第六曲 情景(白鳥あるいは黒鳥の)(3)

文字数 2,648文字

 生まれて初めて、日没以降に(いまサマータイムなので午後十時過ぎということです)、ひとりで外出しました。今度こそベンノなし。ボディガードも、正門での敬礼もなし。それが——わりとかんたんで、拍子抜け、しました。通用門から最後の人たちが退出するのにまぎれて出たのですが、変装するとかえって目立つと思ったので、ふつうの服(Tシャツに麻の半袖シャツはおって。明るめのブルーグリーンでちょっと気に入ってるやつ。やっぱり目立つかな? でも気に入ってるから)で自転車を押しながら「ご苦労さま」と笑顔で言ったら、みんな腰を抜かすほど驚いていました。唇に指を当てて《黙っておいてね》と合図して、とくに若い守衛の女の子(と言ってもぼくより年上か)にはスマイルゼロユーロを上乗せしておきました。帰ってきたらこっそり開けてね。
 しかし警備がこんなザルでぼくの身辺は大丈夫なのだろうか。大丈夫じゃないかもしれない。まあ、いいけど。よくないか。あとで考えよう。
 月夜がこんなに明るいということも初めて知りました。
 足もとがかなりはっきり見えるのですね。ただ、風景に色みが少ない。
 途中から、自転車を降りて、押して歩きました。いそいで着いてしまってはいけないような気がしたのです。いつもいる世界を鏡の表だとすると、その裏側へまわってしまったような気分です。ガラスに張られた、銀の裏側へ。木々のシルエットが黒く、背景の空も黒く、藍や灰、黒にもさまざまな深みがあることも知りました。音を、覚えていません。見ることに集中していたので。蛇を踏んだらいやだなと思いました。初めての場所を待ち合わせに指定され、やや緊張してもいました。
 桟橋というのは、不思議な構造物です。橋なら道がつづいていく。その動線がふと断ち切られ、切られても止まれずにそのまま延びていき、まるで水の上を歩けと言われているような錯覚にこちらを誘います。水には月が大きく映りこんで、土の上より明るかった。でも誰もいません。やっぱりね、と思っている自分がどこかにいました。
 自分が他人を信じやすくだまされやすいのか、それとも疑り深いのか、よくわかりません。たぶん両方で、その両極端をいつも振れ幅いっぱいに動いている気がします。少なくとも、この人はぼくに優しくすると何のメリットがあるのだろう、と考えてしまうくせがあるのは確かです。ロットバルトが行きずりの坊やに優しくしてくれるメリットは何だろう。もしかすると彼は、過去に息子を亡くした経験があって、その子のおもかげをぼくに重ねているだけかもしれないな、とかね、そういうシミュレーション。ぼくも父親を亡くしているから、需要と供給が合致してちょうどいいじゃないですか。それ以上は期待しない。そのうち彼も、ぼくに幻滅して離れていくのだろうから、こちらもあまりのめりこまないようにしておくのがいいのです。手持ちぶさたなので、石で水切りをしてみました。あまりうまくいかなかった。三段でした、しょぼい。桟橋の上なので手ごろな石があまりありません。「へたくそ」という声とほぼ同時に石が飛んで、水面を七段切っていきました。ほんと腹立つ。待たせてすまなかったとか言えないのだろうか。まあ、ぼくが早く着きすぎたのではありましたが。
「昔、惚れた女がいてね」
 なんか夜のあいさつとしては斬新なんですが?
「どうしようかと思っていたら、別の男と結婚してしまった。以上。終わり」
「何ですかそれ」
「おれ物語。リクエストにお応えして」
「べつにリクエストしてませんよ」
「そう? そもそもなんであのおやじ近づいてきたんだろうって考えてたんじゃないの、いま」
 読まれた! また……
「じゃ、こうしよう」《じゃ》って何だよ《じゃ》って。「二つのうち気に入ったほうを選べ」
「何の?」
「いまから言う」
「選ぶの苦手なんですけど」
「わかってる。いいから聞け。その1。きみは、そのおれが惚れぬいた女の息子だ」
 は?
「その2。きみは、おれの息子だ」
 しつこい。
「その3」
「二つって言ったじゃないですか」
「その3。1と2の両方だ。つまりきみは、おれが惚れた女にひそかに生ませた不義の子だ。そしてその4、1から3までのどれでもない」
「4」
「正解」
 笑っています。いつものロットバルト。
 まただ。はめられた。ものすごく動揺してしまいました。何がしたいんだこの男。けっきょくよくわからないじゃないか。
「お、来たか」
 水音があまりに静かで、気がつきませんでした。どこから泳いできたのだろう。まさか、向こう岸から? 黒鳥、かと思った。いままで見えていなかったものが、突然見えるようになったのかと。黒い鳥が首をもたげたように見えたのは、長い髪を頭頂にまとめあげていたからで、ふわり、ふわり、と白い光が息をするように動いてくるのは、服を着たまま泳いでいるからなのでした。ロットバルトの片手を借りて桟橋によじのぼってきて、その髪と服からたっぷり水をしぼっています。こんな生き物を初めて見ました。布は濡れるとこんなに透けるのだということも初めて知りました。
「誕生日おめでとう、オディール」
「あたしの誕生日は先月よ、パパ」
「気にするな。プレゼントだ。ずっと欲しがってただろう」
「何」
「弟」
「うそ! 嬉しい」つかつかと歩いてきて、大きな目でぼくを見上げました。黒髪なのに、ブルーの目。何か、野生動物のような。「この子ね、かわいい!」
「紹介しよう。ジークフリートくんだ」
「強そう、名前だけは」
「いまから強くなるさ」
「じゃ期待して待つ。ありがとう、パパ」
 いきなり、濡れた両手がぼくの顔をはさみ、何かひじょうに柔らかいものが唇に押しつけられました。
 それは——それはないんじゃないのか。
 こんなに無礼なことを他人にされたことがなかったので、怒るタイミングを完全に逃しました。怒る? 逆上したってよかったのだと思うのです。いまでも思い出すと全身の血が頭にのぼってきます。初めてだったとは言いません。でもそれは、あくまで母上限定だったわけで——
 ロットバルトをふりかえると、さすがの彼も、あぜんとしています。
「オディール、やりすぎだ」
「妬いた? じゃパパにも」
「んん」
 この、父娘。
 問題あるとか、反則とか、言う以前に、こいつらにそもそもルールはあるのか。やっぱり悪魔なのか、二人して。頭の中が、真っ白でした。笑うな、ロットバルト。オディールとかいうおまえもだ。人を、人を何だと思ってるんだ。
 舌を入れるな。


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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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