第36話 場裏獲得
文字数 4,365文字
私の心の奥底から引き絞った叫びは、闇の深淵を揺るがすほどの力を込めて響き渡った。その瞬間、黒鶴が応え、私の感情の堤が決壊したかのように溢れ出し、理性は次第に薄れていく。まるで闇が私を抱きしめるように降り注ぎ、視界が柔らかな黒に包まれていった。
足元が消え、私の意識は漂流する小舟のように宙ぶらりんとなる。不安と恐怖が瞬く間に押し寄せ、心の中で怒りや憎しみが沸き起こり、何かが千々に乱れていく感覚が広がる。
万華鏡のように、次々と色とりどりの感情が渦巻き、一つ一つが私を飲み込み、激しく揺さぶった。恐怖に押し潰されそうになる中、燃えるような怒りが内側から沸き上がり、体中を駆け巡る熱が理性を焼き尽くそうとしている。
その怒りの嵐は、私の最も深いところまで達し、理性の糸を一本一本断ち切り始めた。感情の波に翻弄され、ついには何かが壊れてしまいそうになる。
そして、次の瞬間、世界が鮮明に見え始めた。だが、それは私が深淵に飲み込まれ、溶けていく前触れだった。背筋に冷たい汗が流れ、心はもはや私のものではなく、何か得体の知れないものが私を支配し始めているのが分かる。
その支配に抗おうとするも、揺れ動く感情に振り回され、逃げ出したい衝動と、それができない恐怖が私の胸を締めつける。もがくほど、さらに深い闇へと引きずり込まれていくような感覚が広がった。
しかし、その時、手のひらに伝わる微かな温もりを感じた。それはまるで、私を闇から引き戻すための細い糸のような感覚だった。嵐の中で、唯一現実に繋ぎ止めてくれるその温かさが、かろうじて私を支えている。
指先から伝わるその温もりは、ただの感覚ではなかった。それは、真凜の強い思い、私を救いたいという一途な願いが形を成したものであり、その思いだけが私を現実に繋ぎ止めてくれている。
彼女の思いが、闇に溺れそうな私を優しく包み込み、絶望の中でもがいていた心をそっと支えてくれる。何度もその温もりに触れるたび、私は自分を取り戻し、感情の嵐が少しずつ静まっていくのを感じた。
真凜の存在が、崩れかけた私の心を癒し、深い闇の中に光を灯してくれる。そして、その光は私が見失いかけた自分を再び引き戻してくれるのだ。
今、私は手を伸ばし、闇の底からその光を掴む。
戦う力を得るために、深淵の術者として、事象変換領域「場裏」を手に入れなければならない。それが、私たちの未来を切り開く鍵となる。
だが、心の奥底で私は震えていた。
この一歩を踏み出せば、もう以前の自分には戻れないのではないかという恐怖が、私を締めつける。場裏の力はあまりにも圧倒的で、それに飲み込まれ、自分自身を見失ってしまうのではないか。さらに恐ろしいのは、その力で誰かを傷つけてしまうこと──もしも、真凜を悲しませ、彼女を苦しめてしまったら──その思いが頭をよぎり、私はその場で動けなくなっていた。
恐怖に押しつぶされ、私はただ震えながら立ち尽くしていた。未来へ進む道が霧に覆われ、心の中で葛藤が渦を巻く。進めば、もう過去の私に戻れない。そんな不安が私の中で冷たく響きわたり、私の足をすくませていた。
その時、背後から温かな気配が私に触れた。
真凜が、そっと私を抱きしめてくれていたのだ。
彼女の抱擁は、春の日差しのように穏やかで、その髪から漂う柔らかい甘い香りが、私の感覚をやわらかく包み込む。真凜の温もりが、私の凍えた心をゆっくりと溶かし、安心感が胸の中に広がっていく。
「大丈夫、怖くないよ。だって、私はここにいるんだから。一緒に行こう、ね?」
彼女の優しい囁きが、暗闇に沈みかけていた私の心に一筋の光を灯してくれた。その言葉と優しい抱擁に、私はどれだけ救われたことか。
その瞬間、私は彼女の存在がどれだけ私を支えてくれているかを強く実感していた。恐怖で押しつぶされそうだった私の心に、小さな勇気が芽生え、少しずつ、前へと進む力を取り戻していく。
私たちが共に進む道は、暗闇の中でもかすかな光に包まれ始めていた。手と手を重ねながら、私は彼女と共に一歩を踏み出す決意を固めた。
そして、私たちは手を繋いだまま、闇の底にその手を潜りこませた。その瞬間、目の前に真っ白な光が広がり、私は目を閉じた。
◇ ◇
次に目を開けた時、私を包んでいたのは、懐かしくも穏やかな情景だった。
柔らかな陽の光が畳の部屋に差し込み、窓から見える森は緑の香りに満ちている。ここは私が幼い頃を過ごした、山奥の静かな家。私は畳の上に座り、目の前に置かれた一枚の真っ白な画用紙を見つめていた。
その純白の紙は、まるで私の心そのものを映し出すかのように静かに佇んでいる。心の奥底から、何かを描きたいという衝動が少しずつ広がっていくのを感じた。
私はそっと赤色のクレヨンを手に取り、紙の上に描き始めた。その瞬間、クレヨンの赤は白い紙の上で鮮やかに燃え上がり、まるで生きた炎のように躍動した。
広がる真紅の炎は、まるで命を宿したかのように勢いよく舞い上がる――燃やせ、燃やせ、すべてを飲み込み、断ち切ってしまえ、と言わんばかりに。
「なぜこんなものを描いているのだろう……」と、心の片隅で私は思った。しかし、その一方で、これは今の私の願い、私が見たい光景だという確信が胸に湧いてきた。
