第55話 衣装合わせと戸惑いと
文字数 10,930文字
彼女は窓辺に立ち、外の景色に目を向けていた。陽の光がその髪に降り注ぎ、柔らかい光の中で彼女のシルエットが美しく浮かび上がる。そんな彼女の背中に向かって、私は意を決して声をかけた。
「劇の出演の依頼だが、引き受けようと思う……」
「でも、いいの? 女の子の役だよ?」
振り返った茉凜の瞳がふわりと輝き、その声には期待とわずかな不安が混じっていた。彼女の表情は真剣さと心配が入り混じり、その自然な反応が私の心に響いた。
「弓鶴くん、ちょっと迷惑そうにしてたから、断るんじゃないかって思ってた。役柄を交代してもらえるなら、私かアキラちゃんがやってもいいかなとは考えてたんだけど……」
その言葉に、私は胸の奥がほんの少しざわめいた。茉凜の優しさが伝わり、自分がどう感じるかよりも、私のためを思ってくれている彼女の心遣いに心が温かくなった。
「本音を言えば、やっぱり抵抗はある。でも洸人が言ってたように、挑戦してみるのも悪くないと思うんだ。それに───」
そこで少し言葉に詰まった。茉凜の瞳がじっと私の言葉の続きを待っている。その仕草は無邪気さと期待が混じり、私の胸を突く。
「脚本がとてもよかったというのもある」
私がそう告げると、茉凜の目がさらに大きく開かれ、喜びの光が差し込んだように見えた。
「うん、そうそう。昨夜読んでみて、ちょっと感動したよ。お話としては普通かもしれないけど、メイヴィスの気持ちがとても切なくて、泣きそうになったし、頑張ってって応援したくなっちゃった」
彼女の話し方は感情が言葉に乗っていて、自然に伝わってくる。その純粋さに、私も自然と微笑んでしまう。
「俺もそんな風に感じた。だから、ちょっと興味があるんだ。とはいえ、俺に女の子の演技ができるとはとても思えないがな。お前はどうなんだ? 男の役だぞ? いいのか?」
私が苦笑いしながら言うと、茉凜は一瞬こちらを見つめ、その後すぐに勢いよく私の方へ駆け寄った。笑顔がふわりと広がり、その笑顔が全身に伝わるように軽やかだった。
彼女の右手がぎゅっと私の手を握った瞬間、その手のひらの温もりがじんわりと私に伝わってきた。柔らかく、優しく、しかしどこか決意に満ちた握りだった。茉凜は私の目をまっすぐに見つめ、声を弾ませながら言った。
「大丈夫。弓鶴くんがやるって言うなら、私も頑張るよ! 俄然やる気が出てきた。あーっ、楽しみだな!」
彼女の瞳が輝き、笑顔がさらに広がる。その表情は無邪気さと決意が混じり合い、まるで子供が新しい冒険に踏み出す瞬間のようで、私の心を完全に引き込んでしまう。
その瞬間、私の胸の中にあった不安がすっと和らいでいくのを感じた。茉凜の純粋な期待と、彼女から伝わってくる温かさが、私の心を優しく包んでくれた。
「茉凜がウォルターで、私がメイヴィスになる……」
共に一つの物語を紡ぎながら、彼女の期待に応えたい。何より、私は茉凜が心から喜ぶ姿を見たかった。その一心で、私は自分の一時の夢に縋ろうとしているのだと実感していた。
◇ ◇
その後、洸人と明に確認を取った。洸人は即座に了承してくれたが、明の反応が気になった。
明は少し視線をそらしながらも、どこか自嘲気味に口を開いた。
「弓鶴くんがやりたいって言うなら、やるしかないでしょ。ただ、ムカつくけど……」と、彼女は渋々ながらも賛同してくれた。けれど、その言葉の裏には、心の奥底で渦巻く複雑な感情がちらりと見え隠れしていて、私は胸が苦しくなった。彼女がどれほどの葛藤を抱えているのか、痛いほどわかる。
私としては、彼女がこれをただの劇の中の役柄と割り切ってくれることを、心から願うばかりだった。私自身も、そのつもりで臨もうと強く意識していたのだが、それがうまくいくかどうか、不安が拭えなかった。
