第26話 冷酷王子と町娘
文字数 3,882文字
真凜が「その方が気楽だから」と提案してくれたとき、私はただ頷くだけで精一杯だった。表面上は冷静を装っていたけれど、その内側で戸惑いがじわじわと広がっていた。
彼女の優しさが、私の冷たく固まった心にぶつかり、まるで氷のように頑なな部分を溶かそうとしているかのようだった。彼女の温かさが私の心を温める一方で、その変化に対する恐れや不安が常に心の奥に潜んでいた。彼女の笑顔や優しい言葉が、私にとっては心地良いけれども、同時にそれを受け入れることで何か大切なものを失ってしまうのではないかと感じていた。
彼女の存在が、私の心に静かに影響を与え続けている。真凜の優しさが私にとっては温かい光でありながらも、その光に包まれることで、私の心の深い部分に新たな感情が芽生えてしまうことを恐れていた。彼女が差し出す温もりに触れるたびに、自分の心が少しずつ変わっていくのを感じながら、その変化に対する複雑な感情を抱え続けている自分がいた。
◇ ◇
新しい学園生活が始まることになった。四月の爽やかな空気が、少しだけ私の緊張を和らげてくれたけれど、新たな環境への不安は拭えなかった。真凜と私は、虎洞寺氏が理事長を務める【翡創学園】の高等部に一年生として通うことになったが、心の中では既に複雑な思いが渦巻いていた。
真凜は事故の影響で留年し、私も出席日数が足りなかったため、同じく留年することになった。幸いにも、私たちは異なるクラスになると知り、少しだけ安堵したものの、同じ学校で過ごすことには不安があった。
初登校の日の朝、私は決意を固めて真凜に忠告した。「学校では俺に近づくな、話しかけるな」と。理由を説明することはできず、ただ「面倒だからだ」とだけ伝えたが、真凜の目には理解できないという表情が浮かんでいた。
彼女の視線が私の心を揺さぶったが、自分が築き上げた「氷の王子様」という仮面を崩したくなかった。それが、私の本当の気持ちを守るための盾となっていたからだ。でも、私がどれほど冷たい態度を装っても、心の奥では真凜の存在が深く影響を与えていた。
学校に到着したとき、私は真凜を先に行かせようとしたが、彼女は右手で私を強引に引いて、一緒に歩き始めた。驚きと困惑が混じった私の心は、彼女の無理やりの行動に対抗しようとしたけれど、真凜の力は予想外に強く、私を引きずるようにして校舎へと歩かされた。
彼女の強引さと、それにも関わらずどこか優しさを感じさせるその力に、私は心の中で葛藤していた。彼女の手が私の手に触れるたびに、何かが崩れていくような気がして、その感覚にどう対処すべきかがわからなかった。
周囲の生徒たちの視線が私たちに集まり、私はその注目に顔が熱くなるのを感じていた。心の中では、「どうしてこんなことになったのか」と悔やむ思いが渦巻いていた。
真凜の背は弓鶴である私よりもずっと高く、スタイルはファッションモデルのように美しく、その堂々とした姿が周囲の視線を集めるのは当然のことといえた。
彼女が背筋を伸ばし、自信に満ちた態度で私を引っ張って歩く姿は、まるで太陽のように眩しく、私の心に強く印象づけられていった。その堂々たる振る舞いが、周囲の目を一身に集める中で、私は新たな感情が芽生え始めるのを感じていた。
「だから面倒なことになると言ったんだ」と不機嫌そうに口にしたが、彼女は「なあに、気にしない気にしない」と、明るい笑顔で答えていた。彼女の笑顔と、周囲を全く気にしないその姿勢は、私の内面に大きな影響を与えていた。
真凜の存在が、私の心の壁を少しずつ崩していく様子に、私はどうしようもない混乱と共に、新しい感情が芽生えていくのを感じていた。
その後、真凜は休み時間になるたび私のクラスにやって来ていた。無視しようと心に決めたが、彼女の一途な行動には戸惑いが募るばかりだった。
◇ ◇
しばらくしないうちに、虎洞寺邸で一緒に住んでいるという事実もすぐに広まり、まるで私たちが「同棲している」とでも言わんばかりの変な噂が立ち、私はただただ頭を抱えるしかなかった。真凜はそんなことなど気にもせずに、無邪気な笑顔で毎日を楽しんでいるようだった。
そんな中で迎えたある昼休み。真凜が手作りのお弁当を持って私の元にやって来た。彼女の笑顔はまるで春の陽光のように眩しく、私はその温かさに胸が締め付けられるような気がした。
