第44話 どうして?
文字数 4,077文字
心の奥深くで揺らぐその不安定な感情は、私の決意を脅かすものだった。どれほど強い意志を持っても、毎晩のように命の危機を思い出させるその恐怖は、私をさらに追い詰めていた。それでも、私が信じられる唯一の支えが茉凜であることを痛感していた。彼女がいなければ、私の心はすぐに折れてしまっていただろう。彼女の存在が、リスクを犯してでも前に進む決意を支えていたのだ。
茉凜はただのサポートではなく、私の心の支えであり、希望の象徴だった。彼女の笑顔や言葉が、私を鼓舞し、勇気を与えてくれていた。彼女がいなければ、その先に進む意志を持ち続けることはできなかった。
けれど、茉凜がどれほど強くあろうと、この真実が彼女を深く傷つけ、追い詰めるに違いないと思うと、心の中に広がる恐怖の嵐が静まらなかった。もし彼女がこの事実を知ったとき、私たちの間に築かれた信頼や絆が崩れてしまうのではないかと、ただただ恐れていた。そして、今その恐れが現実となり、私は何もできずにただ立ち尽くしていた。
「茉凜……」
震えた声が喉に引っかかり、私自身の無力さをさらけ出しているようだった。その声は、私の心の奥にある暗い沼の底へと引きずり込むような響きを持っていた。
彼女がこんなにも傷ついているのは、すべて私のせいであると分かっていながら、それに対して何もできない自分に対する嫌悪感が、私の心をさらに深い暗闇へと引きずり込んでいった。私はただ茉凜の体が震えるのを見つめることしかできなかった。
その沈黙の中で、茉凜がついに口を開いた。彼女の声はまるで風が通り抜けるように細く、けれど私の胸に深く刺さるようだった。
「どうしてなの……?」
その一言は、まるで刃物のように私の心を抉り取った。彼女の視線が私に向けられ、上目遣いで見つめるその瞳には、深い悲しみと混乱が渦巻いていた。
その視線が私の胸に鈍い痛みを残し、全てが手遅れであると感じていた。焦りと無力感が私を覆い、心の中で闇が広がっていくのを感じながら、私は必死に強がって言葉を絞り出した。
「お前に言う必要があるのか?」
その冷たい一言は、私自身の心の中でさえも冷たく響いた。その瞬間、彼女をさらに傷つけることになると理解するのに、時間はかからなかった。
茉凜の表情はさらに曇り、まるで私の心の奥底を見透かすかのように、寂しげな笑みを浮かべた。
「それって、悲しいね……」
その一言が、私の心を深く切り裂いた。彼女の虚ろな笑顔は、まるで鏡のように私の内なる闇を映し出しているかのようだった。自分の無神経な自己防衛がどれほど彼女を痛めつけたのか、ようやく理解した。
茉凜の冷たい視線が私の心の奥深くまで侵食してきた。その視線が私の胸に冷たい恐怖を刻み込み、次に彼女が口にする言葉が、私の内なる震えを引き起こした。
「ねぇ? あなたにとってわたしってなんなのかな? 相棒? 友達? それとも、やっぱりただの道具なのかな?」
その問いに、私の言葉は絡まり、まるで石のように動けなくなり、どれだけ頑張っても口を開くことができなかった。
「大切な友達、友達だと思っている……」
ようやく発したその言葉も、茉凜の心には届かなかった。彼女は私から目を逸らし、寂しげな表情を浮かべた。その顔には、どこか遠くを見つめるような哀しさが漂っていた。
「友達か……。わたしも、そうなれたらいいなと思ってたし、なれた気がしてた……。でも、それなら、そういう大事なことはちゃんと目を見て言ってほしかったな……」
彼女の言葉とその目の奥に潜む失望感は、私の心にどす黒い影を落とした。彼女が抱いていた期待が一瞬で崩れ去るのを、私は痛感していた。私は彼女の信頼を裏切ったのだ。
私はその場から逃げ出したかった。波の音と夏の陽光が、まるで私の心の苦痛を知らん顔しているように感じられた。
「だまれ……」
私の声は冷たく、無情に響いた。周囲のビーチの明るさと波のさざめきが、対照的に私の内なる冷徹さを一層際立たせた。彼女の痛みを前にして、自分の無力さが一層際立っていくのを感じながら、私はただ一層冷たい自分を露呈させていた。
「弓鶴くん……」
彼女の声が震えていた。彼女の姿がビーチの熱い砂の上でぼやけて、目の前の景色と同化していくように見えた。
「今は何も話したくない」
私の言葉は短く、冷たく、感情を押し殺したように響いた。茉凜の痛みを目の前にして、私は自分の無力さと冷徹さがより一層際立っているのを感じ、彼女に背を向けた。背後の景色が私を包み込む中、私はただ逃げるように歩き出すしかなかった。
「弓鶴くん……わたしは……」
