第41話 海水浴に行こう
文字数 5,742文字
正直なところ、私は山の中で育ったせいで、海に対してはどこか異邦人のような感覚を抱いていた。それに肌を晒すことにはどこか言い知れぬ抵抗があった。それが今の私が男の子の弓鶴であっても、変わらない感情だった。
それでも、茉凜の目の輝きと期待に満ちた笑顔を見て、「嫌だ」と言うことができなかった。彼女がどれほどこの日を楽しみにしていたのか、その心からの願いを裏切ることは、どうしてもできなかった。私は彼女の幸せそうな姿に応えるために、ただ頷くしかなかった。
藤堂さんの運転する車で、私たちは海水浴場が目の前に広がるリゾートホテルに到着した。車を降りた瞬間、潮の香りがふわりと鼻腔をくすぐり、波の音が心の奥に静かな安らぎをもたらしてきた。
茉凜は到着するや否や、すぐに「早くビーチに行こう」と私を誘った。その声に込められた無邪気な熱意と、その笑顔には逆らうことはできなかった。私は彼女の後をゆっくりと追いながら、その姿を眺めるしかなかった。
砂浜に着き、パラソルを立てて準備を整えていると、水着に着替えた茉凜がやってきた。その瞬間、私は思わず息を呑んだ。
彼女の水着姿は、太陽の光を受けてまばゆく輝いていた。フリルとリボンが施されたトップスが、彼女の慎ましやかな胸元を優しく包み込み、その可憐さを一層引き立てていた。
しかし、私が心を奪われたのは、やっぱり彼女の笑顔だった。その笑顔には、無邪気さと共にどこか大人びた、深い感情が浮かんでいて、どれほど海を楽しみにしていたのか、その喜びが一目でわかるような、心からの輝きがあった。
その輝きに、私は少しばかりの劣等感を覚えていた。元々の私は背が低くて、彼女の健康的で伸びやかな体つきが本当に羨ましく思えたのだ。そして、彼女の自然体で自由な姿が、私にはあまりにも眩しく感じられて、どうしようもなく自分の小ささを感じてしまった。
でも、今の私は───そんな考えが頭をよぎり、苦笑いを浮かべた。茉凜の幸福そうな姿に、私の心はただただ温かく、そして少しの切なさをもって満たされていた。
「ねえ、早く行こう!」
茉凜が手を差し伸べてくる。その手は、柔らかく温かく、彼女の中に詰まった希望と喜びがすべて伝わってくるかのようだった。私はその手を取ろうとした瞬間、心の奥深くに温かい光が射し込むような幸福感を感じた。
しかし、その穏やかな時間は、突然の出来事によって引き裂かれた。まるで幸せの糸が裂けるかのように、周囲の空気が一変した。
◇ ◇
それは、私たちの予想を超えた真坂明の来訪だった。
その瞬間、まるで空気が冷え込むかのような張り詰めた感覚が広がった。明の背後には、新庄という、彼女の影そのもののような執事が一歩後ろに控えていた。彼の存在が、この場の緊張感をさらに高めるように感じられた。
明は黒のクロップトップに、高腰のパンツ、袖にディテールが施されたオープンジャケットという出で立ちで現れた。その服装は彼女の冷たさと硬さを象徴するかのようで、まるで海の楽しさから完全に切り離された存在であるかのようだった。
「どうしてここに?」と私は尋ねた。すると、明の目が一瞬鋭く細められ、その冷たい視線が私の心の内側に突き刺さるように感じられた。
「あたし、あんたたちの監視役になったの。だから、よろしく」
明の言葉は、まるで機械のように無機質で、彼女がこの状況を全く好ましく思っていないことが明白だった。その無感情な口調と冷徹な視線が、私たちの楽しみにしていた海水浴の計画を一瞬で暗い影で覆い隠してしまった。茉凜の顔にも、明の突然の登場に戸惑いと不安が交じっているのが見て取れた。
「監視役って、どうしてお前が?」
私がそう尋ねると、明は茉凜にさらに冷ややかな視線を送った。その目には茉凜に対する警戒と不信が色濃く映し出されていた。
「そこのそいつが問題なのよ。この状況で弓鶴くんになにしでかすかわからないから。へんな間違いでもされたらいやだし?」
その言葉が放たれた瞬間、私の心には戦慄が走った。明の冷たい視線を向けられた茉凜には動揺が見えたが、すぐにそれを隠そうとするかのように、自分の言葉で反論を始めた。
「そんなことするわけないじゃないの……。だいたい私たちはそういう関係じゃないし」
明の厳しい眼差しが彼女の心に重くのしかかる中、茉凜の表情には緊張が走っていた。その言葉は、校内でも繰り返し口にしてきた主張であったものの、声はわずかに震え、その感情は言葉以上に彼女の心の中の不安を映し出していた。
明はさらに鋭い目つきで続けた。
