第十四曲 黒鳥のグラン・フェッテ (2) ★BGM付

文字数 2,038文字

 絶句と言うなら、デジレ本人です。彼、すごかった。『白鳥の湖』最終曲をピアノに編曲して聞かせてくれたのですが、だいたい、楽譜がほとんど白いのです。ほぼほぼ記憶と即興で弾いていたということ。茫然でした。それに、なにあれ。字が。めちゃくちゃきれいなの。もちろん記譜も。ぼくはわりと判読不可能な字を書いてしまうタイプなので(書きたい速さに手が追いつかない。まあ、だからロットバルトの超絶走り書きも読み取れるんだけどね)、男でこんな字のうまいやつに初めて会ったよ。なにこの、何から何まで非の打ち所のない、水も漏らさない感じ。ぼくなんかこんなに隙だらけなのに。ここまで来るともう、嫉妬する気も起こりません。賛嘆あるのみです。
 ぼくが友だちを家に招くなんてめずらしいというか、ほとんど初めてだから、母上は喜んでしまって、やたらにお菓子を出してくれるので困りました。デジレは礼儀正しくにこにこしていたけれど、ぼくがこっそりお酒を持ってきたら、もちろんそのほうが喜んでいた。
「なんかごめん」
「ううん、同じだよ。うちだったら妹たちが大騒ぎしてもっと大変だ」
 母が入ってきて中断してしまったところから、続きを弾いてくれました。王子が登場して、イ短調(アーモール)でテーマが再開します。アレグロ・アジタート。六小節のブリッジを経て主音が一音上がり、原調のロ短調(ハーモール)、さらに反復進行(ゼクエンツ)嬰ハ短調(チスモール)とぐいぐい上がりつづけ、低音(バス)ロ短調(ハーモール)属音のフィス(ファのシャープ)が来て、ここたしか金管が激しく鳴るところだよね。大音量のままテンポがぐっと落ちて(リテヌート)、このト書き何?
「オデットは王子の腕に倒れこむ」
 ア・ラ・ブレーヴ(大きく二拍子に取って)、マエストーソ(堂々と)。ロ短調(ハーモール)に戻ってしまった、ふりだしに。金管が《白鳥のテーマ》を大音量で吹き鳴らす、ここ胸が痛い、殺されそう、死ぬのだろうか。だけどそのメロディが弦にバトンタッチして昇っていくとき、なんだろう、たくさんの白鳥たちが力を合わせて抵抗しているような。がんばれ白鳥、負けるな。最高潮に達したところで、管がきゅうに全休符、弦だけが半音刻みで上がっていって——転調。フォルティッティシモ、ロ短調(ハーモール)から同主調のロ長調(ハードゥア)へ。飛ばずに、その場で足をしっかり踏みしめて、黒が白に反転! やっぱり愛が勝つんだよね? 勝つんじゃないのかな?
 その後、ふっと音量が落ちます。ハープを支える弦の刻み。ト書き、「白鳥たちが湖の上に現れる」。羽ばたきとさざ波。そして——戻ってくる、管たちが。まずホルン。それからいっせいに、トランペット、トロンボーン、チューバ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット。ティンパニまで。フォルティシモ。ずっと、ずっと、全員でロ長調(ハードゥア)主和音(トニカ)、完璧な円環。最後の五小節はもうトニカでさえない、ユニゾン、全員で同じ音、基調の、運命のハー。湖の面。凪いで、輝く。終わった——
「泣いてるの?」
「だってこれ、泣かない?」
 デジレはあきれ顔でした。「きみ本当に感じやすいんだな」
 同じこと誰かに言われたぞ、前に。「だって泣かない?」
「ぼくはまあ、泣かないけど、なんというか……、言っていい?」
「言ってみて」
「うーん、怒るかなあ」
「怒らない。たぶんわかる」
「そう? これさ、最後……」デジレはさらにためらってから、小声で言いました。「エロいよね」
「うん」
「金管、イッてるよね」
「そう!」
「愛の勝利」笑いをこらえています。
「そうそうそう」
「そういう意味ではハッピーエンド?」
「いやその定義わからないけど、言いたいことはわかる。ぼくも同意見」
「イけたらそれでハッピーだと思うけどな」デジレの端正な横顔で、外国語としてさらりと言われると新鮮です。「先生に伝えといて。イけたからハッピー、って」
「誤解されるだろそれ」
 にやにやしています。その笑みが、やがて、ふっと消えました。
「聴いてくれてありがとう。お疲れさま」
「何言ってるんだ、礼を言うのはぼくのほうだよ。本当にありがとう」
「楽しかったよ」余韻のように、鍵盤をぽろんぽろんと鳴らしています。
「デジレ、きみこんなに弾けるのに、どうしてオーボエ選んだの?」
「『白鳥』のソロ吹きたかったから。それだけ」
「うそだろ」
「うそ」
 すごいよ。きみこそ選ばれた人なんじゃないのか。そう言いかけたのですが、デジレが顔を上げないので、言うタイミングがつかめませんでした。
 やがて彼は椅子を引いて座りなおし、あらためて弾き出しました。これは——連作『四季』の十月、「秋の歌」じゃないか。
 どうしたんだ、デジレ。何いきなり、こんな、胸を引き裂くような、哀しい曲。
 弾き終わって、しばらく黙っています。どうしたの?
「結婚することにした」
 何。
 それ。
「それは……、それはおめでとう」
「ありがとう」
 いまの曲は、何なんだ。


★BGM:『四季』より「秋の歌(十月)」
https://www.youtube.com/watch?v=hTXEJ2O1x1M
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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