その時、背後から優しい声が耳元に届いた。
「それがあなたの望みなのね? なら、私たちがその願いを叶えてあげる。それが、私たちの繋がりの証だから」
その声は、真凜のものではなかった。かつて母さまが囁いてくれた声とも違う。私は誰なのか確かめたくて振り返った。
そこには虹色に輝く、まばゆい光があった。その光は柔らかく揺れながら、まるで私を包み込むようにして優しく輝いていた。
「あなたは、心の赴くままに願えばいい。私たちが、その願いを受けて、それを形にしてあげる」
その言葉は、まるで春の風のように心地よく、私の内側に染み渡った。その光は私の心をそっと照らし、長らく押し込めていた感情を一つ一つ解き放つかのようだった。
私は静かに目を閉じ、その光の中で、自分の中にある理解が自然と浮かび上がってくるのを感じた。すべてが驚くほどシンプルに思えた。
願いを込めることで、それが形となる。それが精霊子の集積が生み出す疑似精霊体と私との繋がりがもたらすものだと、私は気づいた。
精霊たちは私の心の声を受け取り、それを力に変えて「場裏」を作り上げる。場裏は私の願望を具現化し、現実として広がっていく。ただそれだけのこと。私の心の願いが、世界に形を持つということ。
私はすべての仕組みを理解し、これからの自分がどう歩んでいくべきか、しっかりと見据えることができた。
◇ ◇
「いくぞ! アキラ下がれっ!!」
私が呼びかけると、明は素早く後退して私たちの背後に回った。
その瞬間、私の思い描いたイメージが一気に展開され、柔らかな薄い白い繭のドームが広がり、私たちを包み込んだ。それは曽良木の場裏の規模を大きく上回り、まるで私自身の内面が具現化されたように感じられた。
その巨大な百メートルの繭を目の当たりにした曽良木の顔が、見る見るうちに蒼白になっていくのがわかった。
次いで燃え盛る紅蓮の巨大な炎が私たちと曽良木の間に立ち上がった。炎の壁は、まるで私の心の奥底に潜む感情の奔流が具現化されたかのように激しく、熱を帯びて燃え上がっていた。
その向こうで曽良木が叫び声を上げているのが、ぼんやりと聞こえた。
炎の煌めきに目を奪われながら、私の心は奇妙な興奮と高揚感に包まれていった。まるで破壊の衝動に飲み込まれ、力の奔流に身を委ねているかのように感じた。
この力は、私が本来持つべきものではないと知りつつも、その圧倒的な力に酔ってしまっている自分がいた。黒という規格外の力を手にしたことの重さ、その反動が私の中で渦巻いていたのだ。
それでも、私は力を得たという事実に安堵していた。
この力があれば、どんな敵でも払い除けることができる。私が何より大切にしている真凜を守ることができる。それが私の唯一の救いであり、繋ぎとめているものだった。
◇ ◇
立ち上る炎が徐々に収まり、視界がクリアになると、そこには曽良木の姿はもう無かった。焦げた大地だけがその場に残り、彼が無事に逃れたことを悟った私は、胸の中に張り詰めていた緊張がふっと緩み、安堵のため息が自然と漏れた。
視線を横にずらすと、そこに真凜が立っていた。彼女の顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。その笑顔に、私の心の奥深くにほんのりとした温もりが広がっていくのを感じた。
「よかった、弓鶴くん。わたしにもなんとなくわかったよ。あなたが描いているものが」
真凜の優しい視線と声に、頬に微かな熱がさすのを感じた。彼女が私の心の奥底を見透かしているようで、少しだけ恥ずかしく思えた。でも、その感覚は決して不快ではなく、むしろ心の中で静かな喜びが広がっていくのを感じた。ずっと守るべき存在だと思っていた真凜が、今は一緒に戦うために力を合わせていることが、何よりも嬉しかった。
その束の間の安堵感は、明の冷たい視線によって打ち消されてしまった。彼女の視線は、まるで氷のように冷たかった。
「今のは流儀赤ね……。なんとなくわかってたけど、あの時あなたは、あたしの流儀も取り込んでたんだね」
「ああ……」
その言葉に私は、黒鶴の真の能力をようやく自覚した。相手が持つ流儀をも取り込み、自分のものとする。おそらく、いずれ私はすべての流儀を兼ね備え、それを同時に複合的に扱えるようになるだろう。
私は自分の力の拡張性に怖れを覚えていた。できればこの強大な力は、人を相手には使いたくないと。震えている自分の手を見つめていると、明が告げた。
「弓鶴くん、あたしは絶対にあなたを死なせない。死なせてたまるもんか。それと、あたしはまだあきらめてないからね……」
その言葉には、強い感情と決意が込められていて、私の心に深く刻まれた。彼女の弓鶴を思う気持ちには感謝しきれないほどだ。その気持ちを無視するわけにはいかない。しかし、私にとっての真凜が、明にとっては単なる障害でしかないという事実が、心の中で静かに広がっていく。そんな明の気持ちを踏みにじっていることに対して、申し訳なさと自責の念が広がる。
明が去っていく後ろ姿を見送りながら、心の中で二つの感情が絡み合っていた。真凜との繋がりに感じた喜びと、明の言葉に触発された不安。それらの感情が私の心を静かに、しかし確実に締め付けていた。