第48話 ビーストマスター茉凜
文字数 3,854文字
夏休みの終わりと共に、再び平穏無事な学園生活が戻ってくるはずだった。しかし、平穏は一瞬のうちに崩れ去り、代わりに嵐のような波乱が巻き起こった。その中心には、あの真坂明がいた。彼女の登場は、私たちの心を震撼させるものでしかなかった。
真坂家の権力と、郭外リーダーである虎洞寺氏を通じた転校手続きには何となく納得がいった。だが、すでに洸人が監視役として存在するにもかかわらず、さらに新たに転校生を受け入れる理由がまったく理解できなかった。その違和感は私の心に深い影を落とし、私の思考を混乱させた。
そして、真坂家が力を信奉し、解呪の試みには反対の立場にあることは明白だった。それにもかかわらず、明はその背景をまるで気にも留めていないかのように、さらりと言い放った。彼女のその態度が、私の心に鋭い緊張感をもたらした。
「ああ、家のこと? そんなのとっくに放り出してきたし。今のあたしはただの素浪人よ。で、今は寝床もないし、虎洞寺の家に泊めてもらうことにしたから、よろしく」
その瞬間、私の心臓は激しく鼓動し、思考が止まった。茉凜と私の目が一瞬交わり、同時に「はあ?」という驚愕の声が漏れた。口を開けたまま、唖然とした顔でお互いを見つめ合うしかなかった。
私は頭を抱えて、何が起きているのかを整理しようと必死だった。それでも、明はどうやら本気らしく、彼女は虎洞寺邸に滞在し、私たちと共に暮らすことになった。私の心はその事実に圧し潰されそうだった。
明の目的は明白だ。私と茉凜の関係が彼女にとって気になるのだろう。その視線の先には、私と茉凜の間に横たわる微妙な距離感があった。彼女にとって、茉凜は私との関係を修復する上での障害に過ぎず、なんとしても排除したい存在なのだ。
虎洞寺邸に身を置き、私たちの一挙手一投足を監視しながら、私に積極的に迫ってくるかもしれない。弓鶴ではない私が、その状況にどう対応すべきなのか。茉凜がどのように感じるかを想像するだけで、私の心は深い不安に包まれた。
その不安は、私の心の奥深くでじわじわと広がり、言葉では表現できないほどの重圧感をもたらしていた。先行きの不透明さと目の前に広がる混沌とした状況に、ただただ呆然と立ち尽くす私の心の中で、先の見えない不安がひたすらに渦巻いていた。
◇ ◇
その夜、虎洞寺邸の玄関は静寂に包まれていた。暗い廊下の灯りが、広がる闇の中でぼんやりと輝き、静けさの中に沈黙の圧力を漂わせていた。
茉凜と明の間には、見えない緊張感が張り詰めていた。その空気を切り裂くように茉凜の無邪気な笑顔が広がり、その微笑みが意図的なものであるかのように明を迎え入れていた。しかし、その笑顔の裏にはどこか深い陰りが潜んでいるように感じられ、明の冷たい言葉がその影を一層際立たせていた。
「これからよろしくね、アキラちゃん」
茉凜の言葉は、心からの微笑みと共に発せられ、その笑顔には全くの自然さが漂っていた。彼女の態度には何の違和感もなく、心から明を迎え入れようとしているように見えた。その明るさが、一層明との距離を際立たせていた。
一方、明の反応は予想通り冷たく、鋭い視線を茉凜に向けていた。彼女の顔には、茉凜に対する明確な敵意が浮かび上がっており、その冷徹な表情が空気をさらに張り詰めさせた。明の瞳の奥には、茉凜の無邪気な言葉に対する反発と、抑えきれない感情が渦巻いているのが見て取れた。その視線は鋭く、茉凜の存在そのものを拒絶しているかのようだった。
茉凜はその不穏な空気を感じ取ることなく、ただ笑顔を崩さずに明に近づこうとした。彼女の足取りは軽やかで、どこか無邪気さを感じさせたが、その裏に潜む緊張感が、私の心にさらに深い不安をもたらしていた。
◇ ◇
食事の時間が近づくと、私たちは明と席を共にした。私の心はどこか不安でいっぱいだったが、食卓に着くと、その緊張感が一層引き立てられた。
茉凜は、私との会話よりも明への問いかけに終始していた。彼女の質問はありふれたもので、どんな食べ物が好きか、苦手な食べ物はあるかといった他愛ないものだった。茉凜の声は、あくまでも明るく、彼女らしさが一層際立っていた。
しかし、その無邪気な質問が、明の冷たい反応を引き出していた。明は、茉凜の話を適当に受け流しながらも、その顔には明らかに不機嫌な色が浮かんでいた。彼女の目は厳しく、感情を抑え込むかのように険しいままだった。茉凜の陽気さが、逆に明の不快感を増しているように見えた。
やがて、耐えられないほどの不快感が溜まったのだろう。明は突然、椅子を引く音を立てながら立ち上がった。その音は、静かな食事の場に響き渡り、私の心臓はドキリと跳ねた。