放課後には演劇部の皆に、私たちが彼らを差し置いて役柄を演じることが正当なのかどうかを尋ねた。心の中では、彼らの期待を裏切らないようにしなくてはと、少し不安になっていた。
部長の坂上さんは、部の現状が非常に厳しいと説明してくれた。
部員が少なく、予算も限られていて、正直なところ私たちの助けが必要だという、坂上さんの話を聞いて、心から彼らを支えなければと決意した。私たちの出演が部にとって必要であり、少しでも力になれるのなら、精一杯努めようと心に決めた。
「僕たちは全力を尽くすつもりです。ただ、演劇の経験がまったくないですし、特に僕の場合、女の子の役など全く自信がありません。その、すみませんが、一から教えていただくことになると思います。どうか、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げると、彼らは「任せて」と力強く答えてくれた。その言葉に、ほっとした安堵感が広がった。
ただ、準備期間は一ヶ月少ししかない。演劇部の指導とサポートがあるとはいえ、果たしてどこまでできるのか、不安が募るばかりだった。それでも、全力を尽くすしかない。役作りも稽古も、何もかもが初めての挑戦だが、一つ一つのステップを大切にし、少しでも期待に応えられるよう、心を込めて努力するしかない。
◇ ◇
そこから、怒涛の日々が始まった。毎日の訓練を欠かさず行い、それ以外の時間は勉強もそっちのけで、ひたすら演劇に向けたトレーニングに費やすことになった。
最初は体力的にも精神的にも非常に厳しかった。朝から晩まで続く稽古に、筋肉が悲鳴を上げ、心は限界を感じていた。しかし、次第にこの新しい挑戦が、私の日常の一部となっていった。練習の合間に鏡で自分を確認し、役柄に近づくために一歩一歩前進する自分を見つめるうちに、次第に演劇の世界に没頭する自分がそこにあった。
新しい役に対する理解が深まり、稽古場でのひとときが、日々の疲れを忘れさせるほどの楽しさをもたらしていた。仲間たちと共に汗を流し、時には笑い合いながら、少しずつ形になっていく役柄に心から喜びを感じるようになった。挑戦は続くが、それを乗り越えた先にある達成感を信じて、全力で取り組む毎日が続いていった。
衣装については、予想外の展開となった。出演者全員が、基本的に制服をベースにした衣装で済ませることになった。理由としては、観客の大半が在校生であるためだという。キャラクターたちが「等身大の人間」として描かれることで、観客が自身を重ねやすくし、感情移入しやすくなる狙いがあったとのことだ。
しかし、実際のところは、予算の制約が大きな理由だった。衣装費用を抑えるためには、役柄への理解と演技力が一層重要になるという現実があった。
この方針により、私たちはより一層役作りや演技の向上に力を入れる必要があった。制服という限られたコスチュームの中で、どうやってキャラクターを表現するかが大きな課題となり、それに応じた演技の工夫が求められた。衣装の制約があるからこそ、一層深い役作りと演技力が求められ、その挑戦が私たちを一丸となって取り組ませる要因となった。
ただし、ヒロインである私と主役の茉凜だけは別扱いだった。
茉凜に関しては、男性の役であるため男子の制服姿で、コスプレ小道具として剣を持たせるという、一見シンプルでありながらもどこかユニークな設定が施されていた。彼女の役柄に合わせて、少しファンタジー色のある装飾が加えられたのだ。
さらに、左腕が不自由な茉凜を主役とするための配慮として、当初から「ウォルターは戦傷で左腕が満足に動かせない」という設定が組まれていた。
