第32話 茉凜の強さってなんなんだろう
文字数 3,728文字
「それに、茉凜には、どうしてか危機感がまるで感じられない。命が危ないかもしれない状況なのに、彼女は平然としている。明日には死んでしまうかもしれないのに、いつもと変わらない笑顔でいるなんて、私には理解できない。怖くないのだろうか?私だったら、そんな風に振る舞うなんてできない」
「それでも、一番不思議なのは、私が茉凜の人生を狂わせてしまったかもしれないのに、彼女がいつも笑顔で、まるで気にしていないかのように私を見てくれることだ。恨まれるどころか、『相棒だよ』なんて言葉をかけてくれる。そんな優しさを示されると、恥ずかしくてたまらない。どうして彼女は、こんなにも優しくできるのだろう。私だったら、絶対にそんなことはできない」
「それに、茉凜は本当にかっこいい。弓鶴より三センチくらい背が高くて、スタイルも良くて、まるでモデルのようだ。決して『美人』というわけではないけれど、その笑顔と堂々とした姿が彼女をとても魅力的にしている。輝いている彼女を見ると、どうしても心の奥底で少し嫉妬してしまう。かつての私なんて、根暗で背も低くて、スタイルだって良くなかったから、彼女のようになりたかったな、なんて思うことがある」
「しかも、茉凜は料理も私より上手だ。佐藤さんに教わりながら、毎日美味しいお弁当を作ってくれる。なんでもできる彼女が、ただただ羨ましい。私には、そんな余裕もなかったから」
◇ ◇
真凜は、私にとってあらゆる意味で『強い人』だった。その強さの源がどこにあるのか、私はよく考え込むことがある。
彼女が一年前に落雷事故に遭い、今でも左腕に力が入らず、左手の人差し指と中指がほとんど動かないことは知っていた。額の左奥には、人目を避けるように隠された傷跡もある。それを思い出すと、彼女の過去に対する私の理解が深まるような気がする。
それでも、彼女の瞳にはどこか優しさが宿り、そんな辛い過去を微塵も感じさせない。彼女がその痛みを乗り越え、今の自分を作り上げた理由が、私にはどうしても分からない。
ある日、私は何気なく彼女に昔のことを尋ねてみた。彼女はその質問に対して、少し驚いたような表情を見せたけれど、すぐに笑顔を浮かべて楽しげに話し始めた。その笑顔がどこか、彼女の心の奥深くにしまい込まれた痛みを隠しているようにも感じられた。
彼女が過去を語るとき、その話には悲しみや苦しみの色がなく、むしろ希望や楽しさが感じられる。まるでその痛みを過去の一部として受け入れ、それを越えた先にある新たな光を見ているかのように見える。そうした姿を見ていると、彼女が本当に何か特別な強さを持っているのだと確信せざるを得なかった。
◇ ◇
「それがもう、うまくいかないことが多かったんだよ!」
茉凜は笑いながら、目を輝かせて話し始めた。その話し方には、当時の苦労も楽しんでいた様子が溢れていた。
「練習って、上達するために難しい設定ばかりにするから、十回やって一回成功するかどうかって感じでさ。最初は本当に大変だったんだ」
彼女は、当時のことを懐かしむように振り返りながら続けた。
「でもね、そんな時に怒っちゃダメなんだ。自分を許してあげなきゃ。だって、一生懸命頑張ったんだから」
その言葉には温かさがあった。
「やり直すなら、まずは深呼吸して、どうして失敗したのかを考えて、次はどう攻略すればいいかを考えるんだ」
茉凜の声には、軽やかさと確信が混じっていた。
「これってお父さんからの受け売りなんだけどね」
彼女はその言葉を笑いながら付け加えた。その笑顔が、どこか誇らしげで、楽しげなもので、聞いているこちらまで楽しくなってしまうようだった。
「でも、自転車のトライアルってそんなところが本当に面白かったんだよ。トライ&エラーってね、それがすごくワクワクしたんだ」
その言葉には、当時の挑戦と喜びが、彼女の中で今も色鮮やかに残っていることが感じられた。
彼女は幼い頃から父親の影響を受けて、バイクトライアル(※)というスポーツに夢中になっていた。生まれて間もない頃から、父親の走りを目にし、その雄姿に憧れを抱きながら、自分もその一員になりたいと強く願っていた。
