第34話 私にできること~盤面の支配者
文字数 2,787文字
「どれだけ明るく振る舞っていても、彼女の微かな変化やほんの一瞬見せる陰りが、私には分かってしまう。家族と離れ、不安な状況にいる彼女が、全く動揺していないはずがない。それでも彼女は、どんなに不安でも弱さを表に出さない。いつも自分をしっかり保って、周りに心配をかけないように振る舞っている」
「そんな彼女を見ていると、私はもっと支えてあげたいと強く思う。けれど、今の私は『弓鶴』という男の子で、冷淡で無感情に見える『氷』の仮面を簡単に外すわけにはいかない。もしそんなことをすれば、彼女に私の正体を勘付かれてしまうかもしれない。気の利いた言葉をかけたいのに、どうしても言葉が見つからない。その自分の不甲斐なさが、胸を締め付けるほど情けなく感じる」
「それでも、彼女の好きな温かい飲み物をそっと差し出したり、黙って隣に座って話を聞くだけで、少しでも彼女の心の負担を軽くできればいいと思っている。大したことはできなくても、そんな小さな行動が彼女にとって少しでも楽になるのなら、それが今の私にできる精一杯のことだ」
「彼女との距離感について、私はいつも悩んでいる。もっと近づきたいと思うけれど、踏み込みすぎてしまわないか、その線引きが難しい。時々その曖昧さに胸が苦しくなることもあるけれど、彼女のそばに寄り添い続けることが今の私にとって一番大切なことだと信じている。彼女の笑顔を守りたい、それだけが私の中で揺るぎない想いだ」
「私たちは共に歩む相棒で、運命を共にしている。もしかしたら、これからもっと深い絆を築けるかもしれない。そんな希望を心のどこかに抱いている」
「胸の奥に生まれたこの感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。ただ一つ確かなのは、彼女が私にとってかけがえのない存在だということ。それだけは絶対に変わらない事実だ」
「私がいずれ消える運命にあったとしても、今、この瞬間は彼女の笑顔に救われている。それがどれだけ私の中で大きな意味を持っているのかを思うたび、止まらない感情が胸を満たしていく。彼女の存在が、私にとってどれほど大切かを考えるたび、その想いは静かに膨らんでいく」
◇ ◇
しかし、平穏な時間は突如として終わりを告げた。
その瞬間、山中の静かな道路に立つ一人の和服姿の男が、私たちが乗る車の前に立ちはだかった。男は初老に差し掛かるように見えたが、その存在感は異様なほどに威圧的だった。彼の名は【
通常、術者は一般人を装い、他者に気配を悟られないようにするのが常識だ。しかし、彼は違った。放たれる圧倒的な殺意は、周囲の空気を切り裂くような鋭さで、私の神経を根こそぎ震わせた。
なぜ、彼の接近に気づけなかったのか。その理由が徐々に明らかになった。彼が襲撃に選んだのは、私たちが最も安心していた屋敷近くの山中の、誰もいない静かな場所だった。それは完全に逆を突かれた形だった。
術者は通常、人混みに紛れて接近するのが常套手段であり、天の警戒体制もその一点に絞られていた。そして、山の静寂さが彼の接近を完全に隠してしまったのだ。
もはや逃げ場はない。私たちは車から降り、曽良木と対峙した。車内に残った藤堂さんは、無言で非常連絡のコールサインを出した。
曽良木は私たちに向かって、何とも言えない不敵な笑みを浮かべていた。その笑みは、まるで私たちを見下ろすかのように、恐怖と冷ややかさを同時に放っていた。
「君の黒鶴の、対術師有効吸収半径はどのくらいかな?」と、彼は尋ねてきた。私は胸の奥で震えながらも、なんとか答えた。
「十メートルから、十五メートルといったところだろうな」
その答えを受けて、曽良木は高笑いをした。その笑い声は、私の心に冷たい刃のように突き刺さった。
「私が展開する場裏の黄の干渉半径は、優に五十メートルに達する。この意味がわかるか?」
その瞬間、私の心臓はまるで氷の塊にされるような感覚を覚えた。私は即座に理解していた。彼の力の及ぶ範囲が、私たちにとって圧倒的な脅威であることを。
曽良木の場裏は広大でありながら、彼が強力な効果を発揮するわけではない。しかし、その場裏の色が【黄】で、地質を操る力を持っていることは、私たちの脅威を倍増させた。
彼の言葉からは、彼がこの状況を完全に掌握していることが伝わってきた。彼はまるで盤面の支配者であり、私たちの未来が、彼の手のひらの中にあると感じさせられた。
「君たちはもう、私の場裏から逃れることはできない。それと、私の得意分野は剣でね、普通の殺しはしないんだ。言ってみれば対術師が専門の、いわば不穏分子の掃除屋といったところだ」
曽良木の自信満々な語り口から、彼の剣術が単なる武器ではなく、彼の全存在を支える一部であることが滲み出ていた。証拠を残さずに暗殺するという、深淵の流儀からは逸脱するにせよ、こと“殺す”という技術においては圧倒的な能力を持つことは、明らかだった。
その言葉が胸に突き刺さり、私の心臓が激しく脈打つのを感じた。私は真凜の手を引こうと必死に動いたが、あまりにも遅かった。
突然、足元の道路に亀裂が走り、地面が崩れ落ちる様子はまるで夢の中のようだった。私たちは瞬く間に崖下へと滑落し、完全に藤堂さんと分断されてしまった。
恐怖が私を襲い、反射的に黒鶴を発動させようとしたが、場裏を通じて現象を具現化させる力を持っていない私は、ただ呆然とするばかりだった。以前から何度も試みたものの、習得に何年もかかる技術が一朝一夕で身につくはずがなかったのだ。
それでも、反射的に持っている流儀である白の風の力を一時的に解放し、落下時の衝撃を防ごうとした。しかし、場裏を使わないためにその力は不十分で、私たちは地面に叩きつけられてしまった。
身体のあちこちが激しく痛み、動くことができなかった。真凜の苦痛に歪む表情が目に入り、その姿が私の心を深く突き刺した。彼女を守るという最も大切な約束を果たせなかった。私の過信が彼女を危険にさらしてしまったことに、強い自己嫌悪と無力感が込み上げてきた。
意識が徐々に遠のき、「もうだめだ」と思った瞬間、目の前に一筋の赤い光が奔った。その光が何なのかを理解する余裕は、朦朧とする意識の中ではなかったが、その光が何か大きな変化をもたらす予感があった。希望のかけらのようなその光が、私の心の奥にわずかな希望をもたらしていた。