第38話 一対の翼の物語
文字数 5,309文字
それでも、心の中で自分に言い聞かせながら、私は真凜を励まし続けた。彼女がこの試練を乗り越えた先には、きっと楽しい夏休みが待っていると信じていた。彼女のためにできることは全てやりたかったし、その先で真凜が笑顔でいられるように、何としてもサポートしたかった。
そして、試験がようやく終わった時、真凜はまさに英雄だった。彼女は自分のすべきことを全てやり遂げ、その勇気と努力に、私は心から敬意を表したい気持ちでいっぱいだった。
その時、初めて私から彼女に提案をした。「一緒に遊びに行こう」と。
私の提案に対する彼女の反応は、目を見張るほど鮮やかだった。生気を失っていたはずの真凜の目が、まるで朝日のように輝きを取り戻し、その輝きが私の心を温かく包み込んだ。
これまで、私はいつも真凜に引っ張られてばかりで、自分から何かを提案することはほとんどなかった。けれど、最近は何かが変わった気がする。真凜の笑顔をもっと見たいと、自然にそう思えるようになっていたのだ。
試験対策の時間も、彼女と過ごす時間がとても楽しく、充実していた。その時間が、私にとってかけがえのないものになっていた。
あの試練を通じて、私たちの間にあった見えない壁が少しずつ薄れていくのを感じていた。距離が縮まっていくのを実感しながら、友達と呼べる関係になれたのかもしれないと、ふと思うこともあった。
もちろん、どんなに良い時期でも終わりが訪れることを理解している。でも今、この瞬間だけは、彼女と一緒にいることが私にとって唯一無二の幸せであり、心から大切にしたい時間だと改めて実感していた。真凜の笑顔が、私にとって何よりの宝物なのだ。
◇ ◇
夕焼けが空をオレンジ色に染める中、帰り道を歩く私と真凜。彼女の笑顔は、まるで沈む太陽に照らされて、より一層輝きを増していた。まるで彼女の心の中に、温かい光が満ちているかのようで、その姿を見るだけで私の心もじんわりと温かくなっていった。
今日は一日中、彼女に引っ張られっぱなしだった。真凜はまるで子供のような無邪気さで、好きなものを次々と口にし、気になるお店を一軒ずつ覗いていった。彼女の目が輝くたびに、私も自然とその世界に引き込まれていくのを感じた。真凜は海に行きたがっているようで、水着選びに時間をかける姿は、あまりにも愛らしくて、見ているだけで心が和んだ。
その後、私たちはゲームセンターに立ち寄った。クレーンゲームの前に立つと、私はその操作がさっぱりわからず、何度挑戦してもぬいぐるみが取れなかった。焦りとイライラが募り、ついには筐体を蹴りたい衝動に駆られそうになった。それでも、真凜はその熟練の手つきで、私が「欲しいな」と小さく呟いたぬいぐるみを見事に取ってくれた。
その瞬間、彼女がぬいぐるみを私に渡してくれたとき、心の奥底から広がる喜びがあまりにも大きくて、自然と笑みがこぼれてしまった。真凜の笑顔が、私の内側から幸せを引き出し、まるで心の中に咲いた花がふわりとほころぶような感覚だった。
その笑顔に気づいた真凜も、まるで自分のことのように嬉しそうに笑っていた。彼女の喜びが、私の喜びをより深くしてくれた。
そのとき、私はふと気づいた。今、この瞬間、私は自分の感情を素直に曝け出しているのだと。心の奥底から湧き上がる感情に身を委ね、ただ純粋にその幸せを楽しんでいる自分がいた。こんな風に自分をさらけ出すことができるのは、真凜の存在があってこそだと、心から感じていた。
そして、半ば強引に、という言葉がぴったりなプリクラの体験もした。初めてのその場所は、まるで夢の中に迷い込んだような、不思議でカラフルな世界だった。機械の中から現れる派手な背景や、ピカピカ光る装飾が、私を一瞬で異次元へと連れ去った。どこかコミカルで、少し滑稽なその世界で、私たちは自然と笑い合っていた。
プリクラが完成し、出来上がった写真を手に取った瞬間、目の前に現れたのは、まるで別人のような面白おかしい顔をした私たちだった。顔が引きつっているわけでもないのに、その表情はとてもユニークで、思わず笑ってしまった。真凜が描き入れた可愛らしい落書きもあって、その絵がまた一層私たちの表情を引き立てていた。