彼女が私の机の上にお弁当を差し出し、「これ、一緒に食べようよ」と言った。弁当箱の蓋が少し開いていて、中から漂ってくる香りが私の食欲をそそる。周囲の生徒たちの視線がじりじりと感じられ、私はその圧力に圧倒されていた。
心の中で「無視しよう」と決めていたが、彼女の笑顔に押されて、どうしてもその決意を貫けなかった。「やめろ」と声を低くして言うのが精一杯だったが、真凜は微笑みを崩さずにお弁当をさらに押し寄せてきた。
その頑固さに苛立ちを覚え、ついに手を払いのけてしまった。弁当箱が彼女の手から滑り落ち、床に音を立てて転がる。教室全体がその音に反応し、一瞬にして静まり返った。
私の心はその瞬間に冷たい汗をかき、全ての視線が自分に注がれているのを感じた。真凜の驚きと困惑が交じった表情に、胸の奥で自己嫌悪が広がり、ただただその場の空気に押しつぶされるような思いだった。
真凜が弁当箱を見下ろし、驚きと悲しみが一瞬だけその瞳に映ったのを見たとき、私は自分の行動のひどさを深く理解した。彼女がただ私に優しくしようとしていただけなのに、私はその善意を踏みにじってしまった。胸の奥で締めつけられるような痛みが広がり、居たたまれない気持ちに押しつぶされるようだった。
言葉を発することもできず、私はただ教室を飛び出してしまった。廊下を駆け抜けながら、心の中で「どうして、あんなことをしてしまったの」と繰り返し自問し続けた。真凜の笑顔、あの優しさが私をどれだけ温かく包んでくれていたのかを思い返し、その後悔と自責の念はますます深くなっていった。
一人になりたくて、私は人が少ない場所を探し、学校の屋上へと向かった。冷たい風が頬を撫で、その冷たさが心の中の混乱を少しだけ和らげてくれるようだった。空を見上げ、深呼吸を繰り返しながら、自分の愚かさを噛み締めていた。
「私はなんてことを……」と小さく呟くと、その言葉は風に流され、どこかへ消えていった。私の内心の苦悩が、空に溶けていくような感覚に包まれながら、自分の行動に対する罪悪感と悲しみに深く沈んでいった。
灯子は私と真凜の噂を耳にし、教室を通り過ぎたときに先ほどの騒動を目撃していたようだった。私はその場から逃げるようにして去ってしまい、彼女の存在にも気づかなかった。その後、彼女は真凜に近づき、何とかフォローしたのだという。
だというのに、私の彼女に対する反応は無関心で冷たかった。
「だからどうしたというんだ。あんな人の気持ちもわからないおせっかいなど、迷惑なだけだ」
すると、灯子は私の冷たい言葉に少し首を傾げてから、優しい眼差しで答えた。
「あなたって、本当に変わってしまったのね。昔はそんな人じゃなかったのに……。言っておくけど、人の気持ちがわからないのはあなたの方じゃないの? いい? 理由はどうあれ、彼女にあやまりなさい」
その言葉は、私の心の奥深くに鋭く刺さった。灯子が去った後、私はただ立ち尽くしていた。自分の冷たさがひどく悔やまれ、心の中で反省が広がっていった。
昼休みの終わり、廊下で真凜と偶然出会ったとき、私は目を合わせることもできず、ただ通り過ぎようとした。彼女は静かに立っていて、その姿に私は立ち止まり、心の奥底に隠れていた感情が一気に溢れ出すのを感じた。
「すまなかった……」と呟くのが精一杯だった。その一言が、私の最大の謝罪だった。
真凜は、私の言葉に驚いたような表情を浮かべ、目をぱちくりさせた後、ゆっくりと優しく微笑んだ。その笑顔は、彼女の頬に小さなえくぼを作り、温かさを感じさせるもので、彼女は両手を前に軽く組んで、まるで心から受け入れるようにした。
「ううん、あれはただの弾みみたいなものだから、全然気にしてないよ。でも、いつもお昼を食べてないみたいだから、身体のことが心配で、少しでも食べてもらえたらと思ったんだ。だって、相棒の健康管理は大切だからねっ」
彼女の言葉が、私の心に少しの変化をもたらした。真凜が優しく手を振りながら、少し照れたように笑っている姿が、私の心に温かさを運んできた。言葉にはできない感謝の気持ちが込み上げた。
「心配かけてすまない。これからはちゃんと食べるようにする……」
私の言葉に対して、真凜は再び嬉しそうに微笑み、その笑顔が私の心にじんわりと温かさを広げた。彼女の無邪気な優しさが、私の硬く閉ざされた心に小さな光を差し込んでくれるようだった。それはまるで冷えた体が徐々に温まっていくような、じんわりとした変化だった。