明は一言も発さずに冷たい視線を茉凜に一瞥し、そのまま無言で場を離れていった。彼女の背中がどこか凍りついたように感じられ、その場の空気が一層重くなった。
茉凜の笑顔は一瞬ひきつり、彼女の顔に困惑の色が浮かんだ。けれども、その瞬間の動揺をすぐに取り繕い、再び明るく振る舞おうとする姿に、私の心はますます不安でいっぱいになった。
「茉凜、あいつはお前のことを嫌っている。それくらいわかるだろう?そっとしておいた方がいいんじゃないか?」
私の言葉には焦りが滲んでいた。
茉凜は一瞬だけ真剣な目をして、それから微笑みながら答えた。その笑顔には、どこか温かみと決意が感じられた。
「それはわかってるよ。でも、わたしとアキラちゃんは同志みたいなものだから、できたら仲良くなりたいって思うんだ」
「同志だと? 意味がわからない」
私の問いに対して、茉凜はほんのり眉をひそめたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。その笑顔は、少しだけ謎めいていて、どこか深い意味が隠されているように感じられた。
「あの子はわたしと同じ願いで戦っているんだよ。家から飛び出すなんて、よっぽどの決心だったんじゃないかな。だから、そうしたいって思うの」
◇ ◇
次の朝、虎洞寺邸での朝食準備が進む中、私は一人静かにコーヒーを淹れてテーブルに着いた。佐藤さんと茉凜がキッチンで忙しくしているのを見ながら、私の心には依然として不安が広がっていた。しかし、目を凝らすと明の姿が見当たらないことに気づき、彼女の部屋に足を向ける決心をした。
廊下で出会ったのは、ぶかぶかの寝巻きを着て、眠気眼でふらふら歩く明だった。彼女の小柄な体には、部屋に備え付けの男性用パジャマがまるで大人の服を着た子供のように大きく見え、肩から滑り落ちそうだった。その光景に、私は思わずどきっとした。
慌てて駆け寄り、乱れた着衣を整えながら、「大丈夫か?」と声をかけた。明は一瞬驚いたように目を見開き、その後急に顔を真赤にして俯いた。
「あ、ごめん……。着替えてくる……」と、彼女は小さな声で呟くと、自室へと戻っていった。弟の弓鶴にだらしない姿を見られたのが、恥ずかしかったに違いない。燃え盛る炎のような明だって、やはり普通の一面を持っているのだと見て取れた。
全員が揃い、静かに朝食を済ませると、私たちは三人揃って藤堂さんの車で学校に向かった。車中でも、茉凜は明に話しかけようとしていたが、明はそっぽを向いて無視を決め込んでいた。その様子に、私の心には不安が募った。
明のクラスが私とも茉凜とも別だったことは、不幸中の幸いだった。しかし、休み時間になると、茉凜が私のところに来るたびに、教室の外には遠目で窺う明の姿があった。その冷たい表情からは、彼女の複雑な胸中が伝わってきた。
昼休みになり、茉凜は少し遅れてやってきた。彼女は明の分のお弁当を作っていて、一緒に食べようと誘ったらしいが、明はそれを頑なに断ったという。それでも、茉凜の顔には落胆の色はなく、むしろやる気に満ちているように見えた。
「うむ、初回は失敗であった。うふへへ……」
茉凜は変な声で笑い、その独特な笑い方を私はいつも「まったく変な子」と思っていた。
「どうして、そこまで明に構うんだ? そんなことをしても、かえって怒らせるだけだろ」
私の言葉には焦りと疑問が混じっていた。
茉凜は一瞬だけ真剣な顔を見せ、それから少しだけ笑みを浮かべた。その笑みには、どこか諦めのない決意が込められていた。
「へへん、そんなことでこのわたしは諦めないよ。難攻不落の城を攻め落とすは、武士の誉れよ」
時代劇の台詞っぽい、あまりにも呑気な彼女の言葉は、冗談のように聞こえたが、その瞳には本当の理由が隠されているようだった。茉凜の眼差しには、明に対する深い思いが込められているようで、その奥には何か強い感情が渦巻いているのが見て取れたのだ。
「アキラちゃんを見てるとさ、わたしも辛くなっちゃうんだよね……。昔の弓鶴くんみたい、というわけじゃないけどさ……」
遠くを見るように語った茉凜は、明にかつての私を重ねているのかもしれなかった。その言葉には、彼女なりの理解と共感が込められていた。
「おせっかいだってことは、よくわかってる。でも、どうしてもあの子を放っておけないんだ」
茉凜の強い意志を前にして、私は頭を抱えるしかなかった。彼女の決意と情熱を前に、どんな言葉も力不足に感じられた。茉凜は、何があってもその思いを貫き通す人なのだと、改めて感じた。