第60話 扉を開けて 3
文字数 7,178文字
薄暗い光の中で、私の心は静かに震えていた。泉の水音が耳元に囁くように響き、まるで遠い昔から語り継がれてきた悲しみを伝えているかのようだった。どうして世界は、私を拒絶しようとするのだろう?私に何度も絶望を押し付け、私が選び取った自由さえも試すように。
この舞に込められた巫女たちの想いを感じるたび、私の胸に刻まれた悲しみが少しずつ染み渡っていくような気がした。彼女たちは命を捧げ、泉のために生き続けてきた。それが、私の運命でもあった。
だけど、ウォルターと出会って初めて知った。悲しみの中にも、心の奥底に眠る自由への強い願いがあったのだ。彼と過ごす時間は、まるで希望の光のように私の心を照らしてくれた。
だから私は、あなたを選んだ。あなたの手を取り、短い間とわかっていても、一緒に歩むことを決めた。でも、それが正しい選択だったのか、今でもわからない。もしかしたら、間違っていたのかもしれない。
もし、私がただの従者としてあなたを見ていたなら、私はすべて正直に話していたのかもしれない。
けれど、あなたは私を王家の一員としてではなく、一人の女の子として見てくれた。年下の、世間知らずの、わがままな私を。その瞬間、私は戸惑いながらも、心の奥で胸が温かくなった。顔がほんのり熱くなるのを感じて、自分でも驚いたけれど、それがどれだけ嬉しかったかを忘れることはできなかった。
ウォルターと過ごす時間は、私にとって特別で大切なものになっていった。彼のことを考えるたびに、胸がふわふわして、心が少しだけ弾むのを感じた。そんな私を受け入れてくれたあなたに、どれだけ感謝しているか、言葉では言い表せない。
だからこそ、私は今、この泉と接続して舞うことを選んだ。あなたが私に与えてくれたたくさんのものへの感謝と、償いの気持ちを込めて───これは、私があなたに贈る最後の贈り物。
これまでずっと守られてきた私が、今度はあなたを守る番だ。あなたが生きていける世界を、この命をかけて守りたい。もしそれができるのなら、私はそれ以上何も望まない。
これがあなたとの最後になるかもしれないと思うと、心がきゅっと締めつけられるように悲しいけれど、それでも、この選択が私にできる唯一のことだと信じている。あなたのために、自分で選んでやりたいことなんだ。だから、後悔はしない。
彼の笑顔を思い浮かべるたびに、心の中でこの温かい想いがじんわりと広がる。泉の力が私を包み込み、私の意志を力強く支えてくれる。その中で、彼を守るために舞うことが、私の使命であり、心からの願いだと確信している。
最後の瞬間まで、あなたのために、私の全てを捧げる覚悟を持って、精霊の泉の力と共に舞い続ける。あなたが安心して生きられる世界を作るために、私の心を込めて、全力で守り抜く。それが私の誓いであり、最後の贈り物なのだ。
◇ ◇
恐れることなく泉の中へと足を踏み入れると、冷たい水が肌に触れ、瞬く間にその水面が淡い光を放ち始めた。まるで泉が私を歓迎してくれているかのように、光は優しく私を包み込み、私の心に穏やかさをもたらした。
自然に体が浮かび上がり、水面を滑るように進むたびに、胸の奥が静かに震えていた。泉の真ん中へと進むその瞬間、私の胸は高鳴り、命を捧げるという決意の証を強く感じていた。
遠くから、ウォルターとサランの剣がぶつかり合う音がかすかに耳に届く。その一撃一撃が響くたび、私の胸に鋭い痛みが走った。振り向いて、彼の姿を一目見たい衝動が押し寄せてくるけれど、私はその衝動を必死に抑え込んだ。今、振り向くことはできない。振り向いてしまったら、きっと私の決意は崩れてしまう。
だから、私はもう振り向かない。前に進むだけ。
もし振り向いてしまったら、彼の顔を見てしまったら、決意が揺らいでしまうかもしれない。だから、私はその痛みを噛み締めながら、歩みを止めない。心の奥に彼への想いを閉じ込めて、ただ前だけを見つめ、泉の光に導かれるまま、私の役目を果たすために。
この瞬間こそが、私がずっと覚悟していた運命なのだと、強く自分に言い聞かせて。
風が冷たく頬を撫でるたびに、私は自分の内に届く精霊の声に耳を澄まそうとする。白い衣が風に揺れる感触は、まるで精霊たちが優しく私を包み込み、心の奥まで温かさを届けてくれているようだ。