「どうかしらね、あんたみたいな泥棒猫って油断ならないから」
その言葉が私の心に突き刺さり、激しいぶつかり合いに引き裂かれそうになった。明の言葉の背後にある冷徹さと拒絶の感情が、私の心の中で深く響いた。
「よせ、明。俺は、茉凜をそんなふうには見ていない」
そう言ってみたものの、彼女の顔にはわずかな動揺も見られず、表情は依然として硬いままだった。明の目には、私の心を探る鋭い光が宿っており、その冷たい視線が私の内面にまで及んでいた。
「ふーん、じゃあどう見てるっていうの?」
明は逆に挑発的に問いかけてきた。心の中の迷いが、次第に言葉を覆い隠していくように感じたが、このまま沈黙を続けるわけにはいかなかった。
「茉凜は……俺にとって、とても大切な友人なんだ。ただそれだけだ……」
結局、そう言うしかない自分がいた。その瞬間、私の心は自己嫌悪に染まっていた。言葉が空虚に感じ、心の中での葛藤が私を苛んでいた。
明は私の言葉を受け止めた後、無言でしばらく私たちを見つめていた。その表情には、怒りとも困惑とも言えない微妙な感情が絡み合っていた。
やがて彼女は肩をすくめてため息をついた。そのため息は、心の中にある感情の整理がつかないことを示しているようだった。
その時、茉凜が口を開いた。
「あの……」
その一言に、私と明は一斉に茉凜に視線を向けた。明は茉凜を睨むような鋭い眼差しを向けたが、茉凜はその視線に対して、優しく微笑んだ。
「この前は助けてくれてありがとうね、アキラちゃん」
その瞬間、明の表情が驚きに変わった。彼女の冷徹な顔が一瞬だけ崩れ、目に驚きと困惑が浮かんだ。
「馴れ馴れしい呼び方すんな、キモい。で、何が言いたいの? 別にあんたを助けたわけじゃないし、あれは弓鶴くんのために言っただけよ」
明の声には冷たさが戻り、顔には再び固い表情が浮かんだ。
茉凜は一瞬だけ困惑の表情を浮かべたものの、すぐに穏やかな笑顔を取り戻した。
「うん、わかってる。でも、お礼を言わせてほしい。あの時、あなたにはっきり言ってもらえて、よかったって思ってるから」
「はぁ? だから、あんたのために言ったわけじゃないって言ってるでしょ。弓鶴くんを死なせたくないから……それだけよ」
茉凜の言葉を受けた明は、眉間にしわを寄せ、口元を微かに歪ませていた。
「その気持ちはわたしも同じだよ。おかげで、わたしもがんばろうって、決心ができたんだ」
茉凜の素直そのものといった言葉に、明の表情は一瞬だけ揺らいだが、その後すぐに冷徹さを取り戻した。
「……まぁ、あんたがどう思おうと勝手よ。じゃあ、あたしは無用なトラブルが起きないように見張ってるから」
そう言って、明は新庄に一瞥を送り、視線を遠くの海辺へと移した。彼女の目には冷たさと同時に、どこか心の奥に秘められた複雑な感情が滲んでいるようだった。
その後ろ姿に、私は茉凜の微笑みを思い出しながら、自分の心の中で複雑に絡まる感情を整理しようとしていた。茉凜の優しさと、明の冷徹さが交錯するこの瞬間が、私たちの関係に新たな影を落としているように感じられた。
二人の様子を見守っていた私は、複雑な気持ちに苛まれていた。明の冷ややかな視線と茉凜の震える反論、そして私の心の中で渦巻く自己嫌悪。それらが絡まり合い、心に重い鉛のような負担を押し付けていた。
両者間の問題を生み出した元々の原因は、私が解呪に失敗したせいなのだ。この事実が、私の胸を苦しめていた。
今の私ではなく、本来の弟だったなら、きっと明の気持ちをしっかりと受け止めていたはずだろう。彼なら、明の不安や怒りに対してもっと適切に応え、彼女の気持ちを理解しようと努力していたに違いない。しかし、今の私はその役割を果たせず、茉凜が私に必要であることが逆に彼女との関係を複雑にしてしまっている。その事実が心に重くのしかかっていた。
私が茉凜のそばにいることで、彼女の存在が私の問題に対する障害となっている。私のせいで、明との関係がぎくしゃくしてしまっている。心の中で繰り返される自己嫌悪の声が、私を苦しめ続ける。
「すべて……私のせいだ」と、私は心の中で自分を責めていた。その思いが、私の心を一層重くし、悔しさと無力感に苛まれ続けていた。
◇ ◇
茉凜が無邪気に海と戯れる姿を見つめながら、私はおそるおそる初めての海に足を踏み入れた。冷たい水が肌にしみ込み、足元の砂が驚くほど柔らかい。どう動けばいいのか戸惑っている私の姿が、茉凜にはおかしかったのだろう。彼女は楽しげに笑った。
その笑顔はまるで太陽のように眩しく、私の心を温かくした。自然と顔が熱くなるのを感じながら、私は心の中で安堵の息を漏らした。
