第65話 死刑宣告
文字数 7,231文字
でも、視界がふっと暗くなり、私の意識はそこで途切れてしまった。そこからの記憶は全くない。ただ、冷たいシーツの感触だけが、ここが現実であることを私に教えていた。
どうしてあの時、何が起こったのか、わからない。身体は重く、まるで自分のものではないように感じられていた。
誰もいないこの部屋で、私は一人、静かに思い出を辿りながら、胸の奥に渦巻く寂しさを押し込めていた。それでも、なぜか冷静だった。泣きたくても涙は出ないし、感情すらも麻痺しているように感じた。私がどこに向かおうとしていたのか、わからないままでいた。
◇ ◇
私は自分のしてしまったことに耐えられなくなり、舞台から逃げ出した。胸の奥に広がる恐怖と罪悪感を抱え、茉凜から遠ざかるように、校庭の隅に立ついつもの木にたどり着くと、その幹に縋りついて泣いた。木の冷たい感触が少しだけ現実を思い出させてくれるけれど、心の中の痛みは消えなかった。
しばらくすると、茉凜が私を見つけて追いかけてきた。彼女は私を探し出し、優しい声で話しかけてくれた。茉凜のその声が耳に届くと、心がさらに締め付けられるようだった。こんな私を見つけて、どうして怒らないんだろう?叱られるべきは私なのに、彼女は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれた。
私は、そんなことをされる資格なんてない。茉凜の優しさに甘えるなんて、してはいけないことだ。それなのに、あの瞬間、彼女に抱きしめられている自分がとても嬉しかったのだ。救われた気持ちになってしまった。心の中で、こんなに悪いことをしている私が、彼女にこんなふうに慰められるなんて許されないのに。
その時、私は「メイヴィス」という仮の姿を借りて、茉凜に縋ってしまった。彼女に本当の私として抱きしめてもらうことはできない。だから、せめて別の誰かとしてなら――その卑怯さに気づいていながら、私は彼女のぬくもりに甘えてしまった。本当はもっとずっと触れていたい。でも、私は私のままでは茉凜に触れることも、気持ちを伝えることもできない。弟の体に閉じ込められた私が、彼女に触れるためには、仮の顔に頼るしかなかった。
こんな自分がひどくて、情けなくて、茉凜の前で何も言えない私自身が、どうしようもなく嫌になる。それでも彼女に触れてしまう。
私は茉凜に、ずっと憧れていた。彼女のかっこよさ、優しさ、そして笑顔――その全てが、私の心を支えてくれた。彼女がいなかったら、どれだけ私が孤独だったか、想像もつかない。日常が繰り返される中で、私はますます彼女に惹かれていった。茉凜がいるだけで、世界が少しだけ温かく感じられた。
「メイヴィス」という役を受けたのは、洸人が言ったように、脚本上の運命に囚われた巫女という設定に、自分を重ねたから。そして何よりも大きな理由は、茉凜が私の相手役だったからだ。彼女と一緒に舞台に立てる、彼女と近くで見つめ合う――それだけで十分だった。
舞台の上では、彼女と手を取り合い、役柄として抱きしめてもらえる。その瞬間は、現実の私には手に入らない夢のようなひとときだった。黒鶴の発動時以外では、こんなに彼女と近づくことなんてできない。だからこそ、舞台の上で触れるその手には、特別な意味があった。
たとえそれが役柄上の偽りであっても、私にとっては嘘ではなかった。茉凜に触れ、彼女の温かさを感じることができる。それは、私にとってとても大切で、現実にはない特別な瞬間だった。
私はいつも彼女の優しさに救われ、彼女の笑顔に惹かれ続けてきた。そしてその気持ちは、舞台上での「メイヴィス」としてだけではなく、私自身のものだった。それがどれだけ危ういものか、どれだけ脆くて儚いものか、わかってたけれど、やめられなかった。
メイヴィスはウォルターと共に、精霊の泉で静かに舞った。その姿には一片の悲壮感もなく、まるで全てが輝いているかのように手を取り合い、「ずっと一緒にいようね」って、そんな甘い約束を交わしていた。希望に満ちた彼らの未来がそこに広がっていた。