脚本読みの段階で、彼女のために特別な設定が施されていると知った瞬間、私の心は微かにざわめいていた。部の皆が茉凜に寄せる気遣いと優しさを感じ、それをどう受け取るのか、彼女の反応が気になった。
「茉凜、このウォルターの設定について、どう思う?」
休憩時間の合間に、私は軽く問いかけた。茉凜は少し考え込むように視線を落とし、眉を寄せたが、その後、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
「少し驚いたけど……むしろ、ありがたいかな。これで、気にせず演技に集中できるし、ウォルターにそういう背景があるのもすごく面白い展開になると思うんだ」
茉凜の微笑みは、彼女がこの配慮を真正面から受け入れ、前向きにとらえていることを表していた。その笑顔が、じんわりと私の胸に暖かさをもたらした。いつもそう。茉凜は、困難な状況でも前を向いて進んでいく力強さを持っている。
「お前がそう思うなら、俺も安心だ」
彼女が期待を膨らませている様子を見て、私はふと、ウォルターというキャラクターが、彼女自身の心の深い部分と重なっているのではないかと感じた。
一方の私はというと……
「おい、これを俺に着ろっていうのか?」
眉をひそめて尋ねると、高岸が満面の笑みを浮かべながら、自信たっぷりに華やかな白のドレスを差し出してきた。その瞬間、私の心臓が激しく打ち、顔が引きつった。恐怖と驚愕が私の体を包み込み、呼吸が急激に浅くなっていくのを感じた。
「どうして俺だけこんなものを? 本気で言っているのか?」
震える声で問いかけると、ドレスの柔らかな光沢が私の目に映り、心の奥に冷たい波紋が広がった。目の前に突き出されたそのドレスが、私の内面に深いショックをもたらし、手がかすかに震えるのを抑えながら、周囲を必死に見回した。しかし、部員たちは私の困惑に気づいている様子もなく、どこを見ても誰も助け舟を出してくれることはなかった。
「これが試練というものか……」と呆然とつぶやきながら、頭の中が真っ白になり、言葉が喉に詰まって出てこない。ドレスの華やかさと自分の無力さが交錯し、心の奥底に深いショックと絶望感が広がっていった。胸の中に押し寄せる不安と恐怖が、私を立ち尽くさせる。
深い溜息をつきながら、私は手にしたドレスをじっと見つめるしかなかった。
確かに、弓鶴の体は男の子としては少し頼りない印象が拭えない。背はそれほど高くないし、体つきも華奢で、肩幅も狭い。弓鶴自身がこの外見をどう感じていたのかはわからないけれど、彼の体を使って生きる中で、私は無意識に女である自分を忘れようと、少しでも「男らしくなろう」としていた。
毎朝、トレーニングルームで汗を流し、体を鍛えた。もっと筋肉を付けて、弓鶴の体が男らしく見えるように努力した。けれど、彼の体質のせいなのだろうか、体が引き締まることはあっても、思うように筋肉が付かなかった。
だから、もしかしたら、という思いはあった。でも、今目の前に広げられたドレスに対して、どうしても抵抗感があった。この繊細で美しい生地に包まれた自分を想像するたびに、違和感と興味が入り混じり、心がざわついた。男の子の体でこのドレスを着ることが何を意味するのか、それは私にもはっきりとはわからない。
「男らしさ」という概念と弓鶴の体と、女の子としての私。その両方が交錯し、私はドレスを手にしたまま、しばらく動けずにいた。
◇ ◇
よく見ると、ドレスは精緻なレースが光を受けて煌めき、ハイカラーとフリルの袖が優雅に広がり、後ろで結ばれたリボンが完璧に整えられていた。スカートの裾はふわりと広がり、その装飾はまさにヒロインが着るべき衣装そのものだった。
