滲むメモの真実
文字数 5,825文字
また、この機会に学園祭での二人の間にできたわだかまりが少しでも和らぎ、意識を切り替えるきっかけになればとも思っていた。希望の話題が、彼女たちの心を繋ぐ架け橋になってくれることを願っていた。
当然、明は私の呼びかけに対して渋い反応を示した。彼女は私の真剣な表情と切実な訴えに対し、わずかにため息をつきながらも「わかったわ」と呟き、スマホを切った。その声には空気が抜けたような乾いた響きがあり、彼女の内にある不安や疑念が垣間見えた。
彼女が到着する前に、私は自室に一度戻り、「どうしても見せなければ」と考えていた“ある物”を取り出した。
それはこれからの話し合いにとって、どうしても避けられない重要な材料だった。その物を手に取った瞬間、冷や汗が額に浮かぶのを感じた。どこかで不安が膨らむのを感じながらも、これからの重要な説明に向けて、心を落ち着ける必要があった。
私は心の中で深呼吸をし、茉凜の部屋に向かった。
◇ ◇
しばらくして、茉凜の部屋に明がやってきた。ドアがゆっくりと開くと、彼女の顔には深い疲れと不安が色濃く刻まれていた。それを見た瞬間、彼女の苦しみが私のせいだと直感的に感じ、その重圧が胸を締め付けるようだった。
「では、お茶をご用意しますね」
佐藤さんが部屋を出て行くと、空気が一気に重くなった。窓から差し込む薄暗い夕日の光が、部屋の一角を冷たく照らしていた。私たち三人は、言葉もなくただ立ち尽くし、その沈黙が一層心に重くのしかかっていた。
この場の空気を作り出してしまった責任は私にある。何かを言わなければならないと、心の中で自分に言い聞かせたが、喉の奥が詰まる感覚に襲われた。心の中で必死に自分を奮い立たせながらも、壊れた沈黙を埋めるのは私しかいないと自分に言い聞かせた。
「明、来てくれてありがとう」と声を絞り出すと、胸の内が小さく震えていくのを感じた。ぎこちない笑顔を浮かべようとしたが、口元は硬くて笑顔を作るのも難しかった。
「実は、今後の方針について、伝えておきたいことがあるんだ」
その言葉を口にした瞬間、明はまるで興味がないというように冷めた目をこちらに向けた。
その瞳の奥には、かつての熱意や期待が全く感じられず、その無関心な視線が私の胸を突き刺すようだった。彼女の目に映る私たちの関係の冷たさが、心に深い痛みをもたらした。
「ふーん……。それで?」
明の声は、遠くで響くような冷たさを持ち、その響きが私の心を揺さぶった。彼女の無関心な口調が、私たちの間に広がる距離感を一層際立たせているようで、その冷たさが私の内なる恐怖を一層増幅させた。
息を深く吸い込み、心の鼓動が高鳴るのを感じながら、私はそっと小さな紙を取り出した。その紙は、私の指先でしっとりとした感触を持ち、少ししわが寄っていた。
「まずはこれを、読んでみてもらえないか?」
明の瞳がわずかに揺れ、その中に驚きと疑念が浮かぶのを見た。彼女の目がその小さな紙に注がれ、その小さな紙片がどれほど重い意味を持つのかを感じ取っているようだった。
「これって?」
明の問いかけには、どこか投げやりな空気が漂っていた。
私は真剣な眼差しで、明に向かい合った。
「姉上の……柚羽美鶴が遺した、次に繋がるだろう者たちへ向けた最後のメッセージだ……」
その言葉を聞いて、明の目の色が変わるのがわかったのを見て安堵しつつも、胸の中に広がる鈍い痛みが、私の身体全体を締めつけるのを感じた。
そのメッセージは、私が解呪に失敗し、弓鶴の中で目覚めた直後、デルワーズから告げられた言葉を忘れまいと必死に書き殴ったものだった。その真実は、その時の私にとっては希望の光ではなく、むしろ深い闇そのものだった。
記された内容は、私が彼女たちに伝えたい事の核心でありながらも、「弓鶴の意識と記憶の全情報を人質に取られた」という、一切触れられたくない真実については含まれていなかった。私はその事実には触れず、ただ「導き手」についての要点だけを伝えたかったのだ。
『たとえ根源を再生して門が開かれたとしても、それだけでは儀式は不完全に終わってしまう。なんとしても、根源の半身であるマウザーグレイルと呼ばれる存在を探し出さなければならない。それは根源が至るべき場所と時を指し示す羅針盤。それを宿した者こそが“導き手”。解呪を成し遂げるために絶対不可欠な最後の欠片。その者を探し出し、器を整えた上で連れ行かなければならない。そうすれば願いは叶えられる。だが、私はそれを手に入れることができなかった。どこかにいるはずなのに、探す糸口すら見つからない』