彼らには、私たちには決して訪れない幸せな結末が用意されていた。厳しい試練の道が待っていても、それを共に乗り越えると、二人は信じて疑わない。どんな苦難があっても、彼らは手を取り合い、共に歩んでいくことを望んでいた。
そう、それが私がずっと見たかった「ひとときのゆめ」だった。彼らの幸せな姿に、自分を重ねたかったのかもしれない。現実では手に入らないけれど、せめて舞台の上でだけは、その夢のような光景に浸ることができた。
本当はその余韻の中で、ずっとその夢の世界に留まっていたかったのに――私は、"私"に戻ってしまった。
現実の自分に引き戻され、夢は儚く消えていった。彼らの幸せは私にはない。メイヴィスの姿を借りて、そのひとときを味わっただけで、結局、私は現実の自分に戻らざるを得なかったのだ。
私の夢は終わってしまった。夢の中では、彼らは希望に満ちあふれ、幸せな未来が約束されていた。それに比べて、私はどうだろう。茉凜に抱かれるあの瞬間すら、偽りの姿に頼るしかない私が、彼女に本当の気持ちを伝えることなんて、到底できない。
急に、虚無感が押し寄せてきた。幸せに満ちたメイヴィスの物語が終わった瞬間、私の背後には、怖ろしい末路が黒い口を開けて待っていた。メイヴィスにはウォルターがいて、ずっと一緒にいられるというのに、私はすべてを失う運命にある。それが怖くて、羨ましくて、嫉妬めいた感情すら湧いてきて、胸を締め付けた。
目の前に立つウォルターの姿は、もう茉凜にしか見えなかった。彼女を放したくない――その衝動が私の全身を駆け抜けた。抑えきれない感情が膨れ上がり、理性がどこかへ消えていった。
私の心に潜んでいた感情が、どうしても抑えきれなくなったのだ。
茉凜は、舞台の出来事を役柄上のトラブルだと言って、私を気遣ってくれた。彼女は表向きには平静を保っているように見えたけれど、私にはわからない。心の奥底では、彼女がどう感じているのか。ショックを受けていないはずがない。でも、彼女は何も言わない。それが、さらに私を不安にさせた。
そして、明もまた複雑な心境に違いない。茉凜と明との関係を支える“休戦協定”のような微妙なバランスを、私は壊してしまった。二人の間に築かれた繊細な距離感を、私の行動が破壊してしまったのだ。
その意味はとても重いものだろう。茉凜に対して抱いている気持ちを、自覚しながらも隠していた私が、とうとうその線を越えてしまったのだから。
私の中には、茉凜への強い思いと、それを隠し続けることへの葛藤があった。けれど、あの瞬間、私はそれを抑えきれなかった。
私は、なんて愚かなんだろう。
◇ ◇
その後、ドアが静かに開き、医者が入ってきた。彼は虎洞寺氏の古くからの親友、
新城医師は私の正体を知っていたが、極めて現実主義的な彼は、そのことを特別視することなく、私を普通の男の子として扱ってくれた。そのざっくばらんで率直な態度は、私にとって心地よいものでありながら、一方でどこか心の奥底にぽっかりと開いた穴を感じさせた。それは、彼が私の抱える複雑な内面を完全には理解できないという現実から来るものだった。
彼の目は私を深く見つめ、静かな声で告げた。
「言いにくいことだが、君が言っていた最も恐れていた事態が、今まさに現実のものとなりつつある。これは、ただ事ではない。極めて深刻な状況だと言わざるを得ない」
その言葉が、私の身体の内部で静かに進行していた異常の正体を示すものであることを、私は即座に理解した。
「俺はオカルトなど信じない。現実に根ざした医療こそが真実だと信じてきた。だから、かつて君が話していたことを受け入れる気にはなれなかった。しかし――」
彼は言葉を切り、深いため息をついた後、私の体内を映し出したレントゲンとMRIの画像を、大きなタブレットに映し出し、指で拡大して見せた。その画面に映し出された画像には、私の身体の各所に点々と白い影が浮かび上がっていた。それらは、まるで暗闇に潜む静かな脅威のように、冷たく無機質な現実としてそこに存在していた。
「これが現実だ……」と彼は言った。その声には、耐え難い現実に直面した苦悩が色濃く滲んでいた。彼の指がタブレットのスクリーンを示し、画像に映し出された結晶体の輝きがその言葉を裏付けていた。