本音では、その美しいドレスに「これって素敵だな」と感じてしまう私もいた。それでも……
「どうしても俺が着なきゃならないのか? 男としては尊厳の部分で複雑な気分なんだが」
予想していたとはいえ、これほど華やかなドレスを着るように言われては困ってしまう。今の私は弓鶴で、男の子の身で似合うはずがないと感じていた。
それにも関わらず、高岸は私の衣装姿を既に脳内で妄想していたらしく、「もう、ぜったい似合うから!」と譲らなかった。その確信に満ちた言葉に、私はただ呆然とするしかなかった。
このままだと、物陰に引っ張り込まれて強引に着替えさせられかねない勢いだったので、恐怖に駆られてしまった。
「わかった! 着る、着てみるから、自分で着替えるから、ちょっと待ってろ」
強がりながらも、ドレスを手に取り、部室の仕切りの向こうに逃げ込んだ。背中で仕切りを押し開けると、ドレスの裾がふわりと揺れる感触が心に深く刻まれた。
仕切り越しに茉凜が心配そうに私を見守っていた。その視線を感じるたびに、不安と恥ずかしさが混じり合い、顔がますます赤くなっていった。心の中では動揺が募り、ドレスを手にするたびにその重さが心に重くのしかかる。自分がどこまでこの試練に耐えられるのか、ただただ不安でいっぱいだった。
「弓鶴くん、大丈夫? 手伝おうか?」
茉凜の声が優しく響き、その響きに私はますます顔を赤らめた。どうしてこんなにも恥ずかしいのだろうか。ドレスを手にした私の手が震え、心臓が異常な速さで鼓動しているのを感じた。
「一人でできる! 着た後で、おかしくないか見てくれ」
自分の気持ちをなんとか整理しようとしたが、着たこともない繊細なドレスを一人で扱うのは予想以上に難しく、どうしたらよいか悩むばかりだった。ドレスの生地が指先で触れるたびに、心がくすぐられるようで、余計に不安が募った。
「せっかくきれいな衣装なんだから、大切に扱わないと。予算だって限られているんだし」
「来るな、来るなって」
「だめっ」
必死に拒絶したにもかかわらず、茉凜は有無を言わさず仕切りの中に入ってきた。彼女の優しい瞳が私を見つめると、私の心はますますざわめき、言葉を失ってしまった。彼女の存在が近づいてくるたびに、私の恥ずかしさと困惑がより一層深まっていった。
「女の子の服なんて慣れてないから、着るの大変でしょ? わたしが手伝ってあげる」
彼女の言葉に、私はさらに顔を赤らめながらも、「いい、なんとかする。あっちへ行ってろ」と必死に強がった。
「もう、強がりなんて言ってる場合じゃない。はい、服脱いで脱いで」
茉凜がそう言いながら、優しく近づいてきた。彼女の声に含まれる親しみと優しさに、私はどうしようもなく心が揺れてしまった。ドレスを抱きしめるようにして身構えている私に、茉凜は優しく手を差し伸べてきて、その姿に自然と後退りしてしまった。
彼女の優しさには他意がないことはわかっていたが、その親切さがかえって私の恥ずかしさを一層引き立てた。
「えええ……」
茉凜に迫られ、私は顔が急に熱くなり、どうしても気恥ずかしさが抑えきれなかった。彼女の無邪気な微笑みが、私の内心にさらなる羞恥心を引き起こしていた。
「しょうがないな」と茉凜は少し呆れた顔をしながら言った。
「なに恥ずかしがってるの? 男の子でしょ?」
「それはそうだが……」
その言葉を聞きながらも、私はどうしようもなく窮するばかりだった。海水浴のときですら肌を晒すのが恥ずかしかったのに、こんなドレスで女の子のように着飾る状況と、茉凜に着替えを見られることを考えると、どうしようもないほどの恥ずかしさがこみ上げてきた。
「ほらっ、早く」
