第十三曲 テンポ・ディ・ボレロ (2)
文字数 2,980文字
「王宮じゃなくて修道院にいるかもしれないけどね」彼の国は、ぼくらのところ以上に厳格なカトリックです。それにしても、修道院?
「音楽家にはならないの?」
「音楽は趣味」さらりと言い捨てたね、あのとき。「歌って祈って、エンドウ豆の遺伝でも調べて一生過ごすよ」
「ふふ、ショウジョウバエは?」
「虫はかわいそうだろ。交尾したくて必死なやつらを押さえつけてペニスもいだりするんだぜ」
「はは、たしかに」
発想が、不思議なくらい、ぼくと似ています。面白いな。ぼくら地球の反対側で生まれ育ったのに。
「父も元気だし、あとは兄が継いでくれるから。ぼくは気楽」
「いいね。うらやましい」
「そうか?」
するどい語気にどきりとしました。ふりかえると目が合って、目もするどかった。
「スペアなんだよぼくは、ようするに。兄上に何かあったときの予備のコマさ。いっそ放り出してくれればいいのに、それもない。つながれて、飼い殺しだよ。そんな人生がうらやましい?」
そんな……、そんなふうに考えたことがなかった。
言葉を失っていたら、「ごめん」とにっこりされました。「そうだな。どっちがましか微妙だな。きみみたいに人の期待を一身に背負わされるのと、ぼくみたいに誰にも期待されないのと」
どのみち、同じか。自由がないという意味ではさ。
そうだね。
飛べない鳥か。
路地から見上げた青空は、細く、せまく、はるか遠くにありました。
きみとはうまく行っているのか? と、ロットバルト。
ミサの直前、二階の
「デジレですか? ええ、もちろん。いい友人になれそうです」
「それはよかった」
あのね。あなたは大人なんだから、そんな声出さないでください、そんな不安そうな。ぼくまで不安にしてどうするんですか。
「思い過ごしだといいんだが」ロットバルトは完全に困惑顔でした。「おれはどうも、嫌われているみたいなんだ。彼に」
沈黙。
「いや、何も言われてないよ。何も言われてないんだけれども」
あなたなんですね、彼に何か言われたのは。「なんて言われたんですか」
「その……、おれにとってきみが……、そんなに特別ですかと」何それ。「もちろんそうなんだが、教師としてどう答えるべきかと思って
心配? 何の? 意味不明。ぼくがひいきされているのが気に入らない? まさか。そんな幼稚な雰囲気、みじんもない。「いきなりですか?」
「いきなりどころか。廊下で待ち伏せされて、しかも、声が」悪夢でもふりはらうように、ロットバルトは首をふりました。「なんの脅迫かと思ったよ。おれのことだから知らないうちに地雷を踏んだのかもしれない。何かあったら言ってくれないか。何でもいい」
「ええ、そうしますけど、何かって」
「何でもだ」
ありがとう、ロットバルト。
心配してくれて。
だけど、どれが、その《何か》に相当するんでしょうか。
ぼくと彼のあいだの、どの会話が。
チャイコフスキーの伝記読んだ?と訊かれました。デジレに。
何冊か、と答えました。ロシア語はよく読めないので、原文や原資料にまでは当たれないのが残念だと言ったら、きみもか、と言われました。ロシア語難しいよねー。うん、中国語といい勝負。
「読んだんだ」
「うん」
沈黙。
「じゃあ」「もしかして」
二人同時に話しだし、二人同時に、相手にゆずりました。
「ネットのアーカイブで見つけてしまったんだ」とデジレ。「きみの……パレードの事件。ごめん、いやなことを思いださせて」
聖堂の中で息をのんだとき、ロットバルトも気づいていたのだと思います。《結婚してくださらなければ自殺します》という手紙を女性が送ってきた、あの一件は、チャイコフスキーさんの身に起こった事件と酷似していました。ただし、彼の場合、その女性ファンは死ななかった。望みどおり作曲家の妻になり、三十日で別居します。生涯にわたる不幸な結婚の始まりでした。あまりにも取り沙汰されたエピソードですが、デジレはしみじみ言ったのです。「べつに女が愛せなかったわけじゃないさ。たんに、どうしようもなく女運の悪い人だったんだと思うよ」と。
ぼくも賛成しました。
「だってふつうに無理だろう、その奥さんとじゃ」とデジレ。「それに、真剣に結婚を考えた女は他にいた。成就しなかっただけで」
「そうそう」
「何でもホモだホモだって騒ぐやつら。あれ、ばかだと思わないか?」
「思うよ」
「わかってないよな。女とうまくいかないと、すぐ、男としかできないからだと決めつける。二択」
「うん」
「
迷惑だよな
」「うん——」
デジレに打ち明けてみました。
夜中に突然、「エドアルトを死なせてしまった」ことを思い出して、ひと晩じゅう苦しんで泣いたこと。
彼がもういないなんて信じられない。ぼくのせいなんです。
エドアルトって誰。
エドアルト・ザークだろ、デジレはあっさり言いました。デジレのほうが詳しかった、チャイコフスキーの伝記。エドアルト・ザーク、十四歳年下の、教え子。一八七三年、『白鳥の湖』が描かれる四年前に、十九歳でピストル自殺しています。理由は不明。
ただ、残された手紙から、先生をあまりにも慕いぬいていたことはたしか。
大作曲家の生涯につぎつぎと現れては消える、親しすぎる男の——《友人》たち。
「そんな夢まで見るのか」デジレの声は暖かな同情に満ちていました。「きみ、たんに顔が似てるだけじゃないんだな」
「何か、未知の力に、彼の生涯を追体験させられているらしいんだ。信じてもらえるかな」英語で、外国語で、ためらいながらことばを選んでいるうちに、かえっていつもなら口にできないことまで話してしまっている自分がいました。「音楽が頭の中で鳴りやまなかったり、身におぼえのない悲しみや苦しみを感じさせられたりすることは、いやではない。むしろ、チャイコさんの心の中をのぞかせてもらえて、嬉しいくらいだ。ただ——」
「ただ、何?」
迷いました。言おうか、言うまいか。まだ誰にも話したことがありません。ロットバルトにも。オデットにも。まして、教会の、告解室でも。
「怖いんだ。最近。このままだと、その、ぼくもいつか——」神よ。「自信がない。逃げきれるのか。つまり」
「わかるよ」
間髪を入れず。はっとするほど、強いあいづちでした。
「わかる?」
「わかるさ」
「きみもそういう夢、見るのか」
「ぼくは見ない。ただ、きみが見るということはわかる」
「そうか」なんだ、理解だけか。ほっとしたの半分、さびしいの半分でした。「ありがとう」
「何が?」
「わかってくれて」
「礼なんか言うなよ」微苦笑というやつ。「ぼくも言われたからだよ」
「何を? 誰に?」
「兄上に」目をそらせたまま、さらりと。「男同士で寝るやつは、羊とやるやつ以下だと」
羊?
羊——?!
「いやあ、カトリックも大変だけど、ロシア聖教会もきつそうだよね」デジレはのんびりと、ほとんど楽しそうな口調で言いました。青空に向かって思いきりのびをしながら、目を細めて。「チャイコさんも苦しかっただろうねー」