第61話 扉を開けて 4
文字数 6,779文字
その声が、心に突き刺さるように届いた。舞を再開しようと足を踏み出した私の胸に、彼の切実な想いが響き渡って、心がぎゅっと締め付けられる。彼が私を呼び止める必死な声が、こんなにも苦しいなんて。けれど、私は振り返らない。振り返ってしまったら、もう動けなくなってしまう気がしたから。
その瞬間、泉の中から水音が聞こえ、私はその場で凍りついた。
泉に封じられている精霊が本当に動き出したら、私は精霊の世界に取り込まれてしまう。精霊と一つに溶けて、二度と戻れなくなる。それが私一人だけならいい。でも、彼がここに来たてしまったら……彼まで巻き込んでしまうかもしれない。そんなことは、絶対に許されない。
「来ないでっ!!」
必死に叫んだ声が、震えながら空気を裂いた。私の想いが、その叫びに詰まっていて、泉の周りにこだました。お願いだから、来ないで欲しい。私のせいで、彼を危険な目に遭わせるなんて、絶対に嫌だった。
「嫌だね」
背中越しに返ってきたウォルターの声は、低くて、そして私の気持ちを打ち消すほど強い意志がこもっていた。
「俺たちの旅がこんな形で終わるなんて、絶対に受け入れられない。君一人に責任を負わせるなんてできない。俺は君に仕える騎士だ。君がどこへ行こうと、俺はついていく。それが俺の誓いだ」
私は心の中で叫んだ。
「どうして、どうしてそんなことが言えるの?私があなたを裏切ったのに。冷たく突き放してを遠ざけたというのに」
彼の言葉はまっすぐで、私の心を強く揺さぶった。涙が溢れそうになる。だけど、振り返ることはできない。振り返ってしまったら、全てが崩れてしまう気がして……だから、私はただ、前を向き続けるしかなかった。
「だめ、来ないで。泉の精霊が動き出したら、あなたまで消えてしまう。消えるのは私だけでいいの、あなたまで死ぬことはないのよ!」
「それが主から命令だとしても、俺は断固として拒否する。理不尽な命令に従うつもりはない!」
彼の言葉が私の心に響くけど、どうしても理解できない。私の気持ち、私がどれだけ辛い思いをしているのか、彼は本当にわかっているのだろうか。それでも、彼を止められない私の心は、ますます混乱するばかりだった。
私たちのやり取りを見て、ヴィルギレスが再びあざ笑うように言った。
いいね。実に美しく、そして実に哀れだ。随行の騎士が報われない想いを抱き、それでも共に消えていくことを選ぶとはな。巫女殿、あなたは彼の気持ちを何も理解していないのか?それとも、理解していながら認めたくないのか?人間というのは本当に滑稽で、複雑だ。だからこそ、その苦悩がこんなにも面白い
その声には、私たちの苦しみを嘲笑う冷酷さが満ちていた。ヴィルギレスにとって、私たちの感情や絶望はただの娯楽でしかない。その事実が胸の奥に鋭く突き刺さるようだった。だが、彼が言う「報われない想い」とは一体何なのだろうか。
お前たちはとてもいい。これまでの連中とは全く異なる結末が見られそうだ
ヴィルギレスの言葉はさらに意味深で、まるで私たちの運命を予見しているかのようだった。心の奥底に、不安がどんどん広がっていく。
ウォルターはその嘲りにも怯むことなく、鋭い意志を宿した瞳でヴィルギレスを見返していた。
「なんだと!?」
ウォルターの声が冷たい空気を切り裂いて響いたが、ヴィルギレスはその言葉に構わず、冷ややかに続けた。
ふふ、お前たちは少し変わっている。巫女としての重責に悩み、そこから抜け出したいと渇望する女。そして、片腕を失い、誇りさえ捨てた役立たずの騎士。遠くからお前たちの旅を観察してきたが、主従の垣根を越えて、共に旅を楽しんでいたようだな。だが、その信頼は巫女の偽りによって成り立っていた。それゆえ、信頼が崩れ落ちるその瞬間は、実に見応えがあった。だが、騎士はまだ諦めない。それは愚かとしか言いようがない。うん、素晴らしい
