている痛みや恐怖に寄り添ってあげたいと心から思うのに、その方法がわからない。それが悔しくて、胸が痛む。
◇ ◇
屋敷に辿り着くと、新城医師を中心とした医療チームが慌ただしく駆けつけ、すぐに診察が始まった。私はその光景を見守りながら、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。
茉凜のか細い声が頭から離れない。彼女が無事であってほしいと願いながらも、今は冷静に状況を見極めなければならない――私がそう自分に言い聞かせていた時、藤堂さんが声を掛けてきた。
「申し訳ない、弓鶴くん。今回の件は完全に我々のミスだ。対人監視にばかり気を取られて、周囲の状況対応が疎かになっていた」
藤堂さんの声には、後悔と自責の念が滲んでいた。しかし、私は彼を責めるつもりなどなかった。首を軽く振って、私は静かに答えた。
「いえ、あの状況は予測できるようなものではありません。それに、もしこれが強硬派の仕業だとすれば、彼らはもはや手段を選ばない段階に入っていると考えた方がいいでしょう」
建設現場で足場が突然崩れ、鉄骨が茉凜たちの上に降ってきた――あまりにも不自然で、あのタイミングは偶然とは到底思えない。何者かが意図的に仕組んだものだとしか考えられなかった。
「そうだな……『深淵の殺しの流儀』からは完全に逸脱している。彼らも焦っているんだろう。どんな手段も厭わない段階に来ていることは明らかだ」
藤堂さんの言葉に、事態の深刻さが一層際立った。私たちはその危機に徐々に引き込まれているのだと痛感した。
「連中は俺に力を使わせることで、最終的に自滅させるつもりだったのでしょう。しかし、その思惑も崩れつつある。解呪が現実味を帯び、彼らが最も恐れる事態が目前に迫っている。だからこそ、今回のような強硬手段に出たのでしょう。周囲の被害をなど顧みることなく……」
私は苦々しい気持ちでその言葉を受け取った。間違いなく、この襲撃は偶然ではなく仕組まれたものだ。私たちを揺さぶり、追い詰めようとする連中の焦りが浮き彫りになっている。藤堂さんもそれを感じ取ったのだろう、深く頷きながら、厳しい目つきで私を見つめた。
「そうだな。今後の警備体制を徹底的に見直す必要がある。それに、君たちの行動も、しばらくは最低限に制限せざるを得ないだろう」
「はい……仕方がありません」
そう答えたものの、心の中に広がる寂しさは抑えきれなかった。茉凜と一緒に、何の心配もなく街を歩ける日常が、今では遠い夢のように感じられてしまう。彼女の笑顔、彼女の存在、そのすべてが私にとってどれほど大切か――そんな平穏が、今や遠く霞んでしまったことに、言いようのない悲しみが胸を占めていた。
◇ ◇
三十分ほど経った頃、新城医師が部屋の扉を静かに開け、私たちに入るよう促した。私は緊張で固くなった体を引きずるように、重たい一歩を踏み出した。
部屋に入ると、茉凜は薬を投与されたのか、静かに眠りについていた。しかし、その眠りはどこか不安定で、安らぎとは程遠いものだった。彼女の顔には、深い疲労と苦悩が色濃く刻まれており、目を閉じているはずの彼女が、今にも悲鳴を上げそうなほど、苦しげな表情を浮かべていた。
私の視線は、点滴のチューブを伝ってポタリポタリと落ちる液体に吸い寄せられる。規則的に落ちるその一滴一滴が、まるで彼女の命を繋ぎとめているかのように思えて、胸が痛く締め付けられた。私の中にある感情は、言葉にならない悲しみと焦燥感が混じり合っていた。
部屋に立ち込める空気は、重く、息苦しさすら感じさせる。言葉を発することさえ憚られるような静けさだった。その静寂を破ったのは、新城医師の冷静な声だった。
「安心していい、彼女は大丈夫だ」
彼の言葉を耳にした瞬間、私は思わず声を震わせた。
「本当ですか? 本当に、茉凜は……大丈夫なんですか?」
私の視線は茉凜の顔に落ちたまま、拳を強く握り締めていた。彼女の無防備な姿に、どうしようもない無力感が押し寄せ、心が揺れ動いていた。
「ああ、血圧が一時的に極端に下がっただけで、命に別状はない。ただ、精神的なショックが大きすぎたようだな。事故の内容は聞いていたが、どんな状況だったのか、もう少し詳しく教えてくれるか?」
新城医師の言葉に、私はその場で足を踏みしめるようにして、再びあの恐ろしい瞬間を思い返した。
