第23話 茉凜の可能性と冷酷王子の戸惑い
文字数 2,860文字
突然、深淵から現れた使者、【
彼の姿はまさに圧倒的だった。細身でありながらも、その身長は百八十センチを超え、腰まで達する長い髪が風になびいていた。細い眼鏡の奥に潜む鋭い眼光は、私を冷たく見据え、その視線には異様なまでの冷たさと殺気が宿っていた。深淵が私を柚羽家の後継者として確保するために動き出したことを、その姿から明確に感じ取った。
当然、私はその要求を拒否した。だが、彼の反応は冷酷で容赦なかった。彼が展開した深淵の場裏青、球体状の事象干渉領域が周囲の空気を瞬く間に凍りつかせ、私に圧倒的な威圧感を与えた。その中で、私の心は怒りと恐怖で燃え上がり、無関係な茉凜の命が脅かされていることに対する憤りが私を突き動かした。
怒りが頂点に達したその瞬間、封じられていた弟の流儀「黒」がついに発動された。深淵の闇が私を包み込み、怒りと憎悪が濁流のように心を渦巻かせ、過去の忌まわしい記憶が鮮明に甦ってきた。狂気が私を呑み込む中で、その力には恐怖だけでなく、どこかしらの歓喜も感じていた。
その瞬間、私の心は複雑な感情で満たされた。怒り、恐怖、そして一抹の歓喜が交錯し、私はその力を振り絞って鳴海沢洸人に立ち向かった。力が暴走し、深淵の狂気が私の精神を蝕んでいく中で、私は自分自身をも危険にさらしながら、その場に立ち続けた。
私の意識は次第に遠のいていった。狂気の中で、怒りと憎悪が私の身体からあふれ出し、周囲の景色を歪ませていった。私の内なる闇はますます広がり、鳴海沢洸人に向けられるその力は、まるで破壊の嵐のように猛烈だった。
私は自我を失いながらも、心の奥底から湧き上がる怒りを具現化させるしかなかった。目の前に立つ彼に向かって、その力を解放し続ける中で、私の意識は一瞬ごとに変わっていった。世界が私の中で激しく揺れ動き、全てが引き裂かれるような感覚が広がっていった。
そして、私はすべての感覚を失った。視界が暗転し、全てが静寂に包まれる中で、私の意識は深い虚無に引き込まれていった。
◇ ◇
その後、私は屋敷で意識を取り戻し、虎洞寺氏から一連の出来事を聞かされた。耳を疑うような話だった。私が暴走し、無数の場裏を展開させ、柚羽の血に受け継がれた流儀白の大気操作の力を使って、鳴海沢を圧倒していたというのだ。
その話を聞いた瞬間、私は恐怖と絶望で心が押し潰されるような感覚に襲われた。自分が暴走し、気絶した彼を殺そうとしていたことを知り、自分がどれほど恐ろしい存在になってしまったのかが鮮明に浮かび上がった。
私は深淵の巫女として、精霊子の収集と力の出し入れを制御する訓練は受けていたものの、場裏を扱う術者としての技術や知識は皆無だった。にもかかわらず、正気を失った状態で本能的にそれを使いこなしていた事実に、自分が恐ろしい怪物を呼び覚ましてしまったのだと感じ、胸が締め付けられる思いだった。
それでも私は生きている。暴走が収束した理由が全く理解できなかった。
虎洞寺氏によると、暴走中に唯一近づけた人物がいたという。その人物とは、私が守ろうとしていた茉凜だった。彼女が私の手を優しく握り、抱きしめてくれたことで、内なる力の奔流が収まったのだという。
にわかに信じがたい話だったが、天のメンバーが撮影した映像を見せられ、それが事実であることを認めざるを得なかった。暴走する私の周囲には防御のために展開された無数の風の障壁があったにもかかわらず、茉凜はそれをくぐり抜けて私に近づいてきたのだ。
その彼女の異常な力に私は震えた。彼女がどうやって私の暴走を止めたのか、その詳細はわからないが、彼女の存在が私を救ったことに間違いはなかった。心の中で湧き上がる感謝と同時に、自分の力が引き起こす恐ろしい現実に対する不安が拭えなかった。
彼女には、私の理解を超えた何かが確かに存在している。それが深淵とは異なる力であることは間違いないが、彼女が本当に導き手となるべきかどうかは、まだ私にはわからなかった。
虎洞寺氏は、彼女に価値と可能性を見出していた。それは私の力の暴走を止める可能性だった。彼女が安全装置として機能するなら、私はこの力を制御し、器の拡大を目指せるかもしれない。それは一筋の希望の光だった。
しかし、深淵とは何の関係もない、普通の生活を送ってきた彼女を巻き込むことが果たして許されるのか、私の心は苦悩に満ちていた。彼女を守りたいという気持ちと、彼女を巻き込むことへの罪悪感が交錯し、どちらが正しいのか分からないまま、彼女をどう扱うべきか悩むばかりだった。
◇ ◇
虎洞寺氏は、茉凜に彼女の置かれている状況を説明した。深淵の術者を目撃したからには、彼らは決して彼女を生かしておかないだろう。もし彼女が屋敷を抜け出し、家族の元に帰ろうとすれば、一家全員が抹殺されるのは明白だった。
茉凜の顔は恐怖で青ざめていた。その姿を見ていると、私の心は波のように揺れ動き、氷のような表情を保つのが困難になっていった。
しかし、彼女はその恐怖の中で、毅然とした声を上げた。
「わたしは殺されるなんてごめんです。家族だって絶対に死なせない。そのためだったら、一生ここから出られなくたっていい」
絶望の淵にありながらも強い意志を見せる彼女に、私は驚きを禁じ得なかった。
ただ一つの希望があった。彼女はなぜか、血族にしか視認できないはずの場裏の存在を感じ取ることができた。虎洞寺氏はその事実に驚きを隠せなかった。いくら彼女の素性を調べても、血族との関わりを匂わせるような証拠は見つからなかったからだ。
それでも、これを理由にして血族のリストを改ざんし、茉凜とその家族を郭外の構成員として登録すれば、差し当たって身の安全は確保できるだろう。
こうして、茉凜は私の黒の力の安全装置として、虎洞寺邸で暮らすことになった。
一方で、虎洞寺氏は上帳に対して何らかの働きかけを行っていたようだが、私の心は複雑だった。黒の力の顕現が露呈してしまった以上、相手がどう動いてくるかわからない。私は解呪に向けて、もう立ち止まることは許されないと理解した。
もし茉凜が本当に導き手であるならば、私の目的は実現に一歩近づく。しかし、彼女をそのような立場に置くことで、彼女自身を不幸にしてしまうのではないかという恐れも、私の心を締めつけていた。
胸には希望と罪悪感が交錯し、どちらが正しいのか分からないまま、彼女とどう向き合っていけばいいか悩んでいた。茉凜の意志の強さに惹かれつつ、彼女を守るための最善の道を模索するしかなかった。