ヴィルギレスの言葉には、歪んだ満足感と冷酷な楽しみが滲んでいた。彼の目には、私たちの苦悩や葛藤がまるで一興の劇のように映っているのだろう。
だが、ウォルターはその嘲りにも怯むことなく、鋭い意志を宿した瞳でヴィルギレスを見返した。
「だからなんだというんだ。心のないお前には理解できまい。この俺の気持ちが……」
ヴィルギレスは興味深げに、不気味な笑みを浮かべながら問い返した。
では、なんだというんだ? 言ってみろ
ウォルターは一瞬目を閉じ、深く息を整えた。その顔には決意の光が宿り、彼の全存在が震えるほどの強い意志を伝えていた。そして、胸の奥から絞り出すように、感情がこもった声で宣言した。
「俺を今動かしているものは、彼女への愛だ。それ以外の理由などないっ!!」
その言葉は、ヴィルギレスの冷たい嘲笑を力強く打ち返すように、周囲の空気を震わせた。
「うそ!?」
その瞬間、私の身体には雷に打たれたかのような衝撃が走った。彼の想いを込めた言葉が私の心に直撃し、信じられないという気持ちが波のように押し寄せた。驚愕と戸惑いが入り混じり、息を呑んで両手で口を押さえた。胸の奥では、何かがひび割れるような、痛くて切ない感覚が広がり、涙が溢れそうになった。私の心が彼の告白に打ちひしがれ、混乱と感動でぐちゃぐちゃになっていた。
ほう、ではそれを示してみるがいい。はたして絶望した巫女にそれを受け容れることができるのかな? ふふふ……
ヴィルギレスはその冷酷な嘲笑を響かせながら、ウォルターの前から下がっていった。
ウォルターはいつも冷静で、忠実な騎士として私を支えてくれていた。その彼が、私を愛しているだなんて、夢にも思わなかったし、信じることができなかった。彼の真剣な眼差しを目の当たりにし、逃げることができなくなっていた。
彼が示してくれた愛は、罪深い私にとってはあまりにも重く、痛いほどに真実だった。しかし、その重みを受け止めるだけの力が、私にはどうしてもなかった。
私は彼を裏切り、すべてを終わらせなければならないのだから。この先、私は消え去るしかない存在だ。そんな私に、彼の想いに応える資格などないし、その覚悟も持てない。
心の奥底で募る痛みと絶望が私を包み込み、彼の愛に応えるという選択がどれほど恐ろしいものであるか、はっきりと理解していた。私の心は、彼の思いを受け入れられないという現実と罪悪感に苛まれていた。
もう、どうすればいいのか全く分からなかった。舞を止めたら、ウォルターは魔族に殺されるだけでなく、世界も救えない。しかし舞を再開すれば、彼も一緒に消えてしまうのだ。
私はどうすればいいのだろう……。
ウォルターが私に向かってどんどん近づいてくる。その姿は恐怖を増幅させ、私の心を覆い尽くしていく。彼が一歩一歩近づくたびに、私の心臓はさらに早く脈打ち、全身が震え出す。
「いやっ! 来ないで! あっちへ行って!!」
私はあらん限りの力で叫んでいた。声が震え、私の恐怖がそのまま声に乗っているのがわかる。彼の顔に浮かぶのは、私に対する優しさだけで、私の叫びには耳を貸さない。どうしても止められない。
彼の温かさと、私の中の混乱と、自分の無力さと、どうしようもない絶望感に圧されながら、ただただ叫び続けるしかなかった。恐怖と混乱で頭がいっぱいで、体が動かせず、ただ立ち尽くしているしかなかった。
私の心はぐちゃぐちゃになり、どうしても解決策が見つからない。ウォルターが近づくたびに、その優しさが痛みに変わり、私の内なる葛藤がますます深まっていく。
彼が私に近づくたびに、その顔に浮かんだ優しい微笑みが、私の心に深く刺さる。どうしてそんなに優しい顔で、私を見つめるの?その笑顔が、私の中に広がる混乱を一層強めるだけ。
「どうして……どうして私の言うことを聞いてくれないの?」
私の声は震え、悲しみと焦りが入り混じった感情が溢れ出る。彼の言葉は、私の心の防壁をあっさりと打ち破っていくのがわかる。彼の目には、ただ優しさしか映っていなくて、私の叫びには耳を貸さない。どうしてこんなにも止められないの?