深く息を吸い込むと、胸の中にある鼓動が静かに響き、自然と体が舞いの流れに乗って、優雅に動き出す。泉の上を一歩ずつ踏みしめながら、私は精霊たちと一体になっていく感覚に包まれた。
指先から足先まで神経を研ぎ澄ませると、まるで水中を自由に泳ぐ魚のように滑らかな動きが体を支配し、鈴の音が静かに空気を揺らす。その音に呼応するように、泉の水面に広がる波紋は、精霊たちが私の舞に耳を傾けている証拠だ。
舞い続けるうちに、私の存在はただの少女から、精霊たちと一体化した存在へと変わっていくのを感じた。私の動きが、泉の水、風、そして溢れる光と一つに溶け合い、舞が精霊たちへの願いを届ける儀式であることを深く実感する。全てがひとつに溶け込むこの瞬間、私の心は安らかで、精霊たちとの深い繋がりを感じる。
けれど、心の奥底から押し寄せてくる別の感情が、次第に私の意識を支配し始めていた。ウォルターのことがどうしても頭から離れない。彼と過ごした日々が、次々と鮮明に蘇ってくる。
彼の優しい声、真剣な眼差し、そして照れくさそうに笑うあの表情――どれもが私の心を温め、今やそれが私を形作る一部で、それがもう見られないと思うと涙が止まらない。どうしようもなく胸が苦しくなり、彼が自分にとってどれほど大切な存在だったかを、今さらながらに痛感させられる。
舞いの一つ一つの動きに、彼への想いが重なる。足を踏み出すたびに、その想いがさらに募っていく。この舞は精霊たちへの祈りであるはずだったのに、いつの間にか、彼への愛で満たされてしまっている。
「ああ、彼と一緒にもっと旅を続けたかった。ずっと一緒にいたかった……」と、心の中で静かに呟く。
本当は生きたい。彼との日々をもっと感じたい。一度手に入れたこの甘い果実を、簡単には手放したくない。なんて、私は傲慢で狡いのだろう。彼に黙って、すべてを隠したまま、ここまで来てしまった私が、こんなことを願うなんて、許されるはずがないのに。
私はくるくると泉の上を回る。涙の粒がきらきらと飛び散る様は、私自身の儚い願いと、それが叶わぬことの悲しみそのものだった。それはまるで、夜空に散らばる星屑のようで、私の心の奥底から溢れ出るこの涙は、止めようとしても止まらない。回り続けるほどに、涙の粒は光を反射して、より一層鮮やかに輝きながら、泉の水面に吸い込まれていく。
私の気持ちを精霊たちはどう受け取るのか、わからない。ただ、私の今の一番の願いは、彼を守りたいということ。それだけ。それが、私の心を突き動かし、涙となって流れ出す理由だった。
よかろう……
その時、私の頭の中で声がした。耳で聴いたのではなく、まるで心そのものに直接語りかけられたようだった。それが誰なのか、どこから聴こえるのかすぐには理解できなかったが、その声には不思議な温もりと力が宿っていた。
次の瞬間、私の身体は泉から湧き立つ光に包まれた。その光は優しく、しかし力強く、私を守るかのように膨れ上がっていった。泉の中で感じた温かさが、今や全身を包み込み、私の心の奥底にある願いが具現化しているのを実感する。
光は次第に大きくなり、ウォルターの方へと広がっていく。その光の幕が彼を優しく、しかししっかりと包み込み、まるで私の心からの祈りが形になったようだった。光の壁がウォルターとサランの間に立ちふさがり、静かに、しかし確実にサランの前進を阻む。
「なんだよ、これは!? こんなの聞いてないぞ、ヴィルギレス?」
サランの声が驚きと警戒に満ち、光の壁に反応して後退する。彼はウォルターから離れ、困惑しながらもヴィルギレスの元へと戻っていく。
私はその光景を見つめながら、心の中で湧き上がる安堵とともに、自分の願いが少しでも彼を守る手助けとなったことに深い安心感を覚えていた。
光の壁がウォルターを守り、彼に対する私の愛が少しでも形になったことが、私にとっての大きな慰めであり、希望の証だった。涙はまだ頬を伝っていたけれど、その涙が確かな意味を持ち、私の心の中にある真摯な願いが、今、確実に届けられていることを感じていた。
すると、また別の声が私の中に響いてきた。
くっくっくっ……。泉との接続を始めたようだな。どうだ、震えているか? 死にたくないという思いに縛られているのではないか? お前はこの従者の命を救いたいと願い、共に生き延びたいと足掻いているのだろう?