彼にできる限りの詳細を伝えると、医師は顎に手を当て、しばらく考え込むように目を細めた。その「うーん……」という低い唸り声が、部屋に漂う沈黙を引き裂いた。まるで、その一言が茉凜の状態に新たな不安を与えるかのように。
「それは……理解に苦しむな。どう考えても説明がつかん」
新城医師の言葉に、私は眉を寄せ、彼の方をじっと見つめた。異常な事態は重々承知だが、それ以上の何かがあるというのだろうか。
「どういう意味ですか?」
私の問いかけに、彼はゆっくりと向き直り、冷静な声で続けた。
「彼女は、事故が発生する前に異常を訴えたんだろう?」
「はい、そうです」
私はその時のことを思い返しながら答えた。茉凜の震える声が、今でも耳の奥でこだまする。
「そして、『つぶされちゃった』と言った」
その言葉が再び蘇る。彼女の顔に浮かんだ恐怖と苦しみが、まるで自分自身に押し寄せてくるようだった。
「はい……確かにそう言いました」
新城医師は一瞬、考え込むように黙り込んだが、すぐに再び口を開いた。
「だが、実際には君は潰されていない。じゃあ、彼女が見ていたものとは何だ? 何も起きていないはずなのに、どうにも辻褄が合わんだろう?」
私はその言葉に胸がざわめき、心臓が早鐘のように打つのを感じた。頭の中に浮かぶのは、あの瞬間、私たちに何が起こっていたのかという疑問だった。
「それって……幻覚ではないでしょうか?」
思わずそう呟いてしまった。けれど、新城医師は皮肉っぽく笑い、疲れた様子で両手を広げた。
「俺は精神科の専門家じゃない。ただ、事実だけが重要だ。彼女が声を上げたおかげで君は立ち止まり、その直後に鉄骨が落ちてきた。これが真実で、実際に起きた事だ」
彼の言葉は冷静で、ただ事実だけを告げるものだった。だが、それがかえって私の心を乱した。思い返せば、茉凜のその言葉がなければ、私は確実にその場を歩き続け、鉄骨に押し潰されていたということだ。
その事実が、冷ややかに私の心を締め付ける。茉凜が見たのは一体何だったのか? あの言葉が、彼女の恐怖だけではなく、現実の危機を警告していたのだとしたら――。
「……彼女が言ったことが、これから起こり得る脅威だったと……?」
自分でも言葉にするのが恐ろしかった。私たちの目の前に起こったこと、そして茉凜が感じたその感覚。それがただの幻覚ではなく、何かもっと根深い真実に結びついているのではないかという考えが、心の中に重くのしかかってきた。
何かが、私たちの知らないところで動き出しているのかもしれない――そんな不安が、私の胸を冷たく覆った。
藤堂さんの静かな声が、緊張した空気をさらに重くした。
「私はその時車を回していて、直接は見ていませんでしたが、メンバーからの報告ではその通りでした。監視カメラの映像でも確認済みです」
彼の証言が加わったことで、私の中に浮かんでいた仮説が現実味を帯びていく。しかし、その答えを口にすることが、何故か恐ろしくて、声が震えた。
「……茉凜はこれから起こることを『見ていた』。つまり、そういうことですか?」
新城医師は小さくため息をつき、少し苛立った様子で答えた。
「ああ、予知とでも言うべきかもしれん。だが正直、オカルトじみていて馬鹿馬鹿しい。くだらんことだ」
彼の言葉には冷淡さがあったが、それでも彼は話を続ける。
「俺はこういう話が大嫌いだ。だが、弓鶴くんの件でもそうだったが、この『深淵』という力には、未知の領域が多すぎる。俺の知識じゃ到底理解できんことばかりだ。腹立たしいが、これが現実だ」
その言葉に、私は俯いて考え込んだ。茉凜が示してきた数々の特異な現象――それが頭の中で渦を巻く。
黒鶴の力が暴走しそうな時、彼女は必ずその力を安全に抑え込んでくれる。それだけではない。茉凜は、血族でもないのに私たちの精神感応に応じ、さらに私の力が作用する領域――場裏をも感じ取ることができる。
そして何よりも、不思議なことがある。絶体絶命の危機に陥った時、彼女の周囲では、まるで奇跡のように何かが起こり、彼女を守ってくれる。茉凜自身が自覚しているかどうかはわからないが、その異常なまでの回避能力は、ただの偶然とは到底思えない。
思い返せば、彼女はいつも私を救ってくれた。そして、今もまた、彼女の予知とも言えるような力が私を守ったのだ。だけど――その力とは一体何なのだろう?