「俺が信じたくなかったことの証明だ。まったくばかげているとしか言いようがないが」
彼の声は、科学と信念の狭間で揺れる彼自身の内面の葛藤を露わにしたもので、彼の信じる医学の枠を超えているという痛切な認識が含まれていた。
「すべて君が予見していた通りだった」
その言葉は、私の中でぐっと沈み込むような感覚を呼び起こした。最初から避けられない運命が、今まさに現実のものとなっているのだという冷厳な認識が広がっていた。
「そうですか……」
私の答えは、受け入れざるを得ない現実の受容に過ぎなかった。言葉では表現しきれない深い混乱と虚無感が、私の心の中で波のように押し寄せていた。
「検体を採取して、今調べてもらっているが、一見してこれは人体の内部で生成される物質ではないと感じた。まるで磨かれた宝石のようにきらきらと輝いているんだからな……。こんなものが体内で発生するなど、到底考えられない」
声が深刻さを増し、彼の表情には不可解な事態に対する驚愕と無力感が色濃く表れていた。結晶体の異常な輝きが、彼の信じる医学の枠を超えた現実の証拠であり、その異物の存在が医師の技術と知識の限界を超えていることを示していた。
「でしょうね……」
私の短い答えは、彼の言葉に対する同意であり、私自身の受け入れの証だった。自分の体内で進行している変異は、当然起こるべくして起きたもので、何の驚きもなかった。
「これが、君が言っていた精霊子の
「はい……」
医師の問いに対して、私は淡々と答えた。その言葉は、現実と不可思議の狭間で揺れる私たちの立場を明確にするものであった。
「そうか、無茶苦茶だな……」
彼の言葉は、驚きと失望を隠せないまま、私の内面の困難さを反映していた。
私が直面している運命が、医師の理論や信念をも超えた、未知の領域であることは、明白な事実だった
「ええ、無茶苦茶ですよ、こんなの……」
私の答えは、現実の厳しさと私自身の内面の混乱を反映していた。それは、医師の苦悩と私の運命が交錯する中での、唯一の理解できる真実だった。
私よりも遥かに素質に恵まれた、デルワーズが言うところの“儀式の適格者”である弓鶴でも限界はいつか来る。これ以上黒鶴を使って器の容量を拡大させようとすれば、体内の結晶はますます増殖し、肉体への負荷が増加していくだろう。それは、耐え難い苦痛と生命維持の危険をもたらすことになる。
それはかつて私自身が体験し、確かに実証された現実であり、避けがたい終焉が刻一刻と迫っていることを告げるものであった。
私には大きな決断が求められていた。手をこまねいている暇はない。この弓鶴の身体が朽ち果てる前に、彼の意識と記憶を取り戻し、その無垢な日常へと還すために、急いで解呪の道を進まなければならない。
私の心臓が鼓動するたびに、その白い影たちが微かに揺らいでいるように見えた。それは、私の恐れが生み出した幻影なのだろうか。それとも、これが私の運命の一部として告げる真実の姿なのだろうか。
新城医師は私の体内の画像をじっと見つめながら、目に浮かんだ深い苦悩を隠すことはなかった。彼の顔には、その信頼される経験と知識が映し出されている一方で、根深い迷いと戸惑いが交錯していた。
「俺は医師として、数え切れないほどの症例を扱ってきた。どんなに複雑な症状でも、解決策を見いだす自信があった。しかし、君の体内に存在するこの異物は、俺の医学的理解を根本から覆すものだ」
彼は一瞬、言葉を飲み込み、深く息を吐いた。彼の声は重く、痛みを含んでいた。
「俺は、深淵のような非現実的な存在が許せないと常に思っていた。だからこそ、現実主義を貫き、医療の現場では根拠のある科学を信じてきた。しかし、この現象は、その信念さえも揺るがすものだ。俺は医師として、この事実をどう受け入れればいいのか、もはや途方に暮れている」
彼の眼差しは、科学と信念の狭間で揺れる深い苦悩を映し出していて、自身が直面している現実の矛盾を物語っていた。彼の手がタブレットのスクリーン上の画像を指し示すと、その光景はただの医学的なデータを超えて、私の体内で進行している見えない脅威を如実に示していた。