その写真を見た瞬間、胸の奥がポカポカと温かくなり、自然と頬がほころんだ。恥ずかしさと嬉しさが入り混じりながらも、その全てが心地よく、私は照れくさそうに笑い続けていた。真凜と過ごすこの特別な時間が、どれほど私にとって大切で、かけがえのないものであるかを実感しながら、心からの笑顔が溢れていた。
◇ ◇
その日の出来事を振り返りながら、私は自然とほほえみがこぼれていた。楽しい一日が心に深く刻まれて、どこか幸せな気持ちが湧き上がってくる。そんな私の顔を、真凜は嬉しそうに見つめていた。
「弓鶴くん、ありがとうね。私のために頑張って応援してくれて。それに、こんなにも楽しい……」と、彼女の言葉は、一瞬、何かを躊躇しているような空気を漂わせた。口ごもったその瞬間、私は彼女の心の中にひっかかりがあることを感じ取った。
けれど、真凜はすぐに顔を振り払うようにして、慌てて言い直した。
「とにかく、遊びに誘ってくれて嬉しかったよ」
その言葉を聞いて、私は少しほっとした。真凜のその気持ちが、なんだか心の奥に温かい灯りをともしてくれるようだった。
私は微笑みながら頷いた。
「頑張ったのは真凜だ。俺は大したことはしていない。でも、こうして試験が終わって、一緒に楽しい時間を過ごせたのは本当に良かった。最近は、いろいろと大変なこともあったから……」
「うん、そうだね。やっぱり、耐えて耐えて、その後の解放感って最高だよ。今日は本当に楽しかった」
真凜は笑顔で応じた。その表情は、まるで心の中に幸せの花が咲いたように輝いていた。
ふと気がつくと、私たちの距離は以前よりもぐっと近くなっていた。その瞬間、胸の奥で微かにドキドキとした感覚が広がり、体がほんのりと熱くなった。けれど、その熱さは決して不快なものではなく、むしろ心地よく、ふんわりと全身を包み込んでいるようだった。その感覚に包まれて、私は思わずもう一度微笑んだ。
その時、真凜が「そうだ」と思い出したように手提げ袋から小さな紙包みを取り出した。私の目はその動きに引き寄せられ、何だろうと気になって訊ねてしまった。
「どうしたんだ?」
すると、真凜は少しおどけたように微笑みながら答えた。
「さて、弓鶴くんに質問。これは何でしょうか?」
「わかるわけないだろう」と、私が素っ気なく答えると、真凜はぷくっと頬を膨らませて、不満そうな顔をした。その表情があまりにも可愛らしくて、つい目を逸らしてしまいそうになった。
「つまらないの。まあ、いいや」
真凜は軽く肩をすくめながら、紙包みを開け始めた。
その瞬間、彼女の指先からチェーンでぶら下がる小さな物が姿を現し、夕日の光を受けてキラキラと輝いていた。私は思わず顔を近づけ、それをじっと見つめた。それは、黒い翼の片翼を模したようなデザインだった。翼の細かなディテールが巧みに彫られていて、光の中で妖しく輝く様子が、まるで魔法のように美しかった。
「これが何か?」と、私は困惑しながら問いかけた。真凜は自信満々に「ふふん」と笑いながら、嬉しそうに答えた。
「見てわからない? キーホルダーだよ」
「それはわかるが、こんな物をどうして?」
真凜は一瞬考え込みながら言葉を選び、ゆっくりと答えた。
「さっき寄った雑貨屋さんで見つけたの。これって、弓鶴くんが黒鶴を使う時に出てくる、黒い翼に似てるかなって思って」
「そ、そうか……」
私はその言葉の意味をやっと理解し、彼女が黒い翼をどのように捉えているのか、少し興味を抱いた。
「アクセサリーもあったんだけど、日常的に使うのは難しいかなって思って。これならカバンにつけておけるし、気軽に持ち歩けるでしょ」
真凜はそう言いながら、紙袋からもう一つ同じようなキーホルダーを取り出し、私に差し出した。私がそれをじっと見つめると、しばらく躊躇った後、ゆっくりと受け取った。すぐに、そのキーホルダーが真凜の物と対称の形をしていることに気がついた。
「これって、もしかしてペアになっているのか?」
「うん……」と、真凜は少しはにかんだように答えた。その恥ずかしそうに頬を赤らめる姿が、私の心に柔らかな波紋を広げた。