「だから、そういうのは嫌だと言っただろう? それと下手な嘘もな」
彼が少し不満げに言うと、私は何も答えられずにただ黙っていた。彼の真っ直ぐな瞳と、その言葉に、私の心の防壁がまるで紙のように簡単に崩れていくのを感じる。
でも、彼にどう答えたらいいのかわからない。頭の中はぐちゃぐちゃに混乱し、言葉が見つからず、息をするのも難しい。私の心は恐怖と混乱でいっぱいになり、彼の優しさがますます私を苦しめる。
どうすればいいのか全くわからない。何もできない自分に絶望を感じながら、彼の優しさと私の混乱が、心の中で激しくぶつかり合っていた。
「ごめんなさい……」
その一言が、消え入りそうな声で口から漏れた。自分の感情をどう伝えればいいのかも分からず、ただそれだけが言えた。言葉にならない想いと、心の中に渦巻く深い葛藤や無力感を、その一言に乗せるしかできなかった。涙がじわりと瞳ににじんでくるのを必死にこらえながら、彼の顔を見つめる。
彼は、その一言を静かに受け止めるように「うん」と頷いた。
「まあ、ややこしい話は後でいい。簡潔に行こう」
彼の声は落ち着いていて、私が抱えている混乱にも関わらず、冷静さを保っていた。それがかえって、私の焦りを増幅させる。何を言うつもりなんだろう。私の心臓は、不安と期待でさらに強く鼓動を打ち始めた。
「簡潔にって? どういう意味……?」
私が問いかけると、ウォルターはまるで答えを既に持っているかのように、何の躊躇もなく応じた。彼の言葉が、私の心を瞬時に大きく揺さぶった。
「改めて言わせてもらう。つまり、俺は君のことが好きだ。愛している」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いて固まってしまった。なんてシンプルで、どれほどストレートなのだろう。ウォルターの真剣な眼差しとその告白が近くで交わると、身体中が震え、顔が瞬時に熱くなった。こんな強い感情を感じたことは今までなく、喜びと戸惑いが頭の中でぐるぐる回り、思考が完全に停止してしまう。
どうしていいのかわからない。彼の告白に対して、自分がどう反応すればいいのか、心の中で混乱している。心臓が激しく高鳴り、言葉が喉に詰まって出てこない。彼の心からの告白が、私の全てを揺さぶり、喜びと驚きが交錯していた。
「どうした?」
ウォルターが微笑みながら私を見守っている。その視線が突然恥ずかしくなり、私は顔を背けたくなってしまった。彼の優しさと真剣さが、私の心に深く刻まれ、その場から逃げ出したい気持ちと同時に、彼にもっと近づきたい気持ちがぶつかり合っていた。心の中で翻弄される感情に、どうしていいのかわからなかった。
「でも、私はあなたに何も言わず、嘘をついて、裏切った……」
その後ろめたい思いが口をついて出てしまう自分が情けない。心の中でそのことを悔やみながらも、どうしても言葉が止まらない。ウォルターが優しく見守っているその姿に、ますます自分の無力さを感じていた。
しかし、ウォルターは嫌な顔ひとつせず、穏やかに言った。
「それは仕方がないだろう」
「え? でも……」
彼は私の手を優しく取った。その温もりが私の心にじわりと広がり、拒絶したいという気持ちはなかったが、その優しさが逆に私を困惑させた。どこかで逃げ出したい気持ちが湧き上がりながらも、その手の温かさにどう応じればいいのかわからなかった。
ウォルターはさらに優しく微笑みながら、言葉を続けた。
「君はとても優しい子だから、俺を傷つけたくなかったってことはよくわかる。なにせ、これまで随行の騎士は、真実を知ってみんな怖れをなして逃げ出したっていうしな。ははは」
彼の軽く笑い飛ばすその声に、私の心はまた揺さぶられた。彼の笑い声が、私の心の奥深くに触れ、その温かさと優しさに包まれる感覚が、複雑に絡まった感情を少しずつほぐしていくのを感じた。
「そういうわけでは、ないんですけど……」
私の言葉が、思いがけない感謝の気持ちとともに漏れた。その感情が、心の中で渦巻いているさまざまな思いと重なり、私をさらに困惑させた。
「で、君からの返事が聞きたいんだがな?」
