第十五曲 情景(アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ)
文字数 1,096文字
だけど、ほとんど、覚えていないのです。
覚えているのは、ロットバルトの不思議そうな、とがめるような視線だけです。みんなの足を引っぱらないようにするだけでせいいっぱいでした。指揮棒が振り下ろされた瞬間から、ずっと思っていました。終わる。終わってしまう。デジレは一ミリも乱れず、オーボエのソロを完璧に吹きこなしていました。みごとでした。
彼が発つ日、
列車の中で話したいと思ったのですが、同じ車両に明らかに彼のボディガードと思われる(黒い肌の)人たちがいて、何も話せませんでした。
デジレは困惑していたはずです。でもそれを見せることさえしませんでした。空港ではVIPラウンジで、ブランデーをふるまってくれました。そこでも何も話せなかった。そもそも、話すことなどあったのでしょうか。
体を大切にね、と言いました。
きみもね、と言われました。
チャーター便だから、館内放送もなく、ただ、ゲートが閉まっただけでした。
離陸を待たずに、帰ってきました。小さくなっていく機影を目で追ったりして、どうなるというのでしょう。ばかばかしい。手紙を書くよと言ったら、彼はありがとうと言いました。自分も書くとは言いませんでした。ぼくの負けです。ここまで屈辱をなめさせられる理由がわかりません。書くものか、手紙など。何を書くことがあるでしょうか。
一瞬だけだけれど、死んでしまえと思いました。
コンサートが八月の下旬。デジレの帰国は、翌月でした。風の強い日でした。列車で中央駅に戻り着き、コンクリートと直線の殺風景なホームに降り立ったとき、ベンノが(ああ、書いてなかったかもしれないけれど彼は当然ぼくに付き添っていました)、ベンノがぼくの腕をつかんで、ふりむかせました。
吹きさらしのベンチにうずくまっている、小さな影がありました。
オデット。
何時間座っていたのでしょう。もう、まっすぐ座っていられなくて、横になっていました。手足が冷え切って、額だけが熱かった。呼ぶと薄目を開けて、ぼくを認めたのかどうか、また閉じてしまいました。
オデット。
オデット。
そのときぼくは、初めて、自分が何をしたかを、知ったのです。