第45話 プールサイドでふたり
文字数 3,134文字
「待って! 行かないで!」
その叫びは、まるで美鶴としての私の心の叫びそのものであるかのように、力強く響いた。理屈なんてどこへやら、感情だけが全身を駆け巡り、必死に茉凜を引き止めようとしていた。自分でもなぜこんなに焦っているのか理解できないほど、心の中はただ彼女を失いたくないという強烈な願望でいっぱいだった。
茉凜はその声に驚き、足を止めて振り返った。その瞬間、私は深い後悔に襲われた。素直な自分をさらけ出してしまったことへの恐怖が、冷たい汗となって背中をつたっていった。
「弓鶴くん……?」
茉凜の声には、明らかな戸惑いが混じっていた。その声が私をさらに追い詰めた。彼女が心配そうに一歩、また一歩と近づいてくるたびに、私の心は不安と混乱に包まれていった。彼女との距離が縮まるほど、私の心はまるで締め付けられるような圧迫感を増し、恐怖がますます大きく膨らんでいった。
このままでは、彼女に全てを見透かされてしまうのではないかという恐怖が、私の中で暴走し、心の奥底から冷たい汗がじわじわと流れ落ちるのを感じた。茉凜の一挙一動が、私の心の中で激しい波紋を広げ、彼女がどこまで私の心の奥に迫ってくるのか、耐え難いほどの緊張感が漂っていた。
息が詰まりそうな沈黙が続く中、私は何とか言葉をひねり出そうとするが、喉が詰まったように声が出てこなかった。
プールの水面が静かに揺れる音だけが、私たちの間に広がり、その静けさがまた一層、私の心を追い詰めた。
意を決して、私はようやく声を出した。
「あの……」
その瞬間、茉凜も同時に「うん……」と声を発してしまい、お互いに驚きの目を合わせた。その瞬間、顔が熱くなるのを感じ、内心の混乱が一層深まった。視線を逸らそうとするも、茉凜の目が私を捉えたままで、どうしても逃れることができなかった。
「……すまなかった……」
私はそのまま頭を深く下げた。謝罪の言葉は心の底から絞り出したものであり、自分の罪の意識を少しでも軽くしようとしている自分がいて、情けない気持ちでいっぱいだった。
茉凜は驚いたように目を見開き、慌てた様子で手を振った。
「ちょ、ちょっと、弓鶴くん? 何してるの? そんなことしないでよ」
彼女の声には私の心を締め付けるような優しさと、焦りが混じっていた。顔を上げることができず、彼女の視線を避けるようにして、私は低く呟いた。
「俺は臆病で、言い出す勇気がなかった。何も言わず黙っていた俺が悪い。そのせいで、お前を傷つけて信頼を裏切った。謝罪は当然のことだ。この通り、頭を下げるしかない」
その言葉に、茉凜は静かに首を振り、優しげに私を見つめていた。彼女の反応が、私の心の痛みを和らげる一方で、茉凜の優しさが、私の罪の重さを一層際立たせ、心の奥底から切なさと悔恨がこみ上げてきた。
「ううん、違う。謝るのはわたしの方だよ。わたしが余計なことをしてしまったせいで、アキラちゃんを怒らせてしまったんだ。わたしの無神経さが、あんな結果を招いてしまった。彼女があんなふうに言いたくなるのも、仕方がないよ」
茉凜の言葉が、私の心に新たな重荷をもたらした。彼女の優しさが、私の中での自己批判と後悔の感情をさらに深めていった。
「いや、すべての発端は俺にある。茉凜は何も悪くない」
一度話し始めると、感情が次々に溢れ出してきた。彼女に対して本当に伝えたいことは、もっと別のことだったはずなのに、言葉がうまく出てこないもどかしさが私を苛んでいた。
そのとき、茉凜が次に発した言葉が、私の心を揺さぶった。
「……弓鶴くんは、本当は優しいんだよね」
驚いて顔を上げると、彼女は私を優しく見つめていた。その表情には、怒りも不安もなく、ただ温かい微笑みが浮かんでいて、私の心に穏やかな光を灯してくれるようだった。でも、それが今の私には辛い。
「そ、そんなこと……あるわけないじゃないか」
「ううん、わたしはあなたのすべてを理解しているわけじゃないけれど、時々、あなたの本当の姿が見える気がするんだ。これは決して錯覚なんかじゃないよ」
彼女の言葉を否定することはできなかった。彼女は私のことをよく見ている。四六時中一緒にいれば、どこかで素の自分が見えてしまう。それを茉凜が見逃すはずがない。彼女の言葉が、私の心の奥深くでひそかに芽生えた希望の芽を、ゆっくりと育てていくように感じていた。
「弓鶴くんは、わたしが傷つくんじゃないかって心配していたんでしょ。それがずっと気になっていたんだよね?」
その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。茉凜が私の心の奥底を見透かしているかのようなその一言に、胸が締め付けられた。
「さっきは、ほんとにごめんね。ちょっとイライラしちゃって、つい言い過ぎちゃった。でも、よく考えてみたら、弓鶴くんっていつも一人で抱え込みがちだよね。それを思うと、何も言えなかったのも無理ないって思ったんだ。アキラちゃんに対してもそうだし、わたしのことも……いろいろ心配してくれてたんだよね」
茉凜の言葉が、私がずっと抱えていた重圧を少しずつ和らげるように響いた。しかし、その優しさに甘えてしまったら、彼女に伝えるべき真実を話す勇気が持てなくなってしまうのではないかという不安が心の奥底に広がっていった。
「俺は……」
「しんどいよね……。でも、一人で全部抱え込む必要なんてないよ。だから、わたしはずっとそばにいたいって思ってるの。前にも言ったけど、わたしはあなたの痛みや悲しみを半分こしたいんだ。だから、もしよかったら、ちゃんと教えてくれたら嬉しいな」
彼女の言葉に、私の心が微かに揺れた。彼女の温かい気持ちが、私を支え、前に進む勇気を与えてくれるように感じた。これから先、私がしようとしていること、そして私が願っていることを、正直に話すべきだと心から思った。
彼女にはそれを知る権利があるし、私は嘘をついて彼女を欺くようなことはしたくない。彼女の優しさに対して、私も誠実でありたいと強く願っているから。
でも、どうしても明かせないことが一つだけある。それは、私が本当の意味で『私』ではないこと――美鶴とい名の亡霊であることだ。弓鶴の中に宿るこの私が、過去の影にすぎないということを、決して彼女に明かしてはならない。それだけは、絶対に……。
もし彼女がその事実を知ったら、彼女の心にどれほどの衝撃を与えるだろうか。その結果、私たちの関係はどうなるのか、恐ろしくて想像もできない。
いや、想像したくない。彼女が私をどう思うのか、どう感じるのか……そのひとつひとつが、私の心を揺さぶり、怖くて仕方がない。
もしも彼女が真実を知ってしまったら、私はもう私ではいられない気がする。彼女にとっても、私自身にとっても、すべてが壊れてしまうだろう。彼女の前で自分の正体を隠し続けることが、私にできる唯一の選択だと、そう信じていた。
だから私は、それだけは彼女には言えなかった。私が弓鶴の中で存在している理由を。その秘密を抱えたまま生きるしかないのだと、そう決意していた。私が、私であり続けるために。
前に茉凜は言ってくれた。私たちは二つの一つの翼なのだと。その選択が苦しみをもたらすものだとしても、私には残された道はそれしかない。
「わかった。茉凜には本当のことを知ってもらいたい……」
そして、私は彼女に開示できる限りの情報を明かすことにした。