私は知らず知らずのうちに拳を握りしめ、茉凜の穏やかに見える眠りの背後に潜む闇を探るように、彼女の顔をじっと見つめていた。
その時、藤堂さんが私の心の中で渦巻いていた考えを、さらに補強するかのように続けた。
「彼女はこれまで私たちと共に、数々の修羅場をくぐり抜けてきました。その特異性は、我々が何度も確認している通りです。死の淵に追い込まれた時、彼女は信じられないほどの力を発揮します。ただ、その根拠が説明できないのが問題ですが……」
藤堂さんの言葉に、新城医師も深く頷き、重々しい声で口を開いた。
「俺も彼女と何度も話をしてきた。その中で、彼女が打ち明けた話には、あの瀕死の重傷を負った落雷事故がある。あの事故が彼女に強烈なトラウマを残し、死への恐怖を植えつけたのは間違いない。生き延びたいという執念が、普通の人間以上に強いんだろう。その強烈な願望が、あの予知めいた力に繋がっているのかもしれん。しかし、これを科学的に説明するには無理がある。正直なところ、ファンタジーとしか言いようがない」
新城医師の言葉は、一見すると現実離れした話に聞こえる。それでも、私たちが目の当たりにしてきた茉凜の力――それを否定するものではなかった。実際に彼女は、何度も信じられない状況をくぐり抜け、私たちを救ってきた。
私の視線は、静かに眠る茉凜に注がれた。彼女の力は、単なる偶然や本能的な反応ではなく、もっと根深いもののように思えた。もしかすると、彼女の潜在的な恐怖や強い生存欲求が、その力を形作っているのだろうか――それとも、彼女自身がまだ気づいていない、もっと深く隠された理由がそこにあるのだろうか。
「いや、違う……そうじゃない。」
その瞬間、私の頭の中に再びデルワーズの冷たく鋭い声が響き渡った。
可能性はまだ残されている。それはあなたの弟の存在。彼こそが真の適格者。そして、門を通してこちらには私の半身であるマウザーグレイルの一部がやって来ているはず。彼は至るべき場所と時を指し示す羅針盤。それを宿した者こそが導き手と呼ばれる存在。解呪を成し遂げるために絶対不可欠な最後の欠片。その者を探し出し、弟の器と共に来てほしい。そうすればあなたの願いは叶えられる
その言葉が脳裏に鮮明に蘇り、それが私の考えに絡みつくようだった。
「座標と時間を指し示す存在……それが導き手……」
その言葉が自分の口から無意識に漏れた瞬間、自分でも驚いていた。
「どうしたんだ?」
新城医師が怪訝そうに私を見つめ、問いかけた。
「いえ、なんでもありません」
私は慌てて誤魔化すように答えたが、頭の中ではその考えが渦巻き続けていた。茉凜の力は、単なる予知に留まるものではない。彼女の存在には、もっと深い運命的な意味が隠されている――私はそう確信し始めていた。
茉凜が落雷事故で生き延び、私が解呪に失敗した時期が、あまりにも重なりすぎていた。これが偶然ではなく、何か大きな意図に基づくものであるという気がしてならなかった。そして、同じ夢を見て、あの場所に引き寄せられたように、私たちの出会い自体が運命によって定められていたものだと感じた。
“時間”というキーワードが頭の中を巡る。それは単なる未来予知ではなく、もっと大きな時間の流れや転移、過去や未来の出来事に関わっているのかもしれない。もしそうだとすれば、茉凜が垣間見た未来の出来事は、その時間における真実の断片であり、彼女が私たちに示しているものは、私たちの運命そのものだ。
その思いが胸に広がるたびに、心がざわつく。これから訪れるであろう未来の中で、私たちは一体何を成し遂げ、どんな選択を迫られるのだろう――彼女を守りたいという思いと、解呪を成し遂げたいという願望が私の中でせめぎ合っていた。
「マウザーグレイルの一部が茉凜の中に……」
私はその言葉を呟きながら、重い現実をひしひしと感じていた。茉凜はいつも明るく、笑顔で私を励ましてくれるけれど、あの落雷事故で彼女がどれほどの苦しみを抱え、今もその痛みを背負っているかを、私は全く理解できていない。そして、その痛みが彼女の異常な力と繋がっているというのなら、私の願いを叶えることが、茉凜をさらなる危険と恐怖に追い込む可能性だってある。
新城医師は、私の沈んだ表情に気づき、優しく言葉を掛けた。
「彼女が未来の断片を見たのか、それとも何か別の感覚で察知したのかは分からん。ただ、彼女が君を守ったという事実は確かだ。それを忘れるなよ」
「はい……」
その言葉に、私はほんの少しだけ救われた気がした。新城医師は深淵の血族でありながら、その力に対して冷ややかな態度を取っている。その複雑な心情は容易に理解できるものではなかったが、彼の理性的で温かい対応に、私の心は少し安堵した。
「茉凜が、導き手である可能性は、極めて高い……」
その言葉が私の心の奥深くで確信となり、胸の中に切ない感情が広がった。それは嬉しさと同時に、悲しみのような複雑な感情だった。
それは運命に引き裂かれるような気持ちを呼び起こした。胸に押し寄せる罪悪感がさらに深くなった。
大前提として、解呪を成し遂げるためには、まず黒鶴を安定稼働させることが不可欠であり、そのためにも茉凜を始まりの回廊へ連れて行かなければならない。けれど、残された鍵である導き手が見つからない限りは、真の意味での解呪は難しい、と私は決断を先延ばしにしていた。
それが自分に対しての言い訳のように思えてきた。心の中でどこかで、これが免罪符になっていたのだろう。
しかし、茉凜が導き手であることが濃厚になり、立ち止まっている場合ではないと気づいた。弓鶴の体が限界に近づいているという現実が突きつけられ、私の心は決断を迫られていた。
その感覚は、胸の奥に鋭い短剣が突き刺さるような痛みで、私を包み込んでいた。