「この結晶体は単なる異物ではない。君の体内で生成される物質が、通常の生体反応とは全く異なる形で増殖している。これが人体に及ぼす影響は予想もつかない。おそらく、結晶体がさらに増殖すれば、体内の器官や組織に深刻な影響を及ぼすだろう」
新城医師は苦悩の表情を浮かべながら、私に説明を続けた。
「結晶体が増殖すればするほど、その影響は多方面に及ぶ可能性がある。まず、体内の正常な機能が圧迫され、内臓の機能障害や循環系の問題が発生するかもしれない。また、体内の結晶体が増えることで、体の各部位で異常な圧力がかかり、激しい痛みや不調が引き起こされる可能性も高い。さらには、体全体の代謝が乱れ、免疫系にも影響を及ぼすかもしれない」
彼は言葉を続けながら、眉間に深いシワを寄せた。
「最悪の場合、これらの影響が積み重なることで、命に関わる状況に陥る可能性も否定できない。結晶体の増殖が止まらない場合、身体の機能が限界に達し、耐えがたい苦痛や生命の危機が迫るかもしれない。その場合、余命が限られることも考えられる」
新城医師は、まるで私の体内で進行するこの不可解な現象に対して、自身の医学的知識と信念が打ち砕かれるという深い葛藤がにじんでいた。
「君の体内に存在するこの結晶体が、今後どのような影響を及ぼすのか、そしてそれに対する治療法が見つかるのか、現時点では何も確定できない。ただ、この現実を受け入れ、最善の方法を模索するしかない」
彼は、決して揺るがぬ信念で支えられていたはずの医師としての役割と、目の前に広がる現実の矛盾とに直面し、深い苦悩に包まれていた。
◇ ◇
部屋から新城医師が去った後、しばらくしてから茉凜と明がやってきた。彼女たちの顔には心からの心配が浮かんでおり、その表情が私の心に重くのしかかっていた。
舞台上でのトラブルが頭から離れず、私は冷静を装おうと必死に努めたけれど、内心では恐怖の渦に呑み込まれ、冷や汗がじわりと滲んでいた。
彼女たちの優しい視線を受けていると、自分がどれほど平静を装っても、その裏に隠された深い不安があからさまに現れてしまいそうで、どうしようもなくなった。
解呪への希望を抱き、私のために尽力してくれている彼女たちに、この真実を伝えることはできなかった。明が言ったように、解呪は命を賭けた戦いだ。その言葉の本当の意味を彼女はまだ知らない。彼女がどれほど強い意志を持っていても、これから向かうであろう試練の恐ろしさを完全には理解していないだろう。彼女の目にはまだ、私が抱えている恐怖の重みなど見えていない。
茉凜がこの事実を知ったなら、彼女が受けるショックは計り知れない。彼女がどれほど強靭な心を持っていても、この現実を受け止めることは難しいだろう。彼女にこの暗い現実を明かすことがどれほど辛いことか、私にはわかっていた。彼女がどれほどに私を支えてくれても、この事実を知ったとき、彼女の心がどれほど深く傷つくかを想像するだけで、私の胸は締めつけられた。
さらに、茉凜が「導き手」であるかどうかもまだ確証が持てていない。もし彼女が「マウザーグレイル」を宿しているなら、解呪の儀式は成功に近づく。だとしても、それはあまりにも大きなリスクであり、その不確実性が私の中でそれを明かすべきかどうかの葛藤を生じさせていた。
彼女たちのために最善を尽くしたい一方で、その決断がどれほどの影響を及ぼすかを考えると、私の心は重く沈んでいった。
彼女たちの前で微笑むことがどれほど難しいかを痛感していた。彼女たちの希望を裏切りたくはなかった。私が抱えている重荷を彼女たちに背負わせるわけにはいかないという気持ちが、私の心にずしりと響いていた。
私の心は、一層深い迷宮へと迷い込んだように感じていた。彼女たちの存在が、私の決断と行動に対する重い責任を、一層際立たせていた。その責任の重さに押し潰されそうになりながらも、私はただひたすらに進んでいくしかない現実をひしひしと感じていた。
「もう、『今のまま、このまま』ではいられないんだね……」
その言葉が、心の中で静かにこぼれ落ちた。彼女たちの前で平静を装いつつ、私は避けられない運命に向かって歩むしかない現実を、ひしひしと感じていた。自分の中で進むべき道が決まっていくのと同時に、周囲の人たちに対する感謝と責任感が交錯していた。