第九曲 パ・ド・ドゥ(グラン・アダージオ)(1)
文字数 2,855文字
ぼくはあります。
そう言えば、指、というものがあるのは、人間だけだな、と思っていました、
彼女にふれながら。
犬も猫も、馬も、鳥も、指を持っていない。
サルたちが持っていたとしても、こんなふうに使いはしない。
こんなふうに、
肌のくぼみに、ふくらみに、そわせたりはしない。
おたがいの輪郭をたしかめあうために使ったりはしない、
小さな息を吐きながら。
唇も、
昨日までのぼくにとっては、ただ、呼吸と栄養摂取のための器官でした。
舌、も、
言語のための。
ことばをとおして、誰かとふれあうための器官でした。
知らなかったのです。
こんなふうに、
こんなふうに、直接、ふれあう、
どちらが、
どちらの唇なのか、舌なのか、わからなくなるような、
白熱、
神に、指はあるのかな、などと、考えていました。
ムスルギア、という十七世紀の書物があります。
正式な題名は、
ムスルギア・ウニウェルサリス・スィウェ・アルス・マグナ・コンソーニ・エト・……ディッソーニ。
ラテン語の原文はとても歯が立たなくて、翻訳で読みました。
ひとことで言うと、
宇宙は、音楽でできている、という説。
おとぎ話じゃありません。当時はまじめな、天文学の。
本気で、
宇宙は巨大なパイプオルガンだと、説いていました。
植物も鉱物も星々も、あらゆるものがオルガンのパイプの列にたとえられ、
神の手がそこから音色を選びだし、
神の指が
鍵盤をおさえて
響かせる、
神は
ロットバルトが
いつ帰ってくるのかなと
思っていました、
帰ってきて
さっさとぼくをたたき出してくれれば
いいのにと。
だってこんなことが
ゆるされていいとは
思えない、
こんなことがぼくにゆるされていいとは思えない。ぼくの意識は二重の
引き返せるわけ、ないじゃないですか。ぼくらは出会ってしまった。現実の問題がどれほど山積していようとも、ぼくたち二人がおたがいのために創られた存在であることは動かしようのない事実で、ってこれは書くとはずかしいから書かないでおこうと思ったのに書いてしまった。ロットバルトに、感謝すべきなのだろうな、でもくやしいから感謝したくない。神ですかあなたは。いまごろ笑っているのか? 笑われても無理だ、引き返せない。帰れない。あと五分、あと五分だけと思うぼくの脳裏に、鍵盤を正確につかんでいく彼の手、
このままで
すむと
思うなよ、
馬鹿野郎、
あと五分。どちらかが服を着ようとすると、もう一人が引っぱって脱がせてしまうので、きりがなかった。どんなに遅くとも日没までには、帰らなくてはと思っていたのです。ボートのところまで行きました(服は着ました)。彼女が見送りに来てくれました(彼女もです)。夕陽が湖面に映えてきれいだったので(なんて凡庸な言いかた)、砂の上に座って話をしました。日の入りってね、太陽の先端が水平線にかくれて、見えなくなった瞬間を言うんだって。そうなの。でね、日の出は、太陽が水平線にかかり始めた瞬間を言うんだよ。そうなんだ。だから、太陽の、直径分が、入っているのは、夜の……ほうなんだよ…… そうね。彼女はもうぼくのボタンをはずし始めていて、部屋まで戻る時間が、なかった。いまパパが帰ってきたら、どうするんだよ。おかえりなさいって言ってあげる。
けっきょく部屋に戻って、パンとチーズをかじりました。キスをすると同じチーズの味がして、二人で笑いました。なのに、ふと見ると、泣いているのです。声をたてないように唇を噛んで、消え入りそうにうつむいて、静かに、ぽろぽろ涙を。だってあたし先のことを考えると苦しくて気を失いそうで、いましか考えられない、明日も、あさっても、あたしにはなくなっちゃった、でももう帰らないとね、ごめんなさい引きとめて、ああでも待って、五分だけ、
あと五分、
部屋には小さなアップライトピアノがあって、これ弾いてくれない?と彼女が持ってきた楽譜は、古くてすり切れていて、これパパが大切にしてる楽譜なの。ね、チャイコフスキーに歌曲もあるって知ってた? もちろん。この曲知ってる。ほんと? うん。伴奏したことあるよ、何度も。「憧れを知る人だけが」。歌詞、ゲーテでしょ。切ない歌だよね。そう、いまのあたしの気持ちにぴったり。そう言ってにっこりして、黒髪をすっとまとめあげて、涙を拭きました。これ伴奏してもらったら今度はほんとに送っていくね。もうわがまま言わない。
「歌ってくれるの?」
「ううん、歌ったらぜったい泣くから楽器」
笑ってヴァイオリンをケースから出しました。棹をつかむ左手でぴんぴんと弦をはじき、右手の弓をかるく往復。楽器をはさむあごの左の下側に、薄いあざがあります、ヴァイオリニスト特有の。さっきまで、ぼくが何度もふれた。あざを気にして肩当てを使う人もいるけど、あたしはいやなの、と言ってました。だって音を感じたいじゃない、鎖骨で。あたしの、全身の骨で。
ぼくの前奏に乗るように、彼女の旋律がすべりこんできたとき——これだ、と思いました。体の芯を彼女の音が、文字どおり、つらぬいて。神よ——ぼくはもう、本当に——だめかもしれません——