その声はぞっとするほど冷たく、ヴィルギレスから発せられたものであるとすぐにわかった。彼の言葉は私の心の奥底まで見透かしているようで、私の運命も、悲しみも、願いも、すべてを知っているようだった。しかし、それは私を理解しているわけではなく、ただ私の弱点を突いて、さらに深い恐怖を引き起こそうとしているだけだと感じた。
ヴィルギレスはさらに続けた。
ここで一つ提案をしよう。お前を百年の安寧のために使い捨てようとする連中に、復讐をしてみたいとは思わないか?
その言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。私を惑わせ、誘惑する言葉だと理解している。しかし、その誘惑の力は強く、私の心の奥深くで揺さぶりをかけてくる。
私はその冷たい囁きに対抗しなければならない。自分の信じる道を守りたい。私の願いはただ一つ、彼を守ること。それ以外の道に踏み込むわけにはいかない。心の中で強く自分に言い聞かせる。
「断ります。魔族と取引するつもりはありません!」
私は舞を止め、振り返ることなく毅然として答えた。言葉に迷いはなく、強い意志が込められている。その瞬間、自分の決意が一層固まるのを感じた。
そうか? いいアイデアだと思ったのだが。我々に協力すれば、お前は死なずに済み、この先もこの従者と共にいられるのだがな? それこそがお前の願いではないのか?
ヴィルギレスの声は冷徹で、感情のかけらもない。彼の言葉は単なる計算であり、私の心の奥底にある真実の願いを理解することはできない。それでも、その声の冷酷さに胸が締め付けられる思いだった。
涙が止まらない。私の心の深いところで、どうしても彼との未来を願っている私がいる。その願いを拒絶しなければならない苦しさが、涙として溢れ出してしまう。
私はこの涙の意味を理解し、止めることができない。心の奥底で私が本当に望んでいるのは、彼と共にいること。その願いを、今ここで拒絶しなければならない苦しさが、私の中で激しく渦巻いている。
「彼は、こんな私をどう見ているのだろうか」。その思いが、胸の奥に痛みを引き起こす。
「それがどうかしましたか? これが私に唯一与えられた、大切な使命なのです。命を捨てることに何の後悔も躊躇いもありません。随行の騎士はそのための護衛に過ぎません。特別な感情などありません。」
自分でも驚くほど冷静に、思ってもいない冷たい言葉が口をついて出る。しかし、その言葉を発するたびに、心が軋むような痛みが広がっていく。
ヴィルギレスは冷ややかな目で私を見つめながら、冷酷に答えた。
押し付けられた道具としての生き方こそが唯一の存在意義だと定義し、内に秘めたる感情を殺してしまうとは。まったく巫女とは哀れな生き物だ。面白くないし、実に愚かだ
その言葉には、私の苦しみや葛藤を際立たせる冷徹な響きがあった。ヴィルギレスは私の内面の苦悩を見透かしながらも、それを冷ややかに嘲笑するように語る。彼にとって、私の心の痛みや葛藤さえも、単なる娯楽でしかないのだろう。
「何が悪いというのですか? 私はそのために生きてきた。それ以外に何も無い。」
声がわずかに震えたその瞬間、ウォルターに悟られないことを心から願った。嘘を貫くことが、私の心の中で唯一の方法だと自分に言い聞かせる。ウォルターが私のことを嫌い、裏切りを憎んでくれることを心から願っていた。そうすれば、私が消えてしまっても、彼はすぐに私を忘れてくれるはずだ。
その思いを抱えながらも、涙は止まらない。心の奥底で、彼との未来を夢見てしまう自分がいる。けれど、その願いを守るためには、自分を偽り続けるしかない。
ウォルターが私の表情を読み取ることがないように、心の奥で渦巻く感情と決意の葛藤を、ただひたすらに隠し続ける。彼のために、そして自分自身のために、使命を全うしなければならない。
その瞬間、ウォルターの叫びが私の心に深く突き刺さった。彼の声は私の内なる苦悩を引き裂くように響き、背中に鋭い痛みをもたらす。
「メイヴィス!!」
ウォルターの叫びが、私の冷たい装いを打ち破り、心の奥深くにある痛みを呼び覚ました。彼の問いかけが私の心を直撃し、振り返る勇気もなく、ただ肩をすくめて冷たく返すしかなかった。胸の中の苦しみを必死で押さえながら、自分の心が崩れていくのを感じていた。
