第52話 演劇部にて
文字数 3,692文字
数週間前、彼は勇敢に戦い、仲間たちを守るために自らの命を賭けていた。破壊された村々が彼の背後にあり、前方には無数の魔族たちが押し寄せていた。彼の目には、燃え上がる絶望と仲間たちの痛ましい姿が深く刻まれていた。その戦いが終わるころには、彼は大きな傷を負い、左腕の自由を失ってしまった。
その日以降、彼は戦場での戦いの残像にただ佇む日々を送っていた。心の奥には、死にゆく仲間たちの影がちらつき、無力感と喪失感が彼を圧し続けていた。
ある日、迷いながらも歩みを進めたウォルターは、森の奥で淡い光に導かれ、ひとつの泉のほとりに辿り着いた。その光景は、彼の心に優しく深い感銘を与えた。
泉の水面には、少女が静かに舞っていた。その舞いは、水面にさざ波を立てるような優雅さを持ち、まるで夢の中の光景のようだった。少女の動きは、ひとつひとつが静かな音楽に合わせて踊るようで、その姿にウォルターの心はすっかり奪われていた。
ウォルターはその光景を見つめながら、心の中で過去の戦いを反芻していた。戦場で彼が目にしていたのは、常に絶望と混沌、友の血の色、敵の叫び声、炎の中で燃える破滅だけだった。しかし、今、彼が目の前にするのは、戦いとは無縁の美しい舞いだった。その景色に触れた瞬間、彼の心に眠っていた希望と夢が蘇り、複雑な感情が渦巻いていた。
少女の舞いを見ることで、ウォルターは自分が失っていたもの、つまり純粋な喜びや美しさへの感受性を再び感じ取ることができた。それは彼が戦場で築き上げた冷徹な姿勢とは正反対の、温かく優しいものであった。
「なんて美しいんだ……」
ウォルターは心の中で呟いた。彼の心には、過去の自分と現在の自分、そして未来への希望が交錯していた。
その舞いを見つめるウォルターの目には、かすかな希望の光が宿り始めていた。もしかすると、再び立ち上がるべき時が来たのかもしれないという微かな期待が彼の心に芽生えていた。しかし、その希望と共に、過去の影が常に彼の心に重くのしかかっていた。
少女の舞いを見つめるウォルターの胸には、希望と過去、そして新たな始まりへの期待が交錯していた。それは、彼が再び歩き出すための力となり、心の奥底から湧き上がる新たな決意を育む光景となっていた。
◇ ◇
放課後の演劇部室で、脚本と演出担当の高岸が待っていた。彼女は二年生で、私と同じ年齢。赤いフレームのメガネをかけ、ポニーテールを揺らす小柄な女子で、その活発な印象が特徴だった。私たちが部室に入ると、彼女は満面の笑顔で駆け寄ってきた。
「おおお、柚羽君、来てくれたんだ! 役を引き受けてくれてありがとう! これで、イメージ通りのキャスティングが完成するわ!」
その押しの強すぎる言葉に、一瞬、私は引いてしまった。どうやら彼女の中では、私が役を引き受けることが既定路線のようで、その情景を勝手に妄想しているようにも見えた。
胸の中に不安と戸惑いが押し寄せ、言葉がうまく出てこない。
「い、いや、俺はまだ引き受けるとは言っていない。断る前に話を聞きに来ただけだ」
「そうかそうか!」
高岸は私の葛藤には気づかず、勢いよく語り続けた。彼女の期待に満ちた目が、まるで私がすでに決断したかのように輝いていて、私の内心は混乱していた。彼女の熱意に押されて、引き受けるという選択肢が頭をよぎったが、心のどこかで「これでいいのか?」という疑問が燻っていた。
「柚羽君、あなたはこの役にぴったりなの! 我が校一の美貌はもちろんだけど、男の子が女の子の役を演じることに対する恥じらいや初々しさがこの役のイメージには重要で、きっとあなたならそれを自然に表現できるはず!」
その言葉に、私は赤面してしまった。高岸は私の正体など知らない。校内随一の美貌を誇る弓鶴が女の子の役を演じるとなれば話題にはなるだろうし、彼女は単純にそれを期待しているのかもしれない。しかし、それは私にとってただの演技以上の意味を持っていた。
「まずは詳しく話を聞いてからだ。それから判断させてもらう」
引きつった顔で答える私に、高岸はまだ妄想の世界から戻っていないようだった。心配になって、隣にいた灯子に小声で尋ねた。
「この人、本当に大丈夫なのか? こんな恥ずかしい役をやらされるなんて、不安しかないんだが?」