彼の言葉に、私ははっとした。現実に直面しているその瞬間、心臓が激しく鼓動し始める。答えが決まっているはずなのに、口にするのが怖くて仕方がなかった。もし言葉にしてしまったら、彼はここに留まるだろう。その結果、彼に生きて欲しいという私の願いが叶わなくなるかもしれないという恐れが、私を苦しめた。
「それはだめだと思う。いまさら遅いです……」
私はそう呟きながら、状況がいまさら変わることはないと心の中で諦めていた。しかし、ウォルターは小さく微笑みながら言った。
「いまさらな状況だからこそだよ」
「えっ……?」
彼の言葉に私は驚いた。彼の考えが全く理解できなかった。心の中でさまざまな疑問が渦巻き、思考が混乱していった。彼の微笑みが私をいっそう不安にさせ、その目に込められた真剣さに圧倒されながらも、どう答えるべきかが全くわからなかった。
でも、彼は続けてこう言った。
「奴らは、たとえ君が泉を解放しても、俺を逃がしはしないだろう。サランは俺を殺したがっているしな。それに、これは他の騎士連中から聞いた話だが、過去の随行者は唯の一人も帰還していないそうだ」
ウォルターの言葉に、ヴィルギレスの狡猾さがさらに明らかになっていくのを感じた。言葉が喉に詰まって、私の胸の奥で苦しい感情が渦巻いた。
「ウォルター、それを知っていながら、なぜこの旅に?」
私は思わず訊ねてしまった。彼の決意が、私の心に重くのしかかる。
ウォルターは少し疲れたように深いため息をついてから、私の目を真剣に見つめた。
「俺は左腕がだめになって、一線で戦えなくなった落伍者だ。だからといって、戦うことしか知らない俺が普通の暮らしをするなんて、とても考えられなかったし、君に興味もあったから、どうせなら、とこの仕事を引き受けたのさ」
その言葉が私の心を打った。彼の過去と、彼が抱えた葛藤が、私にとって重い意味を持っていた。彼の決断が、私にどれだけの思いを込めたものであったかを理解した。
私はただただ黙ってその視線を受け止めるしかなかった。ウォルターの苦悩と勇気が、私の心に深く刻まれ、どう応えるべきかの答えを見つけられないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
「そんな……あなたは……」
「俺も君と同じさ。終わりが来ることを自分で選んでいたんだ。それを言えなかったんだから、おあいこだ」
ウォルターの言葉が、私の心に深く響いた。彼が私に寄せていた想いを知り、その重さにただ茫然とするしかなかった。彼がこんなにも真摯な気持ちで私を見つめていたことを、私は想像もしていなかった。
「君の旅の終わりがここで、世界を救う代償にここで消えるしかないというなら、それは俺にとっても同じだ。君の責任を、俺も背負う。どんな結果になろうと、俺は君を決して一人にはしない。それが俺の誓いだ。さあ、答えてくれないか、君の本当の気持ちを?」
ウォルターの覚悟と誓いが、私の心に深く刻まれた。彼の言葉に触れた瞬間、私の中で何かが変わり始めた。彼の覚悟が、私の苦しみや悩みと同じ重さを持っていると知り、どうするべきかを真剣に考えさせられた。彼の言葉が、私の心の壁を一つずつ崩していく。
私の内側で、葛藤と感情が激しくぶつかり合う中、彼の真摯な瞳が私を見つめている。どう答えるべきか、どう感じているのかが、自分でもわからなくなっていた。しかし、ウォルターの誓いと覚悟が、私の心を震わせ、決断を迫っていた。
そして、心の奥底で感じていた感情が、もはや隠しきれないほどに溢れ出してきた。それは単なる諦めではなく、安堵と幸福が入り混じった心地よい感覚だった。思わず息を呑み、涙がこぼれそうになったが、私は自分の感情に素直でいることを決心した。
深呼吸をして、心の中で固めた決意を持って彼を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「あなたがそう言ってくださるなら、私も勇気をもって応えます。最優の騎士ウォルター、あなたのことが好きです……。これからも、ずっと、ずっと私のそばにいてください」
私は彼の瞳に映る光に届くように願いながら、その言葉を吐き出した。心臓が鼓動を速め、全身が震えるような感覚があったが、それと同時に、ウォルターの表情が柔らかく、穏やかに変わっていくのを見て、安心感が広がっていった。
それは、私にとって生まれて初めての心からの告白だった。