彼女の急かすような声が耳に残り、私の手はどうしようもなく震えた。茉凜の目の前で服を脱ぐという行為が、心の奥深くで激しい動揺を引き起こしていた。いつもとは違うこの状況に、心臓が痛いほど強く脈打ち、その鼓動が全身に響いていた。背を向けているのに、茉凜の視線が鋭く突き刺さるように感じてしまうのは、彼女が特別な存在だからだろう。
私は女であるにもかかわらず、彼女の前で服を脱ぐことに意識せずにはいられなかった。茉凜が私にドレスを着せてくれる間、私は緊張で体をこわばらせ、目を閉じていた。彼女の柔らかな髪の香りや優しい息遣いが、間近で感じられ、そのたびに心臓が胸の奥でさらに早く脈打ち始めた。茉凜の温かさと優しさが、私の心に複雑な感情を巻き起こしていくのがわかった。
「はい、できた。うん、よく似合ってるよ」
茉凜の言葉が響き、私はゆっくりと目を開けた。ドレスの滑らかな生地が肌に触れる感覚を確認しようと、無意識に体を動かしてみる。しかし、男性の身体で女性の衣装を纏っていることに、どうしても違和感が消えず、心の中に小さな不安が募っていくのを感じた。
「これ、本当に大丈夫なのかな……?」
心の中で自問自答しながら、華やかなドレスの装飾やシルエットが、自分には不釣り合いに感じられた。鏡がないため、自分の姿を正確に確認することができず、ますます不安が募っていった。
茉凜のことを考えると、緊張と恥じらいが一層強まった。彼女が私のこの姿をどう思っているのか、心の中でそのことでいっぱいになり、頬が赤くなり、視線を床に落としてしまった。
「恥ずかしいけど、どうにかしないと……」と心の中で呟きながら、自分の不安を振り払おうと必死だった。その努力も虚しく、緊張感が体を締め付け、内心では自分を見せることへの不安が募っていた。
「うん、いい感じ。あとは見てもらってチェックだね。さぁ、いこうか」
着替えが終わると、茉凜は私の手を取って、優しくも強引に仕切りの外に引っ張っていった。私は赤面しながら、俯くしかできなかった。彼女の手の温かさと、私の心の不安が入り混じり、足元がふわふわとした感覚に包まれていた。茉凜が私を引っ張るたびに、心臓がさらに早く脈打ち、体中に緊張が広がっていった。
◇ ◇
部室の空気が緊張で重くなり、私の心臓は急速に脈打ち始めた。部員たちの視線が一斉に私に集中し、そのプレッシャーに耐えながらどうにかして落ち着こうと努めた。そこに高岸の「ほうっ!」という驚きの声が部室に響き、私の不安はますます募っていった。
自分がこの華やかなドレスを本当に着ていいものなのか、心の中で自問自答せずにはいられなかった。
高岸が満足げに頷きながら、キャスター付きの姿見を部室の中央に押してきた。その笑顔が、私の不安をさらにかき立て、心の中で自分に対する疑念がふくらんでいった。まるで高岸の笑顔が、私の不安を引き裂くために存在しているかのように感じられた。
「え……」
鏡の中に映る自分を恐る恐る見つめると、そこには予想外の光景が広がっていた。映っているのは、弓鶴でも過去の私でもなく、まるで物語のヒロイン、メイヴィスそのものだった。ドレスが光を受け、夢の中から現れたかのような装いに包まれていた。
鏡の中に映る自分を見つめながら、心が揺れ動くのを感じた。緑色のウィッグがまだ届いていないにもかかわらず、目の前の光景は息をのむほど美しかった。そこに映っているのは、ただの自分ではなく、まるでメイヴィスその人が息づいているかのようだった。
その美しい姿に心を奪われた私の口から、自然と台詞がこぼれた。
「……巫女といっても、私は精霊の泉に捧げられる生贄みたいなものだから。そうするために生まれて、そのためだけに生かされてきた。外の世界も知らず、人並みの幸せなんてきっとやって来ないって思っていたから、ちゃんと生きてみようだなんて、考えたこともなかった……」