「まあ、彼女っていつもこんな感じだから。ちょっと妄想癖があって暴走気味だけど、仕事ぶりは確かだから。安心していいよ。それに、彼女の観察眼と直感は折り紙付きだからね」
「直感ね……」
灯子の言葉に少し安心したものの、私の不安は拭えなかった。女の子としての自分を隠してきた私が、役の中でどう表現すればいいのか全くわからなかった。
灯子の言葉を聞いた途端、高岸が急に真顔になり詰め寄ってきた。
「如月さん、あなた、話は通したって言ってなかった?」
「通したわよ? だからここに連れてきたんだけど、でもオーケーしたとは言ってないから」
「私はこれに命を懸けてるのよ。いい加減なことされると困るんだけど」
「こんなものに命を懸けるな」と言いたくなる衝動をなんとか抑えた私たちは、その後、高岸から劇のテーマやコンセプト、そして大まかなストーリーと役柄について説明を受けることになった。
テーマは「運命と自己犠牲からの救済」と「希望に向けての旅立ち」で、オーソドックスなボーイミーツ・ガールの物語だという。
配役は、主役の騎士に茉凜、ヒロイン役に私、敵の魔族将軍に洸人、その部下で右腕の戦士に明といった具合だった。
「どうして部員でもない私たちが?」と疑問に思いながらも、高岸の説明を聞くと、どうやら配役は「イメージ優先」と「意外性」を重視しているという。
そんな理由で、と頭が痛くなりそうだったが、高岸は既存のイメージを破壊したいらしい。また、彼女の直感はよく当たるのだというが、本当だろうか?
彼女の直感が、私たち深淵の血族の陰の部分、過去や独特の雰囲気を感じ取ったのであれば大したものだが、どうして主役に茉凜が選ばれたのかが納得できない。男である弓鶴を考慮すれば、主役は私だろうという気持ちが心の奥にひそかにあった。
高岸は私たちに、キャスティングの選択理由を熱心に説明してくれた。その言葉の一つ一つに、彼女の直感と情熱が込められていた。
やはり高岸は、私たちが放つ独特な雰囲気を敏感に感じ取っていたようで、それがファンタジー世界が舞台の演目にぴったりだと直感したのだと語った。その言葉には、自信と確信が滲み出ており、私たちにとっての可能性を示唆するようだった。
弓鶴の身体に亡霊のように憑依し、血族の宿願成就と本来の身体の持ち主である弟の魂を奪還しようとする私。血族の悲劇の連鎖に縛られ、生き方を捻じ曲げられてきた洸人と明。私たちの物語の深層が高岸の直感によって一層鮮明になったような気がした。
そして、高岸が「加茂野さんは、背が高くてすらっとしていて、男装したら絶対に映えると思うのよね」と熱く語るのを聞きながら、一瞬、「有名歌劇団の男役」を思い浮かべた。しかし、その直後に浮かんだのは、私と向き合う時の茉凜の温かくてのほほんとした表情だった。彼女の姿を想像するたびに、どうしても首をひねらざるを得なかった。
茉凜は弓鶴よりも三センチ以上背が高く、そのスタイルはファッションモデルのように見栄えがよく、男子よりも女子からの評価が高いのも理解できるし、私自身もその魅力を強く感じていた。彼女の堂々とした振る舞い方は、まるでステージを進む王者のようで、周囲の視線をものともしないその姿に、私はいつも安心感と頼もしさを抱いていた。
彼女は元々普通の女の子だったが、一年以上前に落雷事故に遭い、それまでの人生が破壊されてしまった。それでも彼女は私と出会い、それを契機に新しい自分に生まれ変わろうと決意した。その逆境から立ち上がる前向きな姿勢が、彼女の強さの根源であると私はよく理解していた。
私自身、茉凜に対して憧れのような感情を抱いていた。彼女と同じ舞台に立つことができたら、どんな風に感じるのだろうか。その堂々とした姿と、私本来の内面がどのように交わるのかを考えるだけで、心が高鳴った。けれども、心の奥底で「だめだ」と自分を押さえつけている自分もいた。
結局、私たちはその場で即答することを避け、脚本を持ち帰ってじっくりと読んでみることに決めた。これからどうすべきか、脚本の中にヒントが隠されているかもしれない。そのためにも、まずは冷静に内容を把握することが大事だと考えた。
部室に戻ると、再び静かな空気が流れ、私たちはそれぞれの思いを抱えながら、今後の道のりに対する不安と期待を胸に部室を後にした。