第六曲 情景(白鳥あるいは黒鳥の)(3)
文字数 2,648文字
しかし警備がこんなザルでぼくの身辺は大丈夫なのだろうか。大丈夫じゃないかもしれない。まあ、いいけど。よくないか。あとで考えよう。
月夜がこんなに明るいということも初めて知りました。
足もとがかなりはっきり見えるのですね。ただ、風景に色みが少ない。
途中から、自転車を降りて、押して歩きました。いそいで着いてしまってはいけないような気がしたのです。いつもいる世界を鏡の表だとすると、その裏側へまわってしまったような気分です。ガラスに張られた、銀の裏側へ。木々のシルエットが黒く、背景の空も黒く、藍や灰、黒にもさまざまな深みがあることも知りました。音を、覚えていません。見ることに集中していたので。蛇を踏んだらいやだなと思いました。初めての場所を待ち合わせに指定され、やや緊張してもいました。
桟橋というのは、不思議な構造物です。橋なら道がつづいていく。その動線がふと断ち切られ、切られても止まれずにそのまま延びていき、まるで水の上を歩けと言われているような錯覚にこちらを誘います。水には月が大きく映りこんで、土の上より明るかった。でも誰もいません。やっぱりね、と思っている自分がどこかにいました。
自分が他人を信じやすくだまされやすいのか、それとも疑り深いのか、よくわかりません。たぶん両方で、その両極端をいつも振れ幅いっぱいに動いている気がします。少なくとも、この人はぼくに優しくすると何のメリットがあるのだろう、と考えてしまうくせがあるのは確かです。ロットバルトが行きずりの坊やに優しくしてくれるメリットは何だろう。もしかすると彼は、過去に息子を亡くした経験があって、その子のおもかげをぼくに重ねているだけかもしれないな、とかね、そういうシミュレーション。ぼくも父親を亡くしているから、需要と供給が合致してちょうどいいじゃないですか。それ以上は期待しない。そのうち彼も、ぼくに幻滅して離れていくのだろうから、こちらもあまりのめりこまないようにしておくのがいいのです。手持ちぶさたなので、石で水切りをしてみました。あまりうまくいかなかった。三段でした、しょぼい。桟橋の上なので手ごろな石があまりありません。「へたくそ」という声とほぼ同時に石が飛んで、水面を七段切っていきました。ほんと腹立つ。待たせてすまなかったとか言えないのだろうか。まあ、ぼくが早く着きすぎたのではありましたが。
「昔、惚れた女がいてね」
なんか夜のあいさつとしては斬新なんですが?
「どうしようかと思っていたら、別の男と結婚してしまった。以上。終わり」
「何ですかそれ」
「おれ物語。リクエストにお応えして」
「べつにリクエストしてませんよ」
「そう? そもそもなんであのおやじ近づいてきたんだろうって考えてたんじゃないの、いま」
読まれた! また……
「じゃ、こうしよう」《じゃ》って何だよ《じゃ》って。「二つのうち気に入ったほうを選べ」
「何の?」
「いまから言う」
「選ぶの苦手なんですけど」
「わかってる。いいから聞け。その1。きみは、そのおれが惚れぬいた女の息子だ」
は?
「その2。きみは、おれの息子だ」
しつこい。
「その3」
「二つって言ったじゃないですか」
「その3。1と2の両方だ。つまりきみは、おれが惚れた女にひそかに生ませた不義の子だ。そしてその4、1から3までのどれでもない」
「4」
「正解」
笑っています。いつものロットバルト。
まただ。はめられた。ものすごく動揺してしまいました。何がしたいんだこの男。けっきょくよくわからないじゃないか。
「お、来たか」
水音があまりに静かで、気がつきませんでした。どこから泳いできたのだろう。まさか、向こう岸から? 黒鳥、かと思った。いままで見えていなかったものが、突然見えるようになったのかと。黒い鳥が首をもたげたように見えたのは、長い髪を頭頂にまとめあげていたからで、ふわり、ふわり、と白い光が息をするように動いてくるのは、服を着たまま泳いでいるからなのでした。ロットバルトの片手を借りて桟橋によじのぼってきて、その髪と服からたっぷり水をしぼっています。こんな生き物を初めて見ました。布は濡れるとこんなに透けるのだということも初めて知りました。
「誕生日おめでとう、オディール」
「あたしの誕生日は先月よ、パパ」
「気にするな。プレゼントだ。ずっと欲しがってただろう」
「何」
「弟」
「うそ! 嬉しい」つかつかと歩いてきて、大きな目でぼくを見上げました。黒髪なのに、ブルーの目。何か、野生動物のような。「この子ね、かわいい!」
「紹介しよう。ジークフリートくんだ」
「強そう、名前だけは」
「いまから強くなるさ」
「じゃ期待して待つ。ありがとう、パパ」
いきなり、濡れた両手がぼくの顔をはさみ、何かひじょうに柔らかいものが唇に押しつけられました。
それは——それはないんじゃないのか。
こんなに無礼なことを他人にされたことがなかったので、怒るタイミングを完全に逃しました。怒る? 逆上したってよかったのだと思うのです。いまでも思い出すと全身の血が頭にのぼってきます。初めてだったとは言いません。でもそれは、あくまで母上限定だったわけで——
ロットバルトをふりかえると、さすがの彼も、あぜんとしています。
「オディール、やりすぎだ」
「妬いた? じゃパパにも」
「んん」
この、父娘。
問題あるとか、反則とか、言う以前に、こいつらにそもそもルールはあるのか。やっぱり悪魔なのか、二人して。頭の中が、真っ白でした。笑うな、ロットバルト。オディールとかいうおまえもだ。人を、人を何だと思ってるんだ。
舌を入れるな。