言葉が鏡の中の私と深く結びつき、胸の奥で静かに響き続ける。頬に伝う涙が、その感情の深さを物語っていた。鏡に映るのは単なる衣装ではなく、自分の心の奥底に潜む物語そのものだった。この瞬間、私はメイヴィスとしての自分に心から感動し、どこかで本当に彼女になったかのような錯覚を覚えていた。
この美しい装いと共鳴し、心の中で抑えきれなかった感情が一気に溢れ出してきた。メイヴィスとして生きることの意味を、初めて実感した瞬間だった。
台詞を言い終えると、部室の空気が一変した。周囲の人々が一斉にどよめき、私はその反応に驚き、周りを見渡す。皆が黙ってじっと私を見つめており、その視線の意味が掴めず、心が不安でいっぱいになった。その不安が深まる中、沈黙が流れ、何かまずいことでもあったのかと焦りが募った。しかし、その予想とは裏腹に、皆の表情が明るくなり、目が嬉しそうに見開かれた。
「こいつはすごい! 予想以上だ」
「柚羽くん、衣装よく似合ってるよ。これならいける!」
演劇部の部員たちから次々と声が上がり、その熱気に私は少し戸惑いながらもほっとした。彼らの賛辞に安堵し、少し緊張が解けるのを感じた。茉凜は満面の笑みを浮かべ、明はびっくりした表情で口を押さえていた。灯子と洸人は拍手をしながら称賛していた。
しかし、その盛り上がりの中で高岸だけは、どこか不気味な笑みを浮かべていた。彼女の瞳は狂喜に満ちており、その表情がさらに私の緊張を高めた。
「これほどとはっ……。完璧だっ、このキャスティングで演目は既に成功したといっても過言ではないっ! 私の目に狂いはなかった!」
高岸は感動に打ち震えながらガッツポーズを決めていた。そのあまりの情熱的な様子に、私は「なに? この人こわい」と少し引いてしまった。彼女の興奮が、部室の雰囲気を一層緊張感漂うものにしていた。
「今からそんなことを言っていいのか? 俺にはそんな自信なんてない。それに……」
言いかけて、私は思わず言葉を止めた。
キャスティングがイメージ通りにはまったとはいえ、肝心なのは演技の質だ。自分が本当にその役に合っているかどうか、期待に応えられるかどうかは全く不透明だった。自信がないままでは、不安が募る一方だった。
そのとき、高岸が意外な反応を見せた。
「柚羽くん。私は本当に嬉しいよ。脚本の意図をしっかり汲み取ってくれてるんだね」
「え? いや、そういうわけじゃないんだが」
「いやいや、さっきの台詞まわしは完璧だったよ。私がイメージしているメイヴィスそのままと言っても良いくらい」
「まさか、嘘だろ?」
驚きと半信半疑の気持ちが入り混じっていた。自分の演技にそんな自信を持つなんて考えられなかったから、信じられない思いでいっぱいだった。
「本当だよ。君はまさにメイヴィスそのものになりきっていた。短期間でここまで役作りできるとは驚いたよ。君には演者としての素質が十分にあると思う」
「買い被るのはよしてくれ。俺は特に意識してやっていたわけではない」
私はただ自分の過去と現在の感情を重ね合わせただけだと思っていた。演技に対する自信はなく、ただ役に入り込むことで必死に自分を表現しようとしただけだったからだ。
「マジで? だとしたらすごいことだよ。つまり自然に役を落とし込めるってことだからね。普通に考えていきなりできるなんてありえない。もしかして、君はどこかで演技した経験があるの?」
「あるわけないだろうが」
冷淡に答えたつもりでも、心の奥では自分がこれまでどれだけ演じてきたかを振り返っていた。私は演技をするつもりなどなかった。だが、人生の中で何度も異なる役割を演じてきたことを思い出していた。