メモ上のひどく歪んだ字を見て、私は眉を無意識に寄せてしまった。文面自体は冷静そのもので、自分が感情を必死に抑えようとしていたのだとわかった。でも、激しく乱れた筆跡には怒りと絶望が混じっていた。ところどころに涙の痕で滲んだ箇所があって、それらが、一目見ただけで伝わるほどの強い感情の波を生み出していた。
メモを手に取った明の表情が、徐々に驚きと恐怖に変わっていくのが見て取れた。目が次第に見開かれ、顔色が青ざめていくのが分かった。
部屋の静けさが、明の内面の動揺をさらに引き立てていた。彼女の瞳が私とメモを交互に見つめ、口元がわずかに震えているのが見えた。
「なによ、これ。そんなものが必要だなんて、あたし聞いたことないわ」
明の声は震えており、その中には息を呑むような驚きと深い不安が混じっていた。普段の彼女の理知的な冷静さが崩れ、感情の波が激しく押し寄せているのが私には明らかだった。その声が私の胸に鋭い痛みをもたらし、その痛みが私の心を深くえぐっていくのを感じた。
「だろうな。だが、これが解呪の真実だ」
私の言葉が部屋に静かに落ちると、明の手が震えながらメモを茉凜に差し出した。その手の動きが、彼女の内なる混乱を如実に物語っていた。
茉凜は恐る恐るメモを受け取り、まるで時間が止まったかのように、一文字一文字をじっくりと読み進めた。そのたびに、私の心臓もまた、鼓動を刻むように強く脈打っていた。
茉凜の表情が、メモの内容に対する深い理解と感情の動きを映し出しているのがわかった。やがて、彼女は顔を上げ、私をじっと見つめて言った。
「これが……弓鶴くんのお姉さんが遺したものなの?」
「ああ、そうだ」
私の声は冷静を装っていたが、心の中では深い痛みが広がっていた。彼女の問いかけには、私の心が裂けるような痛みが含まれていたのだ。
私、柚羽美鶴はもう死んでいるのだ。ここにいるのは、弟に取り憑いた、ただの亡霊だ。
「内容は全部理解できたわけじゃないけど……読んでいて、すごく悲しくなった。だって、この字の滲み……泣いてるもの……」
茉凜の声の震えには感情の波が混じっていて、彼女の痛みや哀しみが私に伝わってきた。それが私の記憶をより鮮明に呼び醒ました。
「とても辛かったんだろうね……」
「ああ……。姉上は、たった一人で何年もの間、血族の呪いを解こうと孤独に戦い続けていた」
「そっか……」
茉凜は静かにそう呟いた後、優しく言葉を紡いだ。
「わたしにはわかるよ。お姉さんは、弓鶴くんのことを本当に大切に思っていたんだね……」
茉凜の言葉に、私は言葉を失い、心の奥底で深い感情が渦巻くのを感じた。
彼女の声には、深い理解と共感が込められていることを感じていた。しかし、私は過去の痛みに正面から向き合うことを避けようとしている自分に気づいた。茉凜の優しさが、逆にその痛みを浮き彫りにしていた。
「そうだ。姉上は禁忌の色である黒を持った俺を守ろうと、自らを犠牲にして解呪に挑んだ。だが……その結果は失敗だった。本物の適格者でないにもかかわらず、愚かな事をしたものだ」
私が自らを嘲るその言葉を口にした瞬間、茉凜の表情が急に変わり、強い口調で私を叱責した。
「弓鶴くん、そんな言い方はやめて!」
その声には普段の穏やかさがなく、代わりに真剣な怒りと痛みが込められていた。
私は驚き、思わず茉凜の顔を見つめた。彼女の頬を伝う涙が、まるで刃のように私の心を貫いた。その涙のひとしずく一滴一滴が、私の心の中に沈む暗い感情に触れていくのを感じた。
普段あまり涙を見せない彼女が、こんなにも涙を流すのは、実は特別なことであり、その涙が他の誰かのために流れるものであることを、私は痛いほど理解していた。
「お姉さんは、あなたのために必死だったんだよ。この字を見たら、涙の痕を見たら、それくらいわかるでしょ。願いは叶わなかったのかもしれないけれど、その気持ちまで否定したらダメだよ」
彼女の声は震えながらも力強く、心の底から私を諭すようだった。
「……ほんとうに、大切な人がいたからこそ、何かをしようとしたんだ。それを、愚かだなんて言わないで……」
茉凜の言葉は切実だった。その瞬間、私は自分の無力さと情けなさを深く痛感した。私の中の罪悪感と自責の念が、茉凜の言葉によって一層強調され、その痛みが私の心の奥底に深く染み込んでいった。
「……茉凜の言う通りだ。すまなかった」
「うん……」
私が小さく頭を下げると、茉凜は涙を拭い、いつものように柔らかく微笑んだ。その笑顔には、悲しみと優しさが溶け合い、私の心に温かさと安堵をもたらしてくれた。