「さっき言いました。あなたは随行の騎士で、私を守ることが任務。それ以外に何があるというのですか?」
私の声は冷たく響き、まるで心の中の温かさを完全に失ってしまったように感じられた。しかし、その冷徹な言葉の背後で、心は揉みくちゃにされていて、痛みだけがさらに増していくのを感じていた。
「君は馬鹿な嘘をついている!! それは一番いけない嘘だ!」
彼の叫びが、私の内面の深いところで鳴り響く。私が隠していた真実が一気に暴かれ、心の奥で崩れる音が聞こえるような感覚に襲われた。必死に作り上げた冷徹な防壁を突き破り、そこから溢れる感情が私を押し流そうとしていた。
「旅の間、君はとても嬉しそうだった。外に出るのは初めてだと聞いた時にはびっくりしたが、だからこそ、初めて見る世界が楽しいんだろうなって思った。あれは君の心からの本当の姿だったと思っている」
彼の言葉が、私の内側で強烈な波紋を広げ、胸の奥の温かい思いが一気にあふれ出しそうになるのを抑えるのが難しくなった。
我慢できず振り向くと、彼の目に浮かぶ深い悲しみが目に入り、私の心の中に眠っていた感情を揺さぶられた。これまで必死に抑え込んできた感情が、ウォルターの深い悲しみを見て、あまりにも切なく、悔しくてたまらない。
涙が止まらなくなる前に、自分を強く保とうと必死に努めるも、心の奥底で彼との思い出が波のように押し寄せ、私を押し流そうとしている。その痛みと切なさが、私の心を貫き、私の冷徹な仮面を崩壊させていく。
「ウォルター……」と、私の心の中でその名前が呟かれ、私がこれまで心の奥底で隠してきた真実が、今ここで一気に溢れ出すのを感じていた。
「そうね、とても楽しかった。でも、私は最初からこうなることが決まっていたから、それまでの間、楽しませてもらおうって思っただけ。別にそれくらいは、いいんじゃないのかしら?」
頬を涙で濡らしながらも、私は平静を装って答えた。内心では、自分の冷たい嘘が心の奥深くを痛みを伴って引き裂いていくのを感じていた。
「じゃあ、俺のことはどう思っていたんだ?」
ウォルターの問いかけが、私の胸の内で暴風のように感情をかき乱す。彼の目の前で、私の心の奥に秘められていた感情が波のように押し寄せてくる。
「あなたは……とても勇敢な騎士で……とても頼りになりました。ここまで護衛としての役割を、よく果たしてくれました。感謝していますよ」
言葉を口にするたびに、その嘘が私の心をさらに引き裂き、切なさと痛みが私を圧倒していた。ウォルターの目が、私の心の奥で暴風を巻き起こし、その中で私の感情が嵐のように暴れているのを感じる。
「本当にそれだけなのか? 君にとって俺はそんなものだったのか?」
彼の声に込められた失望と痛みが、私の心に直接的に響く。その重さに耐えられなくなりそうで、涙で視界が歪んでいく。
「ええ、そうよ……。それだけのこと」
その言葉が口から漏れた瞬間、私の心の奥から痛みが噴き出し、涙が止めどなく頬を伝った。自分でもなぜこんなにも辛いのか理解できなかった。ウォルターに対して隠し続けていた感情が、嘘と引き換えにこんなにも苦しいものであったとは思いもよらなかった。
「これでお別れできる」と、心の中で繰り返しながら、私はさらに涙をこぼした。嘘で塗り固めた答えが、彼のためだと信じていたけれど、その結果としてのこの痛みが私を押しつぶしていた。
再び彼に背を向け、泉に向き直った。その冷たい水面が、まるで私の心の反映のように感じられ、涙が止まらないまま、私は心の中で必死に自分を整えようとした。
「お願いします。あなたは一刻も早くこの場所から逃げて下さい。そして……生きて……」
最後のお別れを告げるその瞬間、感情が込み上げてきて、涙が再び頬を伝っていった。この言葉が、私の一番深い願いであり、彼に対する最後のお願いでもあった。
「生きて……」
その一言が、私の心の奥から漏れ出し、泉の水面に反響するように広がっていった。
私の願いが、彼に届くことを、ただただ祈っていた。涙が流れ続け、心の中の痛みが溢れるその中で、私の感情は彼に対する深い愛と願いに満ちていた。
背を向けたまま、私は彼がどんな反応を示すかを見ずに、泉に視線を落とし続けた。