彼女の声が再び私に届こうとしたが、その声は波の音にかき消され、私の背中を冷たく押し付けるようだった。
「帰るぞ……」
その言葉が私の口から放たれた瞬間、もう茉凜と交わす言葉はなく、私の心は深い絶望の底に沈んでいった。岩場からビーチへ向かう足取りは重く、彼女の痛みを引きずりながらも、ただ前に進むことしかできなかった。
心の中では、彼女を守りたいという気持ちと、自分の無力さに対する苛立ちが交錯していた。その感情に押しつぶされるように、ただその場を離れようとする自分を感じながら、足元の岩が不安定に感じられる中で歩き続けた。波の音と陽光が、私の内なる苦悩を無視しているようで、その中で一人ぼっちの自分をさらに際立たせた。
◇ ◇
ホテルの部屋の中で、深い沈黙が広がっていた。
私たちはそれぞれの部屋に閉じ込められ、まるで意図的にお互いを避けるかのように視線を交わさずにいた。
私は無意識のうちに窓辺に向かい、広がる海を見つめていた。海の向こうには水平線が延び、その上に沈む夕日が全てを赤く染め上げていく。美しさに心を奪われるはずなのに、その景色が私にはただの虚しさを呼び起こしていた。
その夕日は、まるで私たちの関係が静かに沈んでいく様を見せつけるかのようだった。夕日の美しさが私の胸を締め付け、言葉にすることもできないほどの深い切なさが広がっていく。何故か、この美しい光景が皮肉に感じられ、私の心をひどく傷つけていた。美しさがこれほどまでに痛みを伴うものになるなんて、どうしてだろう。
食事の時間が近づくと、私は茉凜に声をかけようとスマホを手に取った。しかし、その瞬間、私の指はまるで重りをつけられたかのように止まってしまった。彼女と目を合わせることすら恐ろしいと感じてしまう自分がいた。彼女の澄んだ目に、自分がしてしまったことをどう説明すればいいのか、その答えが全く見つからなかった。
それでも、私は彼女の部屋のドアの前に立っていた。拳を無意識に握りしめ、心の奥で冷たい恐怖と後悔に押しつぶされそうになりながらも、口からは冷たく短い言葉が漏れた。
「夕食だぞ、来い」
その言葉が口から出た瞬間、自分自身の胸に重くのしかかり、その一瞬に私の心が凍りついた。私の本心はその言葉とは裏腹に、彼女への深い気持ちで溢れていた。しかし、その気持ちをどう伝えればいいのか分からず、私はただ言葉を吐き出すだけだった。
部屋からの応答は一切なかった。静寂が私の周囲を包み込み、彼女の無言の拒絶が私の心に深い傷を刻んでいく。食べることが大好きな彼女が、こんなにも無言でいるのは、きっと私のせいなのだろう。私が彼女の笑顔を壊してしまったことを痛感していた。
一人で行く気にもなれず、重い足取りで自分の部屋に戻ると、バルコニーに出て夜の空を見つめた。曇天の空には星のきらめきもほとんど見えず、まるで虚空に包まれているかのようだった。ついこの間まで、二人並んで満天の星を眺めていたのに、それがまるで遠い昔の出来事のように感じられた。
どれだけ時間が経ったのか分からない。思考がまとまらず、ただ茉凜の顔を思い浮かべる。彼女の笑顔はひまわりのように明るく、むすっとした時でさえ可愛らしく、驚くと変な顔をして、いざという時にはとても勇ましく凛々しかった――彼女のさまざまな表情が、今となってはどれも二度と見られないかもしれないと思うと、胸が締め付けられる。
自分の愚かさに対する情けなさが込み上げ、どんなに理由をつけてもそれは薄っぺらい言い訳に過ぎない。私はただの臆病者で、彼女に何も言えなかっただけだ。解呪に伴う真実の先、私の正体に近づかれるのを怖れて、彼女の真摯な姿勢と気持ちを踏みにじってしまったのだ。
壊してしまったものは、もう元には戻らないかもしれない。その現実が胸を締め付け、私の罪と罰が心に深い影を落としている。
ふと視線を下に向けると、ホテルの大きなプールが広がっていた。夜の静けさの中、時折覗く月光が水面に柔らかく反射し、まるで銀色の絨毯が広がっているかのようだった。プールの周囲は照明に照らされた木々や装飾が幻想的な影を作り出し、夜の空気に溶け込んでいる。水面は静かで、時折小さな波紋が広がっていた。その波紋が、不安定な私の心を映しているようだった。
その時、プールサイドに人影を見つけた。それが誰だかすぐに分かった。とても背が高く、すらりとした夏の装いから出ている伸びやかな手脚。彼女は以前の自信に満ちた姿ではなく、今は少し猫背気味で、不安げで自信なさげだった。彼女もまた、以前の彼女に戻ってしまったのかもしれない。
その瞬間、私の中で何かが動いた。それは感じたことのない熱い激情で、私は考えるまでもなく走り出していた。