「そんなに怖がらなくたって大丈夫だよ!」と、茉凜が優しく言いながら私の手を取ると、その温もりが恐怖を薄れさせた。彼女の手のひらから伝わるあたたかさが、私の不安を和らげていく。
彼女に導かれるまま、私は少しずつ海の中へと進んでいった。波が足元をくすぐり、恐れは次第に喜びへと変わっていった。水の冷たさと砂の柔らかさが心地よく、気づけば私も心からその瞬間を楽しんでいた。茉凜の笑顔と共に、海の楽しさを存分に味わうことができた。
しかし、ふと視界の片隅に、遠くのパラソルの下に一人腰掛けている明の姿が入り込む。彼女はどこか寂しげに佇んでいて、その姿が私の心に重くのしかかってきた。明の表情には孤独が漂い、私の心はその寂しさに引きずられるように感じた。
やがて疲れを感じた私は、茉凜と共に静かに海から上がり、パラソルの下で並んで座った。茉凜のそばにいる安心感とは裏腹に、明の姿が私の心を重くし続ける。私たちの楽しさを見守る明に、どこか申し訳なさと無力感を感じながら、その場に座り込んだ。
海での無邪気なひとときが終わり、突然、言葉が出なくなってしまい、二人の間に広がる静寂に思いが彷徨っていた。茉凜が何かを考え込んでいるのが、その横顔から伝わってきた。
「弓鶴くん……?」
茉凜の声が耳に残るようにささやかに響き、私は急に身構えてしまった。
「なんだ?」
「アキラちゃんは、弓鶴くんの許嫁だったんでしょ?」
「それは昔の話だ……」
「……それでも、たぶん彼女は今でも、あなたのこと……」
茉凜の声は、まるで波の音に溶け込むように静かで、それでもどこか深い響きを持っていた。その問いかけに私は一瞬言葉を失い、軽々しく言い逃れすることは許されないと感じていた。
どうすればいいのか分からなかった。明の気持ちは分かっているし、本来の弓鶴自身もそう思っているかもしれない。だとすれば、その関係を壊すのは私自身ということだ。それに、私の目的のために間に立たされている茉凜が、どれだけ複雑な感情を抱えているのかを考えると、胸が締めつけられた。
茉凜の問いかけが、私の心の奥深くに静かに触れ、その余波が私を揺さぶる。彼女の無邪気な笑顔とその問いが、私にとってどれほど重いものであるかを実感させる。私の言葉はもはや簡単に答えられるものではないと、心の中で苦悩しながら、その場にじっと座り続けた。
「今はそれどころじゃないってことは、あいつだってわかっているはずだ。いつ刺客が襲ってくるかわからない状況で、浮かれている場合じゃない」
私は冷静さを装い、あえて冷たい判断を下すしかなかった。その言葉が茉凜を傷つけるだけだろうと思いながら。
彼女は寂しげに俯き、小さく呟いた。
「そうだね……今はそんなこと考えてられない……」
沈黙が流れ、私はどう声をかければいいのか分からなかった。ただ、茉凜の俯いた顔から、彼女の心の中で何かが揺れ動いていることを感じ取った。
突然茉凜は何かを決意したように立ち上がった。
「うん、今は仕方がないんだ。だからさ、今を楽しもうよ?」
「今を、楽しむ?」
私は意味がわからず、首を傾げた。茉凜は私の戸惑いに微笑み、優しく頷いた。
「そうだよ。確かに今は厳しいかもしれない。でも、それでも私たちはここで生きているんだから。そして、今この瞬間を一緒に過ごしている。だから、辛いことばかりじゃなくて、少しでも楽しいことを見つけて、一緒に笑おうよ」
その言葉に、私ははっとした。茉凜の言葉は、ただの慰めを超えたものだった。彼女は困難な状況の中でさえ、前を向く力と、今この瞬間を大切にする覚悟を持っていたのだ。
「茉凜……」
その名を思わず口にしていた。
彼女はどこか無理をしているように見えたが、その無理が私を救おうとしていることが伝わってきた。
「そうだな……辛いことばかり考えていたら、きっと何も変わらない」
「うん、絶対その方がいい」
私の言葉に、茉凜は嬉しそうに頷いた。その笑顔を見て、私は彼女が伝えたかった本当の意味を理解した気がした。どれほど暗い状況でも、共に過ごす時間を大切にすれば、心に小さな希望の光を灯すことができるのだと。
「わたし、ちょっと行ってくるね」
茉凜はそう言うと、明の方へと駆け出した。
彼女の背中が夕日に溶け込むように見えたその瞬間、私の胸に何とも言えない切なさが広がった。茉凜が一歩踏み出すたびに、その背中が私にとってどれほど大切なものなのかを痛感させられる。彼女の勇気と優しさが、どれほど私にとって支えとなっているかを、改めて実感する瞬間だった。