物心ついた頃には、すでに足漕ぎの自転車で父親の真似をして遊んでいたという。彼女にとって、その遊びは単なる模倣ではなく、将来の自分を形作るための第一歩だったのだろう。
そして、小学生になる頃には、父親から特別に自分用の自転車を贈られた。庭に作られたセクションで練習を重ねる日々は、彼女にとっての冒険そのものであった。何度も試行錯誤を繰り返し、失敗しても諦めずに挑戦し続ける過程が、彼女にとっては何よりも楽しく、充実した時間だった。
週末になると、真凜は家族全員で各地の練習場や大会に出かけていた。青空の下で仲間たちと笑い合い、競い合う時間は、彼女にとって何よりも喜びに満ちた瞬間だった。互いに切磋琢磨することで、彼女の中には、仲間たちとの絆と、挑戦することの楽しさが深く刻まれていった。
やがて、彼女はその努力の成果として、世界団体主催のユース大会に出場するほどの腕前を持つようになった。その成長を実感する毎日は、彼女にとって誇り高いものであり、さらに前へ進む原動力となっていた。
近所の子どもたちが次第に異なる興味や目標を持つ中、真凜はひたむきにその道を歩み続けた。周りが変わっていく中でも、自分の目指すべきものに対する情熱は揺るぎなかった。その姿は、周囲の変化にも左右されることなく、一途に進む強さと純粋さを映し出していた。
しかし、高校入学を目前に控えたその時、運命は彼女に残酷な試練を与えた。突然の落雷事故が彼女を襲い、その衝撃は身体だけでなく、彼女の未来までも一変させてしまった。奇跡的に命は助かったものの、左腕と左手がもはや以前のようには動かなくなってしまったのだ。自転車の油圧ブレーキのレバーすら握ることができないという現実は、彼女にとってあまりにも過酷で、深い打撃を与えた。
それまで全てをかけてきた夢が、一瞬にして砕かれたことは、真凜にとって耐え難いほどの喪失感をもたらした。彼女は自分の一部が取り去られたかのように感じ、心の中に広がる空虚さに苛まれていた。その広がる無限の空洞は、どんなに努力しても埋めることができず、彼女の毎日はその暗闇に包まれていた。
それでも、真凜は決して自分を完全に見失うことはなかった。彼女の心に光を灯したのは、事故以来繰り返し見た不思議な夢だった。その夢は、彼女がどこか異なる場所へと誘い込まれるもので、現実と幻想が交錯する不安定な世界の中で、彼女に新たな気づきをもたらしていた。
「いつまでも塞ぎ込んでたってしょうがないし、その夢に出てくる場所を探し出して、踏ん切りっていうか、自分の中で何かを変えようって思ったんだ」
その思いが彼女を旅立たせ、彼女はその旅の途中で私と出会ったのだ。この出会いが、彼女の人生を大きく変える転機となったのは間違いなかった。
普通なら、明日には命がないと言われたら、とても耐えられないはずだ。しかし、彼女はそれを受け入れ、むしろ生まれ変わる機会だと前向きに捉えていた。彼女の態度には、どんな困難も受け入れる強さと、変わることを恐れない勇気が溢れていた。
「わたしは事故で一度死んだも同然なんだし。だからこう思うの。せっかく生きているんだから、しっかりと生きなきゃねって」
彼女の微笑みとその言葉は、私の心に深く突き刺さった。彼女が示す力強さと前向きさには、私の心に灯りをともしてくれるような優しい光が宿っていたのだ。
私もまた、一度死んだも同然の存在だった。絶望から立ち上がる勇気を見つけられず、周りの世界が色を失い、時間が止まったような停滞の日々を過ごしていた。毎日が灰色で、未来に希望の色が見えなかった。もし真凜が現れなければ、きっと私はその停滞の淵から抜け出すことなく、ただ沈み続けていただろう。
彼女の言葉には、同じような痛みを経験しながらも、前を向く力を持っていた。その姿勢と強さに私は心から憧れを抱いた。
※バイクトライアル
自転車を用いるトライアル競技で、自然や人工物で構成された「セクション」という採点区間を、いかに足を着かずに走り抜けるかを競う競技。速さではなく正確で精密な操作技術が要求される。
一般的には専用の自転車を用いる。車体にはサドルは無く、ブレーキも油圧作動で指一本でガッツリ止まる。タイヤの空気圧は極低圧で、表面積を高めることでグリップ力が高い。一番の特徴は、フロントのフリーギアのノッチ数が多いこと。これにより小刻みな漕ぎに対応している。