「ごほん、えーと……」
その瞬間、明が小さく咳払いをして割って入ってきた。
「それで、このメモの内容は確かなの? 筆跡がかなり乱れてるし、本当に美鶴さんが書いたものなの?」
明の疑念は鋭かった。確かに、我ながら見れば見るほどひどい字だ。私は冷静を装い、彼女に納得させる理由を適当に述べた。
「ああ、それは間違いない。姉上が密かに付き人に託して、叔父様に届けさせたものだ」と、私は意識的に落ち着いた声で説明を始めた。
「本来、姉上の筆跡は見事なもので、こんな乱れはまずありえない。だが、この状況では相当な焦りがあったんだろう。叔父様が情報を集めた結果、姉上の動向はすでに察知されていて、上帳に身柄を抑えられる寸前だったらしい」
明は私の話に耳を傾けながら、何かを考えているようにじっとこちらを見つめていた。そして、やや納得したように小さく頷き、次の疑問を投げかけてきた。
「それで、ここに書かれている、“絶対不可欠な最後の欠片”って、もう見つかったの?」
明の鋭い問いかけに、私は一瞬固まった。部屋の静けさが不自然なほど重く、胸の奥で冷たい圧迫感が広がった。心臓が激しく打ち、手のひらに汗がじんわりと滲んできた。
しばらく沈黙が続いた。私は深呼吸をし、心を落ち着けるように努めた。そして、静かに頷いた。
「それはもう、確保済みだ」
明の目が瞬時に鋭く細められた。彼女の期待と疑念が交錯するその視線は、私の言葉の重みを一瞬で察したようだった。
「それって、どこに?」
その問いに冷たい汗が背中を伝い、心臓の音が耳の奥で響く。頭の中で無数の考えが駆け巡り、明が知れば彼女がどれほど落胆するかを思うと、胸が苦しくなった。
茉凜は黒鶴の安定稼働にとって不可欠な安全装置であり、それだけでも明との立ち位置の違いは明白だった。明は自分の存在意義を見失い、悩んでいた。彼女の茉凜に対する感情は、単なる敵対心や嫉妬にとどまらなかった。自分の生きる意味そのものが脅かされるという恐怖が、彼女の心に深い影を落としていたのだ。ここで、もし明が「導き手」としての茉凜の役割を知ってしまったら、そのショックはあまりにも大きすぎるだろう。
そして、茉凜の運命もまた、絶対に後戻りできないものになる。彼女はまだ「導き手」が持つ真の意味や重みを完全には理解していない。私の言葉が彼女にどのような影響を与えるかはわからないが、それが明らかになるにつれて、彼女の心もまた重くなるだろう。
それでも、この瞬間を避けては通れないという確信が、胸を締め付けた。私はゆっくりと視線を移し、ベッドの端で何も知らない顔をしている茉凜を見つめた。
「それは、茉凜だ……」
私がその名を口にした瞬間、明の目が驚愕に見開かれ、口がぱくぱくと動いた。彼女の顔が青ざめ、手が微かに震え始めるのを見て、私の心はさらに苦しくなった。
茉凜が私に視線を向けたとき、その瞳に浮かぶのは困惑と微かな恐怖だった。彼女の声が震え、それが耳に届くたびに胸が締め付けられるように痛んだ。
「わたしが? わたしって、そんな大事なものだったの?」
その声には、茉凜自身が今まで抱えてきた疑問や不安が溢れていた。彼女は、この瞬間がどれほどの意味を持つのか、どれだけの重みがあるのかをまだ理解していないようだった。
私は、喉の奥の支えを押し殺しながら、ゆっくりと口を開いた。心の奥底で感じる苦しみを抑えながら、慎重に、そして優しく伝えるようにした。
「そうだ、茉凜……お前こそが、解呪の儀式に必要な最後の欠片。再生された根源が進むべき道を指し示す羅針盤なんだ」
私の言葉が空気をさらに重くし、茉凜の表情はますます硬直していった。彼女の手が無意識に毛布を握りしめ、指先がわずかに震えているのが見えた。
明は茉凜の困惑した様子を見て、言葉を挟もうとし始めたが、彼女自身もまだその事実を完全には受け入れられないようだった。
「……でも、どうしてわたしが?」
茉凜の声は、まるで何かに縛られたかのようにかすれていた。彼女の問いかけには、信じられないという感情と、自分がこの役割に選ばれたことに対する戸惑いがにじんでいた。
「わたし、そんなの何も知らないし。どうしてわたしなんかが……」
その言葉を聞いた瞬間、私は深い無力感に襲われた。私が答えられなかったのは、茉凜がこの事実を受け入れるのがどれほど難しいかを痛感していたからだ。
部屋の中に流れる沈黙は、まるで冷たい霧のように私たちを包み込んでいた。茉凜の震える声、明の切なげな視線、そして私自身の無力感が、あまりにも重くのしかかっていた。