真凜は私の手の中のキーホルダーをじっと見つめ、静かに言った。
「あの黒い翼、わたし、いつもすごく綺麗だなって思ってたの」
その言葉が心に深く響いた。あの実体の無い存在を、真凜がどのように感じているのかを知ることで、私の心の中に新たな感情が芽生えた。彼女にとって、その翼はただの力の象徴ではなく、美しさと価値を持つ存在だったのだと気づかされた。
今まで、あれは私にとっては狂気と隣り合わせの力の象徴でしかなかった。それでも、真凜の目を通して少しだけ違った景色が見えたような気がした。
「あれは、そんなにいいものなのか?」と、私は少し自嘲気味に訊ねた。内心では、自分の感覚と真凜の感じ方の違いに戸惑いを覚えながら、彼女の反応を待っていた。しかし、真凜は微笑みながらも、その瞳に真剣さを滲ませていた。
「うん、とっても素敵だと思う。それにね……」
真凜はそこで言葉を詰まらせ、その微妙な表情が何かを伝えたくても言葉にできずにいる様子を浮かべていた。彼女の手が私の手の上のキーホルダーに近づくにつれて、その小さな物がどうしてこれほど特別なのか、少しずつ理解できるような気がした。
そして、互いの二つのキーホルダーが寄り添い、一対の翼のように重なった瞬間、私は驚きのあまり息を呑んだ。そして、真凜の目には優しさと、私に伝えたい強い思いが宿っていた。
「これはふたつでひとつ。そのどちらかが欠けてもだめなんだ。それは、わたしたちも同じなのかもって……」
その言葉に、私は胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。真凜の言葉が、私の心の奥深くに響き渡り、彼女の気持ちをひしひしと感じ取ることができた。彼女の真摯な思いが込められたキーホルダーが、私にとっては単なる物以上の重みを持っていることに気づいた。
「前にわたし言ったよね。辛いことも悲しいことも、半分こにしたいって。これにはそんな……そんな願いを込めたいって思ってる……」
真凜の声は消え入りそうで、彼女の感情が伝わってくるその微かな響きに、私の心もまた震えた。彼女が言いたいことは、言葉にするのが難しいほど深い感情と願いが詰まっているのだと感じた。私はどう答えたらいいのか分からず、ただ黙ってその言葉を受け入れるしかなかった。
真凜の思いが形となったこのキーホルダーが、私にはとても重いものに感じられた。彼女の期待に応えられない自分を悔やむ気持ちが、心の奥で燻っていた。
それを察したのか、真凜は少し慌てた様子で、戸惑いながら言った。
「あ、あの、そんなに深い意味はないから、気に入らなかったら受け取らなくても、いいから……」
彼女がこんなにも複雑な表情を見せるのは初めてで、私はどうしていいかわからなくなっていた。その表情から、真凜が悩んでいる様子が、心に染み込んできた。
私は心臓が制御不能なくらい高鳴り、体が急に熱くなるのを感じた。嬉しさと感動が込み上げ、私の心の奥深くまで届いた。
どう答えるべきか迷っていた私に、真凜は少し照れくさそうに微笑んで、こう言った。
「これはさ、友情の証みたいなものだから。そんなに気にしないで」
その言葉に、私はほっとしたような、でも少し寂しい気持ちを抱いた。真凜が言いたいことはもっと深いものだったかもしれないけれど、私にはそれを掘り下げる勇気がなかった。だから、私ができるのは、この瞬間に合わせた答えをすることだけだった。
「友情か……。そうだな、俺たちは友達だ。これはその証として大切にするよ」
そう言いながら、私はキーホルダーを手に取り、それを胸にしっかりと当てた。真凜の気持ちを感じ取りながら、自分の心がどこかで彼女の期待に応えたいと願っているのを感じた。しかし、現実の障害がそれを妨げる限り、私は自分の気持ちを誤魔化しながら、この瞬間を過ごすしかなかった。
真凜の期待に応えられない自分を悔やみながらも、彼女の思いが形となったこのキーホルダーを大切にしようと決めた。そして、彼女の温かな気持ちに触れながら、心の奥で静かに響く感情と向き合っていた。