深淵のお飾りの巫女として、解呪のために生きた時間、そして今は弓鶴としての仮面を被りながら生きる日々。これらの役割が私の一部になっていることを感じていた。演じることが、生きるための一部となっていることを。
それを認識しながらも、演劇部の皆が称賛するほどの成果を出せる自信は持てなかった。どこかで、私は自分が本当にその評価に値するのか、不安に思っていた。皆の期待に応えられるのか、その不安が心の中でぐるぐると渦巻いていた。
高岸の話が続く中、私の心は複雑な感情で揺れていた。自分の経験と実力に対する疑念と、他人の評価との間で揺れる気持ちが、心の中で混ざり合いながら、どうにも整理できずにいた。
私は彼女が語るメイヴィスというキャラクターの物語が、自分の内面に潜む部分と深く重なっていることに驚きながら、その役にさらに没入していくことを考えていた。メイヴィスの物語は、私自身の内面に入り込み、その葛藤や感情までが私の心に重なっていく。まるで物語の一部として自分を再発見するような感覚だった。
役に没入することで、自分の一部をさらけ出すことになるのではないかという不安もあった。その一方で、物語に対する深い理解と愛情が私を虜にし、強く駆り立てていた。
そして、「これは演劇なのだから、割り切ってやればいい」と、自分に言い聞かせていた。内なる葛藤と向き合いながらも、その挑戦に立ち向かう気持ちが心を満たしていた。
遅れてやって来た部員が、私にメイヴィス役用の緑色のロングヘアーのウィッグを差し出してくれた。それをつけてもらい、鏡の中の自分を見つめると、まるで別人になったような感覚に包まれた。ウィッグがふわりとした髪のように顔の横に流れ、ドレスの精緻なレースがまるで光の粒子のように輝いていた。背筋を伸ばした姿勢、肩にかかるフリルの柔らかさ、全てが今まで経験したことのない新しい感覚を与えていた。
茉凜の声が、とても柔らかく聞こえた。
「弓鶴くん、とっても綺麗だよ」
その言葉に、胸が一瞬のうちに熱くなった。彼女にそう言ってもらえて嬉しくて、とても照れくさかった。嬉しさと恥ずかしさが混じり合い、心が暖かく包まれた。
次々と部員たちの反応が寄せられた。高岸の感嘆の声や、他の部員たちの驚きの声が部室の中に響き渡った。
「まるで本物のお姫様みたいだね!」と誰かが言うと、さらに周囲の視線が集まった。その期待と称賛の中で、自分が本当にこの役にふさわしいのかという不安が交錯していた。
「どうだい、どうだい?」と高岸が私に声をかけてくる。その問いかけに対して、私はただ頷くしかなかった。
鏡の中の姿を見て、確かにヒロインらしさが現れていると感じられて、これが本当に弓鶴なのかと信じられないくらいだった。そして、それはきっと、抑えられない私自身が溢れ出た結果なのだと理解していた。
「これからが本番だね」と、茉凜が優しく微笑みながら言った。
「わたしたちみんなで、この劇をいいものにしていこう」
その言葉に、心の奥底から力が湧き上がるのを感じた。彼女の期待に応えたい、彼女と共にこの舞台に立ち、物語を作り上げることで、自分の役割を全うしたいという気持ちが一層強くなった。
部室の空気が一瞬のうちに変わり、緊張感と期待が入り混じった雰囲気が漂っていた。私は周囲の視線を感じながらも、茉凜の言葉とその温かい支えに、少しずつ自信を取り戻していった。
「そうだな……」
私は茉凜に答えながら、彼女の瞳をじっと見つめた。彼女と一緒なら、きっとどんな事でも乗り切れる。そう思っていた。
「さあ、気合を入れてもう一度やってみよう」と、高岸が声をかける。私も茉凜も、これからの挑戦に向けて気持ちを新たにし、次の